城山キリスト教会説教
二〇二四年五月一九日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書二章一三節〜二二節
 ヨハネの福音書連続説教7
   「宮きよめ」
 
 13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。(新改訳聖書第三版)
 
 ヨハネの福音書を少しずつ読んでいます。今日の箇所は、イエス様が公の活動を始められてから初めてエルサレムの神殿に行かれた時になさった「宮きよめ」と呼ばれる出来事です。別にイエス様が神殿の中をほうきで掃いて、雑巾がけをして綺麗に掃除したわけではありません。当時の神殿には、動物を売り買いする「商売人」や「両替人」がいたのですが、イエス様が彼らを神殿から追い出された出来事です。
 ところで、今日の聖書箇所を読んで、ある方は「あれっ」と思われたかもしれません。それは他の福音書では、この「宮きよめ」の出来事がイエス様の三年半の公生涯の終わりの方の出来事として記されているからです。もちろん。聖書全体の内容は矛盾するものではないので、この違いについてはいろいろ考えられます。イエス様は、エルサレムに行く度に、何度か「宮きよめ」をなさったのかもしれません。あるいは、この福音書を書いたヨハネが、イエス様がこの世に来られた意味をはっきりと示すために、まず「宮きよめ」の出来事をイエス様の活動の初期に記したのかもしれません。いずれにしても、今日の出来事は他の福音書にも記録されているように、とても大切な意味があることに間違いありません。今日はそのことをご一緒に考えていきましょう。
 
出来事の背景
 
 2章13節に、この出来事の背景が書かれています。
 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。(ヨハネ2・13)
 エルサレムでは毎年春になると「過越の祭り」が行われました。これは、ユダヤ人にとって最も大切な祭りです。昔、エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民が、モーセによってエジプトから脱出した出来事に由来する祭りです。エジプト王パロは、心を頑なにしイスラエルがエジプトを出て行くことをなかなか許しませんでした。神様はエジプトに十の災いを次々とお下しになりました。十番目の災いは「エジプト中のすべての初子を殺す」というものでした。ただし、神様は救いの方法を示されたのです。それは、小羊をほふりその血を門柱と鴨居に塗った家は神様が災いを下すことなく、過ぎ越すというものです。神様が言われたとおり、小羊の血を塗ったイスラエル人の家は無事でしたが、血を塗らなかったエジプトの初子は人から家畜の初子に至るまで一夜のうちに死んでしまいました。その出来事に恐れたエジプトの王は、ついにイスラエル人が出て行くことを許可したのです。
 「過越の祭り」は、このエジプト脱出の出来事を記念して喜び祝う祭りです。毎年、世界中から沢山のユダヤ人がエルサレムに集まりました。多い時には二百万人も集まったという記録さえあります。町中が人で溢れかえり、泊まる場所がないので、エルサレム郊外に野営をする人々もいて、まるでテント村のようになっていたそうです。そして、祭りに訪れた人々はエルサレム神殿に行き、いけにえを捧げ、神様を礼拝したのです。
 
1 エルサレム神殿
 
 当時のエルサレム神殿は、大理石と金箔が使われ、太陽の光が反射して輝く立派な建物でした。神殿本体の中心は「至聖所」です。一番近くが「祭司の庭」、その次が「イスラエル人の庭」、「婦人の庭」、「異邦人の庭」と区切られていました。至聖所の一番近くに祭司がいけにえを屠る場所があり、イスラエル人の男性はその手前まで入ることができました。女性はもっと外側です。さらに神殿本体の外側に「異本人の庭」と呼ばれる外庭があって、異邦人の改宗者はそこまでしか入ることができなかったのです。神殿本体には入れなかったのです。今日の出来事は、その「異邦人の庭」で起こりました。
 宮(異邦人の庭)の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり(ヨハネ2・14)
 別に彼らは、自分勝手に何の許可も得ずに商売をしていたわけではありません。旧約聖書の律法にしたがって、礼拝のために正当な理由でそこにいたのです。
 
「両替人」
 
 当時、ユダヤの成人男性は、神殿の維持管理のために税を納めなければなりませんでした。普段、使っていたローマの貨幣を神殿用の特別な銀貨に両替しなければならかったのです。だから、両替人の在自体は悪くありません。でも、彼らは両替する際に高い手数料をとっていたのです。10%から15%もとっていたといわれています。神殿税を利用して私腹を肥やしていました。
 
「商売人」
 
 「商売人」は、神殿に捧げるための動物(牛や羊や鳩)を売る人々です。聖書のレビ記で、神殿に捧げる動物は「完全で、傷がなく、汚れがないものでなければならない」と決められていました。自分で神殿に動物を連れてきた場合は、当局から任命された検査官が検査しました。検査料が必要でした。しかも、不合格なら神殿で動物を買わなければなりません。もし、皆さんが遠くから神殿に来てたとしたらとしたらどうでしょう。自分で動物を連れてきても、神殿の検査で不合格になる可能性があるなら、初めからエルサレムで検査済みの動物や鳥を買った方がいいと考えますよね。そうせざる得ない仕組みになっていたのです。そして、当然のように商売人は一般市場よりはるかに高い値段で動物を売りつけていたのです。神殿を司る祭司たちも、そんな彼らのやり方を黙認し賄賂も受け取っていたでしょう。
 
