城山キリスト教会説教
二〇二四年六月一六日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書三章一節〜一五節
 ヨハネの福音書連続説教8
   「新しく生まれる」
 
 1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(新改訳聖書第三版)
 
 ヨハネは1章12節、13節でこういっています。「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・12−13
 ここには、ヨハネが私たちにどうしても伝えたいメッセージ「神様によって新しく生まれる」ということが記されています。
 是非、今日はこれを頭の中に入れていただいて、今日の出来事をご一緒に考えていきたのです。ヨハネは「神によって新しく生まれる」最初の例としてニコデモという人物を紹介しています。
 
1 ニコデモの訪問
 
 (1)パリサイ派
 
 彼はユダヤ教の中でも厳格な「パリサイ派」というグループに属していました。彼らは旧約聖書の律法や細かい規則を学び熱心に実行しようとしていた人たちです。彼らにとって、イエス様の行動は、自分たちが大切にしていた掟を無視するものでした。例えば、イエス様は安息日に病気の人を癒されました。また、当時、律法を守ることができない人々と飲み食いし、親しく過ごされました。そんなイエス様の行動を見たパリサイ人たちは、「イエスは、神を冒涜している。けしからん奴だ」と反発し敵対するようになったのです。そんな中でも、ニコデモはイエス様の人格や教えに興味を持っていたようです。
 
 (2)ユダヤの指導者
 
 また、ニコデモは「ユダヤの指導者」だったと書いてあります。これはユダヤ最高議会「サンヘドリン」のメンバーをさします。サンヘドリンは70人の議員によって構成され、裁判や政治、教育などにも影響力をもっていました。日本の国会議員よりも大きな力を持つ存在だったのです。ニコデモはその70人議員の一人でした。
 
 (3)裕福な人
 
 さらに、ニコデモはお金持ちでもあったようです。ヨハネ19章には、イエス様の埋葬のときにニコデモが「高価な没薬とアロエをもってきた」と書かれています。かなり裕福でないと出来ない行為です。
 つまり、ニコデモという人は知識と共に、地位や名誉があって、権力や財産もありました。「人生の成功者」と呼べる人だったわけです。ちなみに、「ニコデモ」という名前には「征服者」とか「勝利者」という意味があります。その名前の通り、彼は人が羨む色々なものを勝ち得た人生を送ってきたと言えます。そんな彼が、ある夜、こっそり目立たないようにイエス様の所にやってきたのです。
 
2 ニコデモの問い
 
 イエス様のところにやってきたニコデモは開口一番、こう言いました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(ヨハネ3・2)後の会話から分かりますがニコデモはかなり高齢だったようです。このときのイエス様はおよそ30歳。しかも、ガリラヤ地方の小さなナザレ村の大工です。ニコデモは首都エルサレムのサンヘドリン議員です。立場が違います。ニコデモはそのイエス様を「先生」と呼び、「神のもとから来られた教師」「あなたは素晴らしいお方です。」といっています。少し持ち上げる気持ちもあったかもしれませんが、おそらく、ニコデモはイエス様について色々な噂をきいていたのでしょう。それに対する賞賛とともに、どうしてもイエス様に聞きたいことがあったのです。
 イエス様は、そんなニコデモを見抜いてこう言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3・3)
 イエス様のことばから、ニコデモが抱えていた疑問がわかってきます。それは、「どうしたら神の国を見ることができるのか」という人生の問題でした。「どうしたら、神様に受け入れていただいて、消えることのない尽きることのない神の国の一員とされるのか」言い換えると、「どうすれば、永遠の救いを得ることができるのか」という問題です。
 皆さん、先ほど紹介したように、ニコデモは聖書の専門家です。人々に神様のことを教え指導する立場です。人並み以上の努力もしてきたでしょう。人生で多くのものを得てきました。しかし、どんなに頑張っても心が満たされない虚しさを抱えて、自分の努力ではどうしようもできない現実を感じていたのでしょう。「本当にこのままの自分で神様に認められるのだろうか」「このいのちが尽きたら、いったい自分はどうなるのだろうか」そんな、疑問が次から次へと心に湧いてきたのでしょう。ニコデモは立派な人でした。人生経験もありました。人が羨むような成功を得ていました。しかし、人生の確信を持って、心の平安を得て、生きることができていなかったのです。そして、イエス様なら、答えを知っているかもしれないと、すがるような思いでやってきたのです。
 
