城山キリスト教会説教
二〇二四年三月一七日
豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一章一九節〜三四節
 ヨハネの福音書連続説教4
   「バプテスマのヨハネの証言」
 
 19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。20 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません」と言明した。21 また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」22 そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」23 彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」24 彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。25 彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」26 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」28 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
 29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(新改訳聖書第三版)
 
 前回までに読んだ1章1節から18節までは、ヨハネの福音書の序文にあたります。そして、今日の19節からはイエス様の生涯の具体的な記録が紹介されていきます。その最初が「バプテスマのヨハネの証言」です。
 皆さん。私たちは、自分がまだ知らない人に会うとき、すでにその人を良く知っている人からの紹介があると安心ですね。例えば、私が城山教会に赴任する前、多くの方は「豊村臨太郎という人は、いったいどんな人物だろう」と思われたと思います。だから、関根先生が皆さんに私を紹介して下さいました。「彼は、神学校を出た後に太平洋放送協会に入り、十年以上、私と一緒に放送伝道の働きをしてきました。数年前から東京の教会で牧会の働きを始めました。彼は、私と同じ牧師の息子で三男、しかも、中高バスケットボール部だったことまで、私と共通しているのです…」そのように時間をかけて私をみなさんに紹介してくださいました。その証言を聞いて皆さんは私を受け入れてくださいました。
 ヨハネは、イエス・キリストが世界を創造された「神のことば」なるお方」で、そのお方が人となってくださり、信じる者に決して失われることのない「いのち」を与える「救い主」だと宣言しています。そして、そのお方について、福音書を読んだ人がはっきりと知り信じることができるように、イエス様に実際に会った人、イエス様の声を聞きみわざを目撃した多くの人の証言(あかし)を紹介していきます。その最初の人物が「バプテスマのヨハネ」です。ヨハネ1章34節で、彼自身が「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」(ヨハネ1・34)と言っている通りです。
 ですから、今日はバプテスマのヨハネがどんな人物で、イエス様について、どのような証言したのかをみていきましょう。
 
1 バプテスマのヨハネ
 
 バプテスマのヨハネが登場した頃、人々は神様のメッセージに飢え渇いていました。旧約聖書最後のマラキという人から400年の間、預言者が起こされなかったからです。そこに登場したのがバプテスマのヨハネです。彼は「荒野に住み、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と書かれています。とってもワイルドですね。彼は荒野で叫んでいました。「罪を悔い改めてバプテスマ(洗礼)を受けなさい!」と。ヨハネの噂はまたたくまに広がりました。「おい、知っているか?最近、荒野に変な奴がいるらしいぞ。」「なにやら大声で叫んでいる。」「ひょっとして聖書に書かれている預言者じゃないか?」人々がぞくぞくと集まってきたのです。マルコには「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き…」(マルコ1・5)とあります。多くの人が彼からバプテスマを受けたのです。
 すると、噂を聞きつけて、ある人々がバプテスマのヨハネのもとにやってきました。1章19節です。
 ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。(ヨハネ1・19)
 祭司とレビ人は、エルサレムの神殿で奉仕をする人々です。彼らは世襲制でした。皆さん。ルカの福音書には、バプテスマのヨハネの生い立ちが書かれていますね。彼は祭司ザカリヤの息子でした。本来ならエルサレムの神殿でピシッとした身なりで奉仕していたはずです。でも、いつの頃からか荒野に住み「悔い改めなさい!」と叫んでいたのです。もしかしたら、この時、やってきた人の中にはヨハネの幼なじみや本当なら同僚だった人もいたかもしれません。「自分は毎日神殿で奉仕しているけれども、いつのまにか心が伴わないルーティンワークになっている…」「それに比べてヨハネは、荒野に出て、地位も名誉も関係なく叫んでいるらしい。もしかしたら、彼の生き方が本物かもしれない。」そんな気持ちを抱えていたかもしれません。いずれにせよ、もしヨハネが偽預言者で混乱を起こす存在なら取り締らなければなりません。彼らはヨハネのもとにやってきて、幾つかの質問をしました。
 
