城山キリスト教会説教
二〇二四年四月二八日           豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書二章一節〜一一節
 ヨハネの福音書連続説教6
   「最初のしるし」
 
 1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、−−しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた−−彼は、花婿を呼んで、
10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(新改訳聖書第三版)
 
 ヨハネの福音書を少しずつ読んでいます。前回はイエス様と弟子たちとの出会いの箇所でした。アンデレ、シモン(ペテロ)、ピリポ、ナタナエル(バルトロマイ)の4人が紹介されました。彼らはそれぞれ個性も違い、イエス様との出会い方も違いましたが、共通点がありました。それは、イエス様が彼らを「見つめて」「声をかけてくださった」ということです。イエス様の「まなざし」と「招き」に応えて、彼らはイエス様の弟子としての歩みを始めたのです。
 私たち、今日ここに集っている一人一人も、みんなクリスチャンになった背景もきっかけもそれぞれです。でも、みんな違う中でも、イエス様が「私についてきなさい」と招いてくださり、それに応答して、今朝もこうやって一緒に礼拝を捧げる者とされているのです。
 さて、今日の箇所には、イエス様がなされた「最初のしるし」(奇蹟のみわざ)が書かれています。
「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。」(ヨハネ2・11)
 ヨハネの福音書では、イエス様が行われた奇蹟的なみわざのことを「しるし」と呼んでいます。それは、イエス様が「どのようなお方で、どんな目的で」来てくださったのかを示す「みわざ」です。ヨハネは、それを「しるし」と呼んで記録しているのです。その一番「最初のしるし」が今日の出来事、ガリラヤ地方のカナの婚礼でイエス様が水をぶどう酒に変えてくださった出来事です。
 
1 カナの婚礼で
 
 ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。(ヨハネ2・1−2)
 カナはガリラヤ地方にある町です。イエス様が育ったナザレから北に一五キロほどいったところにありました。そこで婚礼の祝宴が開かれたのです。当時のユダヤの婚礼は家を解放して一週間祝宴を催したそうです。今の日本とは違いますね。でも、私は少しイメージすることができます。高校卒業したあと半年間、インドネシアの奥地カリマンタンに滞在したことがあります。その時、結婚式に参加したのです。日本とは違って数日間、宴会が続きました。文化や時代によって結婚式のスタイルもさまざまですね。でも、共通しているのは花嫁と花婿を祝う喜びの宴です。この時ばかりは新郎新婦が主役です。人生でもっとも幸せな時でもあります。その婚礼にイエス様の母マリヤ、そして、イエス様と弟子たちも招待されたのです。マリヤは、おそらく花婿か花嫁の親戚だったようです。食事の用意を手伝ったり、お世話をしていたのでしょう。豪華な料理が振る舞われ、ぶどう酒もだされていました。
 すると、予期せぬハプニングが起きたのです。なんと祝宴の最中にぶどう酒がなくなってしまったのです。マリヤは焦りました。「どうしようかしら、このままでは人々に気づかれてしまう。若い二人の門出なのに恥をかかせてしまう。」マリヤはこっそりイエス様のところに近づいてこう言いました。
「ぶどう酒がありません」(ヨハネ1・3)
 彼女は、これまで30年間イエス様と一緒に生活してきました。この時はおそらく40代後半です。夫ヨセフは早く亡くなったと考えられます。困ったときにはいつでも長男であるイエス様に相談し頼っていたのでしょう。マリヤは、普段のように、「ちょっと聞いてちょうだい。ぶどう酒がなくなってしまったの。ほんとに困ったわ。」今起きている事態をそのままイエス様に伝えたのだと思います。
 
2 イエス様のことば
 
 するとイエス様はマリヤにこう言われました。
「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ1・4)
 皆さん。このことばを聞いてどう思われますか。なんだか突き放したような冷たい言葉ですね。でも、それは日本語の翻訳と文化の違いによる印象の違いなのです。
 
(1)「女の方」
 
 「女の方」という呼び方は、当時、親しい女性に尊敬を込めて話しかけるときの呼び方でした。ですから、イエス様は母マリヤに親しみと尊敬を込めて「尊敬するお母さん」と呼びかけられたのです。
 
(2)「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」
 
 これも冷たく感じますね。でも直訳はこうです。「わたしにとって何か、そして、あなたにとって」これは、当時の慣用句で「私とあなたの関心ごとは、同じではありません。」という意味だそうです。この時、母マリヤの関心は「ぶどう酒がないと婚礼の祝いが台無しになってしまう」でした。では、イエス様の関心は何だったのでしょう。次のイエス様のことばから、推測することができます。
 