3 イエス様のこたえ
 
 イエス様はそんなニコデモの心をご存じで、幾つかのこと言われました。
 
(1)「新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」
 
 ニコデモは、このイエス様の言葉の意味がわからずこう言いました。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(ヨハネ3・4)つまり、「私はもう歳を取っています。もう一度、生まれ変わって人生をやりなおせということですか。できるわけないじゃないですか。」
 でも、イエス様はおっしゃったのは、ニコデモが考えるような意味ではなかったのです。「新しく」ということばは「上(神)から」とも訳せます。つまり、イエス様は「人は神様によって生まれなければ、神の国を見ることが出来ない」と言われたのです。「救い(神の国)は、あなたが一生懸命に努力し、自分で頑張って修行して、上り詰めて得るのではありません。ただ、神様の方から新しくいのちがあたえられるのです。救いは神様のみわざによるのです」と、教えられたのです。
 これは、聖書が教える「救い」についての大切な理解ですね。人の考える宗教や、私たちが持ちやすい救いの理解は、人の側からの頑張りですね。修行して努力して上に上にと登っていくイメージです。でも、聖書が教える「救い」は、ただ神様の方から一方的に与えられるものです。
 
(2)「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3・5)
 
 イエス様は二つ目に「水によって生まれなければ」と言われました。ニコデモはユダヤ人ですから、この時「水」と聞いてすぐに思い浮かんだものがありました。当時、ユダヤ人たちが行っていた「きよめの儀式」の水です。カナの婚礼の出来事で「水がめ」が出て来ましたね。ユダヤ人たちは、いつも、瓶に水を汲み、その水で自分たちの「汚れ」を洗いきよめていました。人が罪に汚れたままで神様の前に出ることはできないと、旧約聖書の時代から繰り返し教えられてきました。
 また、水を浴びることは「悔い改め」を意味していました。「悔い改め」とは、神様に背を向けていた人が神様の方に向きを変えて生きることです。方向転換することです。ですから、この時、イエス様が「水によって生まれなければ、神の国に入ることができない」と言われたのは、「悔い改めて(神様の方に向いて)罪がきよめられなければ、神の国に入ることはできない」ということです。
 もちろん。ニコデモは毎日、悔い改めの祈りや水のきよめを行っていたでしょう。掟やしきたりを守っていました。しかし、いくら頑張っても、繰り返し行っても確信がもてないからイエス様のもとに来たわけです。
 ですから、イエス様は、そんなニコデモに「御霊によって生まれなければ」とも言われたのです。つまり、人が心から悔い改め、罪が完全に清められ、新しく生まれるのは、御霊(聖霊なる神様)の働きによると言われたのです。
 私たちは聖書全体が示す「三位一体」の神様を信じています。「聖霊」は、父なる神様と子なるイエス様と同じ本質を持った神なるお方です。その神なるお方の働きによって、人は「新しく生まれることができるのだ」とイエス様は言われました。
 でも、ニコデモはやっぱり分からなかったでしょう。「水はわかるけど、御霊によるとは、いったいどういうことだろうか?」しかも、イエス様は8節でさらに不思議なことをいわれます。
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3・8)
 聖書で、「風」は「御霊」と同じ「プニューマ」ということばです。イエス様は、「風は直接見ることは出来きないし、いつどこから吹くかもわからない、聖霊によって新しく生まれることはそういうものだ」と言われたのです。
 ニコデモはもっとわからなくなりました「一体、この人は何をいっているのか?」皆さん、少しニコデモの気持ちになって想像してみてください。「どうやったら神の国に入れるのか」と、真剣に悩みプライドを捨ててイエス様のところにやってきたのに、イエス様が「新しく生まれなければ」といわれるわけです。ニコデモは、「どういうこと?こんな年寄りになって生まれ変わるなんて無理だ」と思いますよね。そしたらイエス様が「水と御霊によって生まれなければ」といわれる。ニコデモは、「いや、水はわかるけど御霊とはどういうことだろう、神の霊によってといわれても、私はいたったい何をどうすればいいの?」すると、さらにイエス様が、「いつか、どうかはわからない。風は思いのままに吹く」と言われるのです。ニコデモにしてみたら会話が全然かみ合いません。まったく理解できないわけです。だから、こう言っています。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」(ヨハネ3・9)
 もし、ここで会話が終わったらニコデモが気の毒ですね。でも、イエス様は素晴らしいお方です。そんなニコデモがイエス様の語られる内容を理解できるように、ユダヤ人なら誰でもしっている旧約聖書の出来事を引用されたのです。
 
