城山キリスト教会説教
二〇二四年四月七日           豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一章三五節〜五一節
 ヨハネの福音書連続説教5
   「イエスに出会った弟子たち」
 
 35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。
40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。
42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
 43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(新改訳聖書第三版)
 ヨハネの福音書は、イエス様が救い主であることを、多くの目撃証言によって伝えています。前回、私たちはその一人目である「バプテスマのヨハネの証言」を読みました。彼はイエス様を「神の小羊」と呼びました。「イエス様こそ、私たちのすべての罪を背負い、身代わりとなって苦しみを受け、罪の赦しと救いを与えてくださるお方だ」という証言です。また、彼はイエス様を「聖霊によるバプテスマを授けるお方」だといいました。私たち、イエス様を信じる者の内に住み、いつも共にいて助けてくださる「聖霊」を与えてくださるという証言です。 そして、この証言通り、今、イエス様を信じる私たちは、十字架と復活によって罪が完全に赦されました。そればかりでなく、助け主なる聖霊が私たちのうちに住んでくださって、いつもそのお方の助けの中で生きていくことができるのです。
 さて、今日の箇所には、そのような証言をしたバプテスマのヨハネの弟子から、イエス様の弟子になった人のことが記されています。
 
1 ヨハネの弟子からイエス様の弟子へ
 
 バプテスマのヨハネは、当時の人々からとても尊敬されていましたので「あなたに従っていきたい」と願う弟子たちがいたようです。あるとき、ヨハネが二人の弟子と一緒にいるとイエス様が来られました。ヨハネはイエス様を見て言いました。「見よ、神の小羊」(ヨハネ1・36)そばにいる弟子たちに「見なさい。このお方は神の小羊、救い主だ」と伝えたのです。「すると、ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。」(ヨハネ1・37)とあります。
 皆さん。あまりにもあっさりしすぎじゃないですか。普通、「あなたの弟子になります」と言っていた弟子たちが、簡単に他の人に着いていったら、どう思われますか。自分だったら心穏やかではないかもしれません。しかし、バプテスマのヨハネは、弟子たちがイエス様のもとへ行ってしまっても、何の不満も示しませんでした。彼は以前こう言っていましたね。「イエス様は私より遙かに優れた偉大なお方です。その方の靴の紐を解く値打ちもありません。」「自分はそのお方を示す声です。」彼は、そのことばの通り人々がイエス様に出会い従っていくことを喜んだのです。素晴らしいですね。
 さあ、ヨハネのもとから二人の弟子がイエス様に近づいていくと、イエス様は振り向いて彼らがついて来るのを見てこういわれました。「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1・38)
 実はこれがヨハネの福音書の中で、最初にイエス様が語られたことばの記録です。これから、イエス様はいろいろなことばを語られるのですが、その第一声が「あなたがたは何を求めているのですか?」という問いなのです。
 とても象徴的ですね。イエス様の私たちへの関心は「私たちがイエス様に何を求めるのか」ということなのです。イエス様は私たちの求めや願いを知りたいと思っておられるのです。
 みなさんなら、この質問にどうこたえますか。以前、ニュースで一般の人へ「あなたの欲しいものは何ですか?」というアンケートがありました。一番多かった答えは「健康」でした。確かに健康は大切です。でも、ある人はお金かもしれません。ある人は良い仕事、立場、友だち…。数えだしたらキリがありませんね。私たち人間はいろいろなものを求めます。でも、どうでしょう。どれか一つに絞りなさいといわれたら。自分が一番もとめているものは何なのか、自分でもよく分かっていないのかもしれません。イエス様は、そんな私たちにストレートに聞かれます。「あなたは何を求めているのですか?」「何に飢え渇いているのですか?」なぜなら、イエス様は、その求めや願いに答えてくださるお方だからです。
 さあ、イエス様の質問に対して彼らはこう言いました。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」(ヨハネ1・38)彼らはイエス様の滞在場所を聞いたのです。いい質問ですね。何故なら、イエス様と一回だけ会って「ハイ、さようなら」でなく、イエス様のおられる場所を知ることができたら、何度も会うことができるからです。彼らはイエス様と過ごしたいと思ったのです。
 すると、イエス様はおっしゃいました。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。(ヨハネ1・39)とあります。「第十時ごろ」は夕方4時頃です。弟子たちはイエス様と食事をして楽しい時間を過ごしました。もしかしたら、翌朝まで語り合ったかもしれません。そして、イエス様との親しい時間を過ごした、この時から、彼らの弟子としての歩みがスタートしたのです。
 聖書は、私たちクリスチャンは「キリストの弟子」だと教えています。「弟子」と聞くと、「修行して、訓練に耐えて」というイメージを持つかもしれません。しかし、イエス様の弟子は、この箇所からもわかるように、イエス様と共に親しい時間を過ごすことから始まっていくのです。今の私たちでいえば、こうやって礼拝を捧げることもそうです。聖書から教えられ、励ましを受けることです。イエス様の恵みと安らぎを味わうこともそうです。そこから「キリストの弟子」としての歩みがスタートしていくのです。
 さあ、弟子たちは、そうやってイエス様との豊かな時間を過ごしたことが、この後の行動へと繋がっていきます。彼らは兄弟や友人をイエス様に紹介するのです。40節以降に、四人の弟子の名前が挙げられています。
 