(3)「わたしの時はまだきていません」
 
 ヨハネの福音書に出てくる「時」は、これから何度も出てくるのですが、イエス様の「十字架と復活」を指しています。これから先、イエス様が罪のために十字架に架かり、罪の赦しと救いを与えてくださるという「みわざ」をなす「時」のことです。つまり、イエス様は「ぶどう酒が象徴する十字架のみわざ」をなさるためにこの地上にこられましたが、その「時」は、まだ来ていないとおっしゃっているのです。
 ですから、ぶどう酒がなくなり慌てるマリヤに言われた、イエス様のことばの意味はこう理解できます。
 「お母さん。わたしの関心とお母さんとの関心とは少し違います。わたしが成すべき働き、使命を成すときはまだ来ていません。でも、心配しないでください。今のこの事態も、わたしの方法で解決しましょう。」
 おそらく、マリヤはイエス様の言われたことの全てを理解できなかったでしょう。「一体どういうことだろう」と思ったはずです。でも、彼女はたとえ全部を理解できなくても、イエス様のことばを受けとめたのです。イエス様を信頼したのです。
 皆さん。私たちもいろんな問題に直面し、自分ではどうしたらいいかわからないときがありますね。でも、今日の箇所から知っておきたい大切なことは、私たちの関心や期待する方法と、イエス様の関心や解決の方法は、時に違う場合があるということです。それでも、イエス様は私たちをご存知で「大丈夫。わたしにまかせなさい」と語り、最善をなしてくださるのです。
 
3 水がぶどう酒に
 
 さあ、イエス様のことばを聞いたマリヤはどうしたでしょうか。5節には、こう書いてあります。
 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ1・5)
 そこには、「ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。」(ヨハネ2・6)とあります。大きな水瓶ですね。大きなドラム缶一つが約200リットルですから、半分くらいの容量の水がめです。
 この水がめは、当時のユダヤの習慣で各家庭に置かれていた、きよめの為の水をいれる水がめでした。ユダヤの人たちは外から帰って家に入るときや、食事の前に汚れた身を清めるために水で手足を洗いました。衛生的な理由よりも、宗教的な理由で行っていたのです。イエス様は、その「きよめの為」の「水がめに水を満たしなさい。」と言われましした。そして、彼らは水がめを縁までいっぱいにした。(ヨハネ2・7)とあります。
 イエス様は続けていわれました。
「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」(ヨハネ2・8)
 皆さん。想像してみてください。手伝いのものたちは戸惑ったでしょう。中身はただの水です。「いやいや、無理でしょう。」私だったらそう考えます。でも、イエス様はおっしゃったのです。「今、くんで持っていきなさい。」見た目も香りもぶどう酒ではない、ただの水をもっていくというのは戸惑いがあったでしょう。でも、手伝いの者たちは言われた通りに運んだのです。
 宴席にその水が届いて世話役がそれを味見すると、なんと芳醇な香りの上等なぶどう酒に変わっていたのです。それを飲んだ世話役がいいました。
 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(ヨハネ2・10)
 不思議ですね。水がどの段階でどんなプロセスを経てぶどう酒に変わったのか、聖書に書いてないのでわかりません。 でも、確かにぶどう酒に変わったのです。福音書にはイエス様がなさったいろんな奇蹟が記されています。時には、「嵐を静まれ」とはっきりと命じられて嵐を静められたこともありました。御手を伸ばし病気の人に触れた瞬間、癒してくださることもありました。でも、今日の箇所でイエス様は「水よぶどう酒に変われ!」とも、水を手でかき混ぜることもなさいませんでした。ただ、「水を汲んでもっていきなさい」と言われただけです。でも、人々のところに届いたときには、確かにみわざが起きていたのです。
 イエス様は、私たちに対しても、時々(本当にまれにですが)すぐにはっきり分かる形でみわざをなさる時もあります。でも、いつの間にか、私たちも気づかないうちに働いてくださることもありますね。
 
 さあ、皆さん。今日の「カナの婚礼」の出来事から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。色々なことを教えられますが、特に三つのことをご一緒に考えたいと思います。
 
(1)イエス様は、私たちが直面する出来事(小さいと思えるような問題の中)に働いてくださる
 
 初めに紹介したように、カナはガリラヤの小さな田舎町です。そこで開かれた婚礼は名前も記されていない新郎新婦のささやかな結婚式です。でも、そこにイエス様はいてくださり、その宴で起こった問題を解決してくださったのです。若い夫婦が恥を見ないように、列席した人々の喜びが妨げられないように、二人の門出を祝福できるように、イエス様は配慮してくださったのです。
 そうであるならば、イエス様は私たちの日々の生活の中にも働いてくださいます。他の人から見たら小さいと思われるような問題に対しても、私たち自身が自分のことを小さな存在だと思ったとしても、イエス様はそこにいて最善をなしてくださいます。イエス様は私たちをご存じで、イエス様の方法で、イエス様の時に解決を与え、みわざを表してくださるのです。だから、私たちもマリヤのように「イエス様、困りました。どうしたらいいでしょうか」と、お伝えしていきましょう。
 