(3)「青銅の蛇」…『見上げる者は生きる』
 
 旧約聖書の民数記21章に書かれている出来事です。昔、イスラエル民がモーセに率いられてエジプトから脱出し荒野にいたときのことです。最初、民たちは救われたことに喜んでいました。でも、すぐに荒野の生活に我慢できなくなり「エジプトの方が良かった」とまでいいだしました。神様とモーセに向かって文句を言い始めたのです。すると、毒蛇が出てきて人々に噛みつき、多くの人が死んでいきました。民がモーセに「私たちは罪を犯しました。蛇を取り去ってくださるよう神様に祈ってください」と言いました。それを聞いたモーセが祈ると、神様は救いの方法を示してくださったのです。「青銅で蛇を作り、旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(民数記21・8)
 モーセは、すぐにその通りにし、「この蛇を仰ぎ見なさい。そうすれば救わる」と叫びました。毒蛇にかまれて苦しんでいた人々が青銅の蛇を見上げるといのちが助かったのです。普通だったら考えられません。理屈に合わない出来事です。しかし、理解できなくても、人の考える理屈に合わなくても、神様のことばを信じ、その通りにしたものは「生きた」のです。救われたのです。
 この話は旧約聖書の専門家であるニコデモは当然知っていました。イエス様はそれを引用して、ニコデモに続けてこう言われたのです。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハネ3・14−15)
 「人の子」は、旧約聖書で約束された「救い主」のことです。イエス様は、ご自分こそ「救い主」であり、やがて、木にかけられ「上げられる」とおっしゃいました。つまり、ご自分が十字架に架けられることを予告されたのです。そして、「旗竿につけられた蛇」を仰ぎ見た人が生きたように、「十字架のイエス様」を仰ぎ見る人は生きる、罪が完全にきよめられ永遠のいのちを持って生きることができると言われたのです。イエス様は、ご自分こそ「救い主」であり「わたしを見上げるもの、信じる者は、神様によって新しく生まれる」と言われたのです。
 もちろん、この時のニコデモは十字架のことは、まだ分かりません。でも、イエス様のことばを聞いたとき、「なるほど」と思ったはずです。「そうか、御霊によって新しく生まれるというのは、昔、イスラエルが青銅の蛇を見上げたとき生きたように、このお方を信じるということなのだ。『見上げるものは、生きる』とあるように、このお方の言うことを信じ受けいれたら、新しく生まれることができるのだ。私がずっと求めていた答えはこの方にあるのだ」そのようにニコデモは、イエス様との会話の中できっと分かったはずです。
 そして、皆さん。素晴らしいことに、私たちは聖書を通してニコデモよりもはっきり分かります。「木にかけられた青銅の蛇」が「十字架に架けられたイエス様」だと明確に知っています。また、「人が新しく生まれるために」「罪が解決され新しいいのちが与えられるために」私たちは何をすればいいのかもしっていますね。それは、私たちの努力ではなく、修行でもなく、学びでもなく、ただ「十字架のイエス様を見上げる」ことです。イエス様を信じ心にお迎えすることです。「イエス様、あなたはあの十字架で私のすべての罪を背負ってくださいました。そして、復活してくださいました。感謝します」、そのように、信じて受けいれるとき、御霊によって、ただ神によって、私たちは新しくされるのです。
 パウロは、エペソ2章8節でこう言っています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2・8)二千年前のイエス様の十字架と、今私と何故つながるでしょう。確かに人の理解を越えています。でも、神様が示してくださった救いの方法です。神様の一方的な恵み、賜物なのです。だから、それを受け取ってイエス様を信じるものは救われるのです。「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・12−13)とある通りです。私たちが、ただ、イエス様を信じ、心にお迎えしたとき、神様によって「新しく生まれ」「神の子」としていだいたのです。
 ですから、イエス様はニコデモに「風(御霊)は思いのままにふく」と言われましたが、御霊によって私たちがどこに導かれるかといえば、十字架のイエス様のもとに導かれるのです。私たちに「イエス様あなたを信じます」という思いが与えられたのは、風のような聖霊なる神様の働きなのです。
 
 先月5月27日(月)に、教会員の方のご主人が洗礼を受けられました。お体の関係で会堂にはこられないので、ご自宅に伺っての洗礼式でした。その方は、これまで何回か教会に行かれて聖書のことも聞いておられました。でも、洗礼をうけるなんて全然考えておられなかったそうです。奥さんが洗礼について聞いても、決して首を縦にふらなかったそうです。でも、この5月にクリスチャンの友人が訪問されて、「○○さん、洗礼をうけましょうよ」と促されたとき、「うん。洗礼を受ける」とおっしゃったのです。奥さんも「どうして」「なにがおこったの」と驚かれて、急いで教会に連絡しくださいました。「じゃあ、すぐ洗礼をうけましょう」と、関根先生と私で伺って洗礼式をすることができました。本当に不思議なタイミングでした。私たちにはわかりません。こちら側でいくら準備しても心動かなかったのに、主の不思議な働きで、ある瞬間に心が開かれて洗礼をうける決心をされたのです。「風(御霊は)は思いのままに吹くとかいてある」とおり、神様の働きはそのようなものなのです。だから、皆さん。もちろん、計画をたて準備することも大切です。でも、それを越えた主の働きがあると思ったら励まされます。たとえ自分で準備してうまくいかなかったとしてもあきらめる必要はありません。なぜなら、風は、聖霊なる神様はご自身の思いのままに確かに吹いてくださるからです。そのお方に身を委ね、この週も歩んでまいりましょう。