2 四人の弟子たち
 
 (1)アンデレ
 
 先ほどヨハネからイエス様の弟子になった二人のうち一人です。(もう一人の名前は書かれていませんが、おそらく福音書記者のヨハネだと思われます。)アンデレは自分の兄弟シモン(後のイエス様の一番弟子となったペテロ)に、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」(ヨハネ1・41)と言って紹介したのです。
 実は、アンデレは、この後、新約聖書でほとんど表舞台に出てきません。アンデレの唯一の見せ場はここだけといっても過言ではなのです。自分が最初にイエス様に従った弟子です。シモン(後にイエス様の筆頭弟子となるペテロ)を導いたのです。なのに、自慢もアピールもしません。ここから先、アンデレにスポットは当らないのです。アンデレがしたことで記録されているのは、「イエス様を紹介しよう。」そこから先はイエス様にお任せでした。
 アンデレの姿から励まされますね。「とにかくイエス様を紹介しよう。イエス様のもとに連れてこよう」「そうすれば、イエス様が最善をなしてくださる。」これなら、自分にも出来そうですね。
 
 (2)シモン・ペテロ
 
 アンデレに連れられて、イエス様のところに着たシモンに対して、イエス様はこう言われました。
 イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(ヨハネ1・42)
 イエス様は彼に「目を留め」られました。「じっとみつめる」「いつくしみを込めて見る」という意味のことばです。イエス様は、彼をじっと見つめて、「ケパ(ペテロ)」という名前をつけられました。「岩」という意味です。これから後、いろんな経験をしたペテロが、キリスト教会のリーダー、土台となることが示されています。それをイエス様はご存知で「見つめ」られたのです。
 福音書を読むと、ペテロは調子が良いときもあれば失敗をする時もありました。十字架の前には「イエスなんて知らない」と三度も否定したのです。でも、その時(ルカの福音書には)イエス様は、振り返って「ペテロを見つめられた」とあります。ここでの「目を留めて」と全く同じことばです。イエス様は、ペテロの長所も短所も過去もこれから先のこともすべてご存じでした。そして、十字架と復活の後に聖霊が注がれ、彼が教会のリーダーとなることも、既にご存じで、イエス様は彼に「目を留め」られたのです。この「まなざし」があったからこそ、後に彼は網を置いてイエス様にしたがっていくことができたのです。
 同じようにイエス様は私たちのこともご存知です。目を留めてくださっています。それは、けして厳しい叱責のまなざしではなく、私たちの良いところも、悪いところも、失敗も、すべて知った上で、それでもなお「見つめて」くださるまなざしなのです。
 
 (3)ピリポ
 
 次はピリポです。
 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。(ヨハネ1・43−44)
 アンデレ、ペテロ、ピリポ、イエス様と出会い方はそれぞれでしたが共通点もあります。彼らはガリラヤのベツサイダという町の出身でした。ベツサイダはガリラヤ湖北部にある漁村です。エルサレムから遠く離れた田舎町です。人間的な常識から考えれば人口が多い都会の方が良い人材が見つかりそうです。しかし、イエス様はエルサレム周辺ではなく、あえてガリラヤの無学な人を「見つけて」声をかけられたのです。「見つけて」は「求めていたものを探して見いだす」という意味です。イエス様はピリポという人を探し求めて見出されたのです。
 そして、「わたしに従ってきなさい」と声をかけられました。「従ってきなさい」と聞くと、強引な感じを受けるかもしれません。でも、これは「道を伴にしよう」と意味です。マラソン選手がコーチと平行に走って「伴走する」姿です。イエス様の「従いなさい」は、「俺の後ろをついてこい!」「脱落してはだめだぞ!」ではなく、イエス様が横に並んで、イエス様が進まれる道を共にする姿です。言い換えるなら、イエス様の方が私たちに歩調を合わせて伴走して下さるのです。
 
 (4) ナタナエル(バルトロマイ)
 