2 イエス様の怒り
 
 イエス様は、その現状をご覧になって激しく怒られたのです。2章15節にこうかかれています。
 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2・15ー16)
 マルコの福音書には、こう書かれています。
「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。(マルコ11:17)
 どうして、イエス様はこんなにも激しく怒られたのでしょう。それは、神殿本来の姿が失われていたからです。神殿は神様を礼拝する場所です。イエス様は「礼拝」のあるべき姿が失われていることに怒られたのです。
 
 (1)神殿は「商売の家」ではない。
 
 もともと、両替人も動物を売る人も、礼拝の為に奉仕する人々です。でも、礼拝の場所を利用して不正な利益を得ていました。信仰の名を借りて金儲けをしていたのです。イエス様は、「礼拝に商売が入り込むことがあってはならない」と、明確に否定されたのです。
 昔も今も、世界中どこででも、宗教とお金は結びつきやすいものです。そして、金儲けのために宗教が利用されるとき、人は必ず傷つきます。家庭が壊れ、人生が崩壊してしまったというニュースが、この日本でも度々報じられていますね。残念ながら、長いキリスト教会の歴史を見ても、宗教とお金の問題はいつもありました。有名なのは中世の「免罪符」です。教会は「これのお札を買えば罪が赦される」と言って免罪符を売り多大な利益を得ていたのです。教皇の借金を返すため、立派な聖堂を建てるためだったとも言われています。
 信仰の名のもとにお金儲けがされること、献金が強要されること、礼拝に商売が入り込むことを、イエス様は決して喜ばれません。明確に否定されました。私たちはイエス様のことばを心にとめて注意する必要があります。
 
 (2)神殿は「すべての人の祈りの家」
 
 イエス様は、神殿は「すべての人の祈りの家」と言われました。つまり、「誰も差別されることなく、神様に祈り、礼拝することができる場所だ」と教えられたのです。このイエス様のことばは、旧約聖書のイザヤ書に書かれている次のことばの引用です。
「主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と。まことに主はこう仰せられる。『わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ』。」(イザヤ56章3節〜7節抜粋)
 ここには、「外国人」と「宦官」が出てきます。当時、「外国人」でも、神様を信じた人は「改宗者」「神を敬う者」と呼ばれ、神の民の中に加わることができました。でも制限があったのです。神殿の中には入ることができませんでした。「宦官」は、宮廷に仕える去勢された人たちです。「私は神様から枯れ木のようにしか見られていないのではないか」「体に欠陥があるから神から疎んじられているのでは」そのように考えてしまうこともあったようです。でも、神様はイザヤを通して、「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」言われました。つまり、誰でも、心から求めて礼拝に来るなら、神様は受けいれてくださるのです。だから「私なんてふさわしくない」「礼拝から排除されるのではないか」そう思う必要はないと神様は語られたのです。
 イエス様は、そのイザヤ書を引用し、「神殿本来の姿は、どんな人も差別されることなく、神様に受けられ、すべての人が、神様に祈り、礼拝を楽しむことができる場所だ」と言われたのです。
 
 (3)神殿は「愛とあわれみを受ける場所」
 
 イエス様は、神殿は「愛とあわれみを受ける場所」であることも示されました。
 マタイの福音書には、「宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」(マタイ21・14)とあります。当時、目の見えない人や歩くことができない人たちは神殿に入ることできず、礼拝から閉め出されていたのです。イエス様は彼らの体を癒し愛とあわれみを示してくださいました。つまり、「神様を礼拝する場所は、苦しんでいる人が愛とあわれみをうける場所」だと、身をもって示されたのです。
 
 このようにイエス様は、神殿は「商売の家ではない」「すべての人が神様に祈り礼拝する場所だ」、そして、「どんな人も、神様の愛とあわれみを受ける場所だ」と、教えられたのです。
 しかし、そんなイエス様に対して、ユダヤ人たちはどんな反応をしたでしょうか。当然、反発しました。
 「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」(ヨハネ2・18)
 「お前は誰の権威でこんなことをしているのか!」ということですね。彼らにしてみれば律法に従って神殿税を納め、いけにえの動物をささげているのです。どんなに不正があっても、両替人や動物を売る人たちは必要です。それを追い出すなんて決して許されません。こんなことができるのは、「神の権威を持つ者、救い主メシヤだけだ!」「しるしを見せてみろ!」というわけです。
 すると、イエス様は、こう答えられました。
 「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2・19)
 直訳は「あなたがたはこの神殿をこわせ、そうしたら、わたしは三日でそれを起こす」です。それが、わたしの権威の「しるし」だとおっしゃったのです。これは、どういう意味でしょうか。
 