2 バプテスマのヨハネへの質問
 
 (1)「あなたはどなたですか」(あなたはキリストですか)
 
 この質問は、前後の文脈からして「あなたはキリスト(救い主)ですか?」という意味です。当時の人々は、救い主を待ち望んでいました。ヘブル語では「メシヤ」といいます。ユダヤを支配していたローマ帝国を打ち破る「メシヤ」神から遣わされて超自然的な力をもつ「メシヤ」など、色々なメシヤ像がありました。そういう空気の中で、度々「我こそメシヤだ!」という人が現れ、混乱や騒動を引き起こしたのです。だから、宗教指導者たちはヨハネのことも警戒し、彼がメシヤだと自称しているのかを確かめたのです。
 ヨハネは、きっぱりとした否定しました。「私はキリスト(メシヤ)ではありません」(ヨハネ1・20)彼らはホッとしたでしょう。二つ目の質問を投げかけます。
 
 (2)「あなたはエリヤですか。」
 
 エリヤは列王記に登場する有名な預言者です。エリヤが祈ると何年も雨が降らなくなったり、天から火が下ったり、また、死んだ子どもが生き返ったりもしたのです。旧約聖書のマラキ書に、エリヤについて次のように書いてあります。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」(マラキ4・5ー6)
 確かにヨハネは人々に悔い改めを促し、父なる神に心を向けさすという点では、この通りです。でも、ユダヤ人たちは、この箇所に、勝手なイメージを付け足していました。「やがて、偉大な預言者エリヤがよみがえって、反対者を一掃する。ついには、メシヤに油を注いで王とするのだ」そんな華やかで目ざましい働きをする「エリヤ像」を作り上げていたのです。だからヨハネは、この質問にも「そうではありません。」、「あなたたちが持っているような華やかなイメージとは全く関係ありません。」答えました。すると、祭司、レビ人が三つ目の質問をしました。
 
 (3)「あなたはあの預言者ですか。」
 
 ここに出てくる「あの預言者」というのは、「モーセのような特別な預言者」のことです。ユダヤ人たちは、「いつか、あのイスラエルをエジプトから導き出した偉大なモーセのような素晴らしい預言者が現れる」と期待して待ち望んでいました。だから、「エリヤでないなら、モーセのような、あの特別な預言者ですか」と聞いたのです。その質問にも、ヨハネは「違います。」と否定しました。
 それにしても、ヨハネは本当に人々から尊敬されていたことが分かりますね。「キリストですか?エリヤですか?モーセ二世ですか?」と質問攻めです。もし自分だったら、そこまで期待されたら、悪い気はしないし、思わずどれかに乗っかってしまいそうです。でも、ヨハネは全てきっぱりと否定しました。
 さあ、困ってしまったのは祭司とレビ人です。一体、「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」(ヨハネ1・22)答えを持って帰らないといけないのですと迫ったのです。するとヨハネはこう自己紹介しました。
 
 (4)バプテスマのヨハネの自己紹介
 
 「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1・23)
 皆さん、このヨハネの福音書の最初で、「ことば」なるイエス様が紹介されました。そして、今日の箇所には「声」に過ぎないヨハネが登場しています。ヨハネはどんなに自分が注目されても、どんなに人々から尊敬されても、期待されても、「人がわきまえなければならない区別」を自覚していたのです。「私は声にすぎない。大切なのは私ではなく、神のことばなるキリストだ」と言ったのです。
 私たちは、時々、「イエス様よりも、自分が評価されたい」と思う時があるかもしれません。だから、ヨハネがいった「私ではなくキリスト」これは私たちにとっても大切なメッセージですね。同時に、私はここを読んで、少し自分の力みが取れるような気持ちにもなりました。なぜなら、「声」は消えるものです。しかし、「声」を通して伝えられる「ことば」は残ります。そう思った時、「自分も消える「声」でいいのだ。私を通してイエス様を紹介することができるのなら、自分自身が人の印象に残らなくても忘れられてもいい」と思えたのです。もちろん、牧師として何かを語るとき「声」を大切にします。少しでも人の心に届くように願って努力します。しかし、最終的に自分自身の「声」を残す必要はなく、イエス様の素晴らしさが伝えられたら、それでよいのですね。
 皆さん。イエス様を信じる私たちは、みんなイエス様を伝える「声」とされています。実際に話すことだけでなく、小さな行動を通してかもしれないし、それぞれの生活の中で皆さんが置かれている、その存在自体が、イエス様をお伝えする「声」とされているのです。
 