 ピリポは、友人ナタナエルイエス様を紹介します。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」(ヨハネ1・45)つまり、「私は、旧約聖書で預言された救い主メシヤについに会うことができた!ナザレのイエスという人だ」と知らせたのです。
 ナタナエルはこう言いました。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1・46)「ナザレだって、馬鹿なことを言うな。救い主があんなガリラヤの田舎から出るはずがない!」ナタナエルには先入観と疑いがあったのです。(これは当時、多くのユダヤ人たちが持っていた考え方でした。)
 自分がピリポだったらシュンと落ち込んだかもしれません。もしくは、「いやいや、そうじゃなくて」と説得を試みたかもしれません。でも、ピリポは「来て、そして、見なさい。」(ヨハネ1・46)といいました。「とにかく自分で確かめてみてほしい」と、イエス様のもとに連れてきたのです。
 するとイエス様がナタナエルに言われました。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(ヨハネ1・47)要するにイエス様はナタナエルを褒めたのです。「彼こそ神の民イスラエルの中のイスラエル」と褒められたのです。どうしてでしょうか。それは、イエス様は彼の心の奥をご存じだったからです。ナタナエルが、ずっと真理を探し求めていたことを知っておられたのです。
 それは、イエス様の次のことばからわかります。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(ヨハネ1・48)私たち日本人は「どういう意味か」と思いますね。当時、ユダヤ人たちはいちじくの木の日陰に座って黙想し祈る習慣があったそうです。ナタナエルも木の下で祈り人生の意味や救い主について思い巡らしていたのでしょう。イエス様はそれをご存じだったのです。そして、「ナタナエル、あなたは熱心に真理を求めて救い主を待ち望んでいるのですね。」と言われたのです。ナタナエルの心にある疑いよりも、そのもっと奥にある「救い主」を求める心を見つめられたのです。
 彼は驚きました。「この人は私を知っている!」そして、自分を見つめるイエス様のまなざしに感動し、彼の心は開かれました。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1・49)そう言って、イエス様についてゆく決心をしたのです。
 そして、イエス様は最後にこう語られました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1・51)「神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」というのは、ユダヤ人なら誰でも知っていた出来事でした。創世記28章に出てくる「ヤコブの夢」です。
 ヤコブは長い旅の途中、野宿をしている時に夢を見ました。天と地の間に一つのはしごが立てられて、不思議なことに、そのはしごを神の使いたちが上り下りしているという夢です。その夢の中で神様が現れて「わたしはいつもあなたとともにいる」と励まされたのです。イエス様は、その有名なヤコブの夢を引用して言われたのです。「わたしこそが、天と地、神と人との間にかけられた『はしご』なのです」つまり、イエス様こそ神様と人とをつなぐ唯一の道であり、神様と人との関係を回復することのできる「救い主」だということを示されたのです。
 ヨハネの福音書14章6節でイエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14・6)と言われました。そして、「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」とも言われました。イエス様という「救いの道」によってのみ、私たちは神様との関係が回復されるのです。イエス様はこの時、ナタナエルと弟子たちに「あなたがは、その素晴らしい救いのみわざを見ることになるのです。」そう言って、彼らを招かれたのです。
 みなさん。今日の箇所に登場したイエス様の弟子たちとイエス様との出会いはみんなそれぞれに違いました。でも、共通していたことがあります。それは、イエス様の「まなざし」と「招き」です。
 アンデレは、バプテスマのヨハネのもとから、イエス様についていきました。その時、イエス様は「彼らがついて来るのを見て、言われ」(ヨハネ1・38)ました。「あなたはわたしに何を求めるのか」と問いかけ、そのことばに招かれて、彼はイエス様についていきました。
 ペテロもそうです。イエス様は彼に「目を留めて言われ」(ヨハネ1・42)ました。彼のすべてをご存じの上で、彼を見つめて「あなたはこれから後に大切な働きをするようになる」と言われたのです。
 ピリポも、イエス様が「見つけて言われ」(ヨハネ1・43)ました。「わたしについてきなさい。」「わたしが伴走するから。ともに人生を歩んでいこう」と声をかけられたのです。
 ナタナエルも、イエス様は彼を「見て、彼について言われ」(ヨハネ1・47)たのです。「わたしはあなたが救い主を求めていたことを知っている。これから、あなたはその素晴らしい救いをみる」と彼を招かれたのです。
 このように「イエス様と弟子たちの出会い」には、常にイエス様の「まなざし」が先行しているのです。そして、それぞれにあったことばをかけて招いていてくださったのです。
 みなさん。私たちも同じです。みんな教会に足を運んだ時期も、イエス様を信じクリスチャンになったきっかけも違います。
 でも、共通しているのは、イエス様が「見つめて」「見出してくださった」のです。そして、イエス様が語りかけてくださったのです。「あなたは何を求めているのですか」「わたしがあなたを満たそう」「わたしはあなたを知っている」「わたしと共に人生を歩もう」その「まなざし」と「招き」に応えて、今、私たちはイエス様と共に歩んでいます。
 ヨハネの福音書14章16節にこうあります。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ14・16)
 ここにあるように、私たちはイエス様に愛され、見出され、選ばれた一人一人です。その恵みの中をイエス様とともに歩んでまいりましょう。