3 「神殿を三日で建てる」とは
 
 当時の神殿は、ヘロデ大王が増改築したもので、紀元前20年頃から工事が始まりました。神殿そのものは1年半ほどでできたのですが、そこから増築工事が続き、この時、既に46年経っていました。実は、ユダヤ人たちはヘロデ王のことは気に入らなったのですが、神殿を豪華に再建した事に関しては評価していたのです。彼らにとって光輝く立派な神殿は誇りだったのです。
 だから、イエス様のことばを聞いた人々は、「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」(ヨハネ2・20)「何を馬鹿なことをいっているのか」と、イエス様のことばの意味が全く理解できませんでした。また、そばにいたイエス様の弟子たちも、この時はイエス様のおっしゃることの意味が理解できなかったのです。
 でも、みなさん。今の私たちははっきり知ること出来ます。福音書を書いたヨハネが、ちゃんと意味を解説しています。「イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(ヨハネ2・21−22)
 イエス様が言われた「神殿」は、イエス様自身のことだったのです。そして、「三日で建てる」の「建てる」は、「起こす、蘇る、復活する」と同じことばです。ですから、この時、イエス様が「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2・19)と言われた意味は、「神殿は、わたし自身のことだ。あなたがたは(これから後)わたしを壊す(十字架で殺す)しかし、三日目に起こされる(復活する)」と、「十字架の死と復活」を予告されたのです。
 そして、「それこそ、わたしの権威のしるしだ」と示されたのです。神の権威を持っておられるイエス様が、十字架の死と復活によって、もはや「古い神殿」ではなく、「新しい礼拝」の道を開いてくださいました。そして、今、私たちはその中に生かされているのです。
 
 イエス様が、神殿から商売人や両替人を追い出されたということは、神様を礼拝するために、もはや動物のいえにえは不要だということです。なぜなら、イエス様が十字架で、私たち全ての人の罪のために神の子羊としてご自分をささげてくださったからです。
 ヘブル書9章11節から12節には、「キリストはやぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とあります。
 ヘブル書10章14節から18節でも、「キリストは一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。罪のためのささげ物はもはや無用です。」と書かれている通りです。
 ですから、私たちは自分の罪を贖う為に動物のいけにえはもう必要ないのです。私たちはイエス様に赦された者として、感謝を捧げるのです。同じヘブル書に「賛美のいけにえを捧げようではありませんか」とあるように礼拝で賛美を捧げます。また私の生活を支え日々の必要を与えてくださる主に感謝して献金をおささげしています。でも、それは罪赦される為に、神様に受け入れてもらう為にささげるのではありません。すでにイエス様によって恵みを受けた者として感謝と賛美を礼拝でささげるのです。
 また、イエス様は、礼拝する為に神殿という特定の場所も必要ないことを示してくださいました。当時の人々は、神様を礼拝するために、わざわざエルサレム神殿に行ったのです。また、神殿に到着しても見えるところは、「あっちの庭には入れない」「ここまでしかダメ」という制限があったのです。神様を自由に礼拝することが出来ない現実がありました。でも、今、イエス様はそれらを全部とりはらってくださったのです。
 だから、今、私たちはどんな場所でも自由に礼拝をささげることができます。この会堂でも、家でも、ネット中継を通しても、どんな人もけして区別されず、神様を礼拝することができます。「男性はここ、女性はこちら」というように座席がきまっているわけではありません。「この職業の人は入れない」なんてこともない。「国籍」も一切関係ありません。みんなが等しく、共に主を礼拝することができるのです。
 そして、私たちが主を礼拝し、賛美をささげ、祈り、みことばに耳を傾けるとき、目には見えませんがイエス様がいてくださいます。求める者に癒しを、抱えている問題にイエス様の解決を、みことばをもって答えてくださるのです。私たちは今、礼拝の中で、イエス様の愛とあわれみを受けることができるのです。
 もしかしたら、今、ネット中継を通して礼拝している方の中で、「私は、一人だ。今は教会に行けていない。いろんな事情で足を運べない」そういう方がおられるかもしれません。「一人だと礼拝できないのか。ここにはイエス様はおられないのか」そのように思われる方もいるかもしれません。でも、大丈夫です。パウロはこう言っています。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる。」(1コリント3・16)
 イエス様を信じる一人一人のうちに聖霊なる神様が住んでくださって、私たち自身もまた、生ける「神の宮」「神殿」とされているのです。だから、たとえ一人であっても主を礼拝することができます。家でも、会堂でも、どんな場所でも、私たちの内におられる聖霊によって礼拝し、主の愛とあわれみを受けることができるのです。
 もちろん、私たちはこうやって共に集まって礼拝することの大切さも知っています。そこにある恵みを知っています。だから、会堂に集まって礼拝することも素晴らしいですし、それぞれの場所でも主を礼拝することができるのです。
 十字架でご自身をささげ、死から復活し、今も生きておられるイエス様が招いてくださる礼拝の中で、私たちは父なる神様の愛とイエス様の恵みと平安をうけることができるのです。そのような素晴らしい礼拝の民とされていることを感謝しながら、この週も歩んでいきましょう。