(2) 「水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」
 
 この「手伝いのものたち」は、おそらく、その家に仕えていた「しもべたち」でしょう。彼らはマリヤの「あの方(イエス様)がいうことを、何でもしてあげてください」という言葉をきいて、そして、イエス様の言うとおりに行動しました。イエス様が「水がめを満たしなさい」と言われたら、その通り行いました。「さあ、今くみなさい」と言われたから、水をくみました。「宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われたら、言われる通り運んだのです。
 その家の「しもべ」ですから、言われたことをその通りに淡々従ったのです。もちろん、心の中には疑問も起こったでしょう。「ぶどう酒を買ってきなさいではなく、なぜ、水がめを満たせなんていうのだろう。」「ただの水をもっていくなんて」そう不思議に思いながらも、しかし、「しもべ」ですから言われたとおりに通りにしたのです。
 その結果、最終的に水がぶどう酒に変わったという奇蹟を彼らは「知った」のです。宴会の世話役も、参加者も知らない出来事を、裏方である彼らが知ったのです。「ほんとに水がぶどう酒に変わった!」「このお方はすごいお方だ!」と、イエス様の素晴らしいみわざを経験したのです。
 皆さん。私たちの生活もある意味で淡々とした歩みですね。それぞれ置かれた場所で、なすべきことをする日々です。クリスチャンになったからといって、いつも特別な出来事を経験するわけではありません。毎週の礼拝も、もちろん、時には特別な感動を覚える時もありますが、多くの場合は、あまり変わらないプログラムでいつものように礼拝を捧げます。
 毎週、聖書の言葉を聞く中でよくわからないこと、本当だろうかと思うこともありますよね。でも、聖書の中でイエス様が「恐れるな。私がともにいる」とおっしゃるから、そのことばを握って生きていく、すると不思議に安心が与えられることがあります。また、「祈りなさい」とありますが、「祈ってどうなるんだろう」と思うこともあります。でも、聖書のことばにあるように、あえて祈ることき、主はいろんな方法で、主の時に答えてくださいます。
 そして、そういう歩みを振り返るときも「確かに、あのことの中にもイエス様が働いてくださった。このこともイエス様がしてくださったのだ」と思える歩みに生かされていることを知ります。
 「水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」とあるとおり、たとえ他の人がわからなくても、自分はそのことを知っているのです。「私の人生を変え、私を守り、支えてくださっているのはイエス様なのだ。」「私はそれを知っている」そう告白することのできる信仰の世界に私たちは生かされているのです。
 
(3) 「水がぶどう酒に変わった」ことの意味
 
 今日の箇所の最後2章11節には、「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。」(ヨハネ2・11)とあります。この「最初のしるし」として「水がぶどう酒に変わった」ことの意味をもう一度考えたいのです。
 イエス様が「水をぶどう酒に」変えてくださったとき、もちろん、婚礼に来た人は驚いて喜んだでしょう。マリヤもほっとしたでしょう。それ自体、素晴らしい出来事です。
 そして、聖書全体から考えるとき、イエス様は最後の晩餐でぶどう酒の杯をとって「これはわたしの契約の血です」とおっしゃいました。また、「わたしが流す血です」とも言われました。福音書を読めば「ぶどう酒」が「イエス様の十字架の血」を表すものとして比喩的に使われていることがわかります。
 だから、「きよめの水をぶどう酒に変えた」ということは、当時の人々がいつも身を清めていた水ではなくて、イエス様の血によって私たちをきよめてくだるということが、この出来事にあらわされているのです。
 先ほど見たように、当時の人々は大きな水がめをわざわざ家の中においていたのです。そこに水を汲んで、毎日毎日、外出する度に食事の度に手足を洗って身を清めていたのです。彼らにとって大切なことでした。自分を清める手段はそれしかなかったからです。もちろん、「こんなことして何になるのだろう」「本当にきよめられるのだろうか」そう思った人もいるでしょう。でも、大前提として彼らにとって守るべき大切な儀式だったのです。
 イエス様は、その「きよめの水」をぶどう酒に変えてくださったのです。つまり、繰り返し繰り返し自分で自分の身を清めるという世界から、たった一度流されたイエス様の十字架の血によって、それを信じることによって、完全に聖くされ、完全な赦しが与えられるという恵みです。聖書の中で「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1・7)と書いてある通りです。
 そう考えたら、安心ですね。ほっとします。だって、今、私たちに「きよめの水」は必要ないのですから。時々、私たちは「これをしなければ」「あれもしなければ」と戒律的なことを考えてしまいます。もちろん、自分を律することは大切ですし、神様の前に正しく生きたいと願うことは自然なことです。でも、自分の力でそれをしようとすると疲れてしまいます。自分で自分をきよめ正しく生きることは無理なのです。
 だから、そんな私のためにイエス様が来てくださいました。イエス様が、あの十字架によって私たちを完全にきよめてくださったのです。イエス様の正しさを与えてくださったのです。それだけではありません。あの宴会の世話役が「良いぶどう酒だ」といったように、イエス様は私たちのうちに良いものを与えてくださいます。平安を、喜びを、愛を与えてくださいます。そして、信じる者に与えられる聖霊によって少しずつ、少しずつ、私たちを造り変えてくださるのです。
 そのようなイエス様と共に生きる歩みを振り返る時、「水をくんだ者たちが知っていた」とあるように、私たちも「ああ、確かにイエス様が私の人生に働いてくださった。私はそのことを知っている」そういう告白しながら生きることができるのです。その素晴らしいイエス様の恵みに生かされていること感謝し、主を礼拝しながら、主と共にこの週も歩んでゆきましょう。