3 バプテスマのヨハネの証言
 
 それでは、ヨハネはイエス様について何と言ったでしょうか。「ヨハネの証言」を見てみましょう。
 祭司とレビ人たちがやって来た翌日、ヨハネ1章29節で、ヨハネは自分の方に来られるイエス様をみて、こういったと書かれています。
 
 (1)「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1・29)
 
 当時、ユダヤの人は「小羊」と聞くと、すぐに浮かぶいくつかのイメージがありました。
 一つは、「過越の小羊」(出エジプト12章参照)です。
 昔、イスラエル人がエジプトで奴隷として苦しんでいたとき、神様はモーセを遣わして、エジプトから脱出させようとなさいました。でも、エジプトの王パロはなかなかイスラエル人を解放しませんでした。そんなエジプトに対し、神様は十の災いをお下しになりました。十番目の災いは、「人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を殺す」というものでした。同時に神様は救いの方法も、イスラエルにお示しになりました。小羊を屠って、その血を二本の門柱とかもいに塗っておけば、主はその血を見て過ぎ越してくださるというのです。神様のことばの通り、エジプトの初子はすべて死んでしまいましたが、小羊の血を塗ったイスラエルの家はこの災害を免れました。だから、「小羊」という言葉には、さまざまな「捕らわれた状態から救い出すもの」というイメージがありました。
 二つ目は、「いけにえの小羊」です。当時、神殿では、人々の罪のために、沢山の「いけにえの小羊」がささげられていました。ヨハネは祭司の子です。そのことを熟知していました。ですから、「小羊」は、私たちの「罪を身代わりとなってあがなうもの」というイメージに直結していました。
 三つ目は、「苦難の小羊」(イザヤ53章)です。預言者イザヤは、私たちの病を、罪を、咎を身に負って、苦しみを受けられる「苦難の小羊」の姿を紹介しています。
 四つ目は、「勝利の小羊」です。新約聖書の最後の書物、黙示録には「勝利をおさめる神の小羊」ということばが何度も使われています。
 つまり、ヨハネがイエス様を「神の小羊」と呼んだとき、イエス様こそ「さまざまな束縛から解放し」、「私たちの為に身代わりとなって苦しみを受け」、「罪を完全にあがなってくださるお方」、最終的に「圧倒的な勝利を収めるお方」だと、彼は証言したのです。
 あなたにとってイエス様はどのようなお方ですか。この証言のとおり、「神の小羊」なるお方に「あなたを信じます」と告白するものでありたいですね。
 
 (2)聖霊によってバプテスマを授けるお方
 
 そして、ヨハネは続けてこう証言しました。
 「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1・32ー34)
 ヨハネは、聖霊が鳩のようにイエス様の上にとどまられるのを目撃し、イエス様が「聖霊によってバプテスマを授ける方」であるとわかったと証言しています。
 皆さん。聖霊は、父なる神様、子なるキリストと、同じ本質をもつお方です。聖書が教えている、私たちの信じる神様は、「父」、「子」、「聖霊」という三つの位格(人間で言う人格)をもっておられます。そして、いつも一つの思いと、同じ目的を持って働かれる、唯一の神様です。
 バプテスマ(洗礼)には、「浸す」という意味があります。海の中に沈没したばかりの船を想像してください。形はそのままでも全体が水に浸されている状態です。着物を染料液の中に浸し、その色に染まっていくときに使う言葉です。船も着物もそのもの自体は変わりませんが隅々まで浸されている状態です。
 ですから、イエス様が与えてくださる「聖霊のバプテスマ」は「聖霊なる神様に浸される」ことです。これは、ヨハネの福音書以外にも、聖書に何度かでてくる大切なことばです。このテーマだけで、一回の説教では語りつくせないほど豊かな内容があります。そして、ここでヨハネが語った「聖霊のバプテスマ」の内容は、彼が授けていた「水のバプテスマ」の内容と比較して理解することがとても大切なのです。
 ヨハネが授けていた「バプテスマ」は、神様に背をむけていた人が、悔い改めて神様のほうに向きをかえることでした。そのしるしとしてヨルダン川の水に浸されました。でも、彼の働きはあくまでも「道備え」でした。人が悔い改めて「正しく生きてこう」と決心しても限界があります。だから「救い主」が必要です。
 そこにイエス様がきてくださいました。イエス様は、神様の方に向きを変て「新しく生きたい」と願う人々に対して、「ここから先も自分でどうぞ」「努力してください」「精進して下さい」そう言って、ほうっておかれる方ではありません。「聖霊」を与えてくださるのです。私たちに新しいいのちを与え、いつも共にいて、新しい生き方に導いて下さる「聖霊」に浸してくださるのです。それが「聖霊によるバプテスマ」です。
 そして、第一コリント12章3節で、パウロは「聖霊によらなければ、誰もイエスを主と告白できません」(1コリント12・3)といっています。別の箇所では、キリストを信じる者は、その人の内に聖霊が宿る「聖霊の宮」だとも言われています。つまり、私たちが「イエス様あなたを信じます。あなたは私の主です。」と告白し、心にお迎えするとき、聖霊に浸されるのです。聖霊なる神様が私たちの内に住み、私たちをどっぷりと浸し、いつも共にいてくださるのです。
 ここにおられる多くの皆さんは、すでにイエス・キリストを信じ、告白されましたね。神様の方に方向転換しました。イエス様を心に迎え、罪赦されました。神の子とされました。聖霊なる神様にどっぷりと浸されているのです。自分は何も変わっていないようで、聖霊に浸されて、聖霊がいつもともにいてくださるのです。
 もちろん。体験や感じ方は違います。人と比べる必要はありません。ある人は感動と喜びがわき上がり、涙を流すかもしれません。いつも見ていた景色が輝いて見えたという方もおられます。特に何も感じないという方もおられます。体験はそれぞれでいいのです。共通しているのは、イエス様を信じ心にお迎えしたなら、みんな、聖霊に浸されているのです。
 そして、聖書は素晴らしいことに、私たちの歩みは聖霊に浸され続けていく、満たされ続けていく歩みだと教えているのです。聖霊によって、父なる神様の愛を、イエス様の恵みを、その豊かさを深く深く味わうことができるのです。ガラテヤ書にあるように、愛、喜び、平安という豊かな聖霊の実が私たちのそれぞれの人生に実らされていくのです。
 皆さん。今日は、「バプテスマのヨハネの証言」に耳を傾けました。バプテスマのヨハネは、1章34節でこう言っています。
 「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1・34)
 前回、ダニエル書で語られたようにイエス様は「人の子」としてこられました。私たちと同じ「人」となってくださったお方です。だから、私たちのことを理解してくださるお方です。そして、イエス様は「人の子」であると同時に「神の子」です。私たちに完全な救いを与え、聖霊で満たし、豊かな恵みの中に生かし続けてくださるお方です。「人の子」であり「神の子」であるイエス様に信頼しつつ、私たちを浸してくださっている聖霊に身をゆだね、この週も歩んでまいりましょう。