城山キリスト教会説教
二〇二四年六月三〇日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書三章一六節〜三六節
ヨハネの福音書連続説教9
「滅びからいのちへ」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
22 その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
23 一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。
24 −−ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである−−
25 それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。
26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。
28 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。
29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
31 上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
32 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
33 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。
34 神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。
35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(新改訳聖書第三版)
前回は、ユダヤの指導者ニコデモがイエス様のところにやってきた出来事でした。彼は、人々から尊敬され、地位も名誉も財産も持っていました。でも、心に大きな疑問を抱えていました。「どうすれば神の国をみることができるのか」「どうすれば、神様に受け入れていただいて、永遠の救いを得ることができるのか」という問いです。
そんな彼にイエス様は言われました。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」つまり、「あなたが求めている救いは、神様によって、新しくされることで与えられるのです。」しかし、ニコデモはイエス様のことばの意味が分かりませんでした。だから、イエス様は、彼がよく知っている旧約聖書の有名な出来事「青銅の蛇」の話をされたのです。
昔、イスラエルの民が荒野で毒蛇に苦しんでいたとき、神様が「青銅で蛇を作り旗竿の先に付けて掲げなさい、それを仰ぎ見た者は生きる。」といわれました。神様のことばのとおりに「青銅の蛇」を見上げたものは生きたのです。
イエス様はその有名な出来事を引用し、あの時、木に掲げられた「青銅の蛇」は、やがて「十字架に架かる救い主」つまり、イエス様ご自身であることを示されました。そして、「青銅の蛇」を見上げた者が「生きた」ように「十字架に架けられたイエス様」を見上げる者は「生きる」。つまり「イエス様を信じ受け入れる者」は「神様によって新しく生まれ、永遠のいのち」が与えられると言われたのです。
そして、今日の箇所はその続きです。イエス様とニコデモの会話で明らかにされた「永遠のいのち」について説明されているのです。
最初の一節、ヨハネ3章16節は聖書の中で最も有名なことばの一つですね。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)
「聖書の中の聖書」とも呼ばれています。なぜなら、ここに聖書全体が私たちに教えている大切なメッセージが要約されているからです。今日はこのことばを中心に学んでいきましょう。
1 神は、世を愛された
「世」は、世の中に住む私たち一人一人のことです。ですから、そのまま、私の名前や皆さんの名前に入れ替えることができます。神様は、私「豊村臨太郎」を愛してくださったのです。皆さん、愛されていると聞いて、どんな気持ちはしますか。悪い気はしないですね。でも「愛する」とはどういうことでしょうか。例えば、私が口で「妻を愛しています」といいながら、いつも彼女に背を向けて話しも聞かず無視し困っているときに助けることしなかったらどうでしょうか。それは「愛している」とは言えませんね。何の行動も伴っていないからです。愛には、必ず具体的な「行為」がともなうものです。
ですから、聖書に「神はあなたを愛された」と書いてあるとき、それは決して漠然とした抽象的なものではありません。この箇所にあるように、神様が「ひとり子をお与えになった」という具体的な行為がともなっているのです。神様は、最も大切な存在であるたった一人の御子イエス様をお与えになるほどに、私を、あなたを愛されたのです。それは何を意味するでしょうか。神様の目に私たちはそれだけの価値があるということです。
先日テレビを見ていると、動かなくなった古い車やバイクを修理して蘇らせてオークションに出品するという番組がありました。ガレージでボロボロに放置されていた車が修理されて、オークションにかけられるとドンドン値段が上がるわけです。数千円から、数万円、10万円、50万円、100万円、最終的には300万円以上で落札されました。私は車に詳しくないですから、正直にいってその価値がわかりません。でも、落札した人にとっては価値があるのです。どんなに古くてガレージで眠っていた古い車でも、その人が300万円以上のお金を払えば、それだけの価値が生まれます。
でも、みなさん。考えてみてください。神様は私たちのために何を差し出されましたか。300万円どころではありません。尊い御子イエス様を与えるほどに、あなたに価値があると言ってくださるのです。
旧約聖書のイザヤ書43章4節には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とありますが、これは単なる口だけのものではないのです。神様が私たちの為にたった一人の愛する御子イエス様のいのちを与えて下さったということは、それほどあなたに価値があるということです。
ヨハネの手紙第一4章9節に、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(1ヨハネ4・9)とあるとおりです。
また、パウロもローマ書5章で、この世に遣わされたイエス様が、十字架でいのちを捧げてくださったことについて、こういいました。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5・7−8)「私たちが罪人であった」とき、つまり、「神様に背を向けていたとき」から、イエス様が、十字架でいのちをささげてくださったのです。ここに愛があるのです。皆さん。神様は、もっとも大切なものを与えてくださるほどに、私たちを愛し「あなたは価値ある存在」だといってくださるのです。
2 「滅びの状態」
それでは、そんな私たちはいったいどういう状態にあるでしょうか。「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」とあるように、聖書は、人は皆「滅びの状態」にあると教えているのです。「滅び」と聞いて、どんなイメージを持たれますか。なんだかおっかないですね。「信じないと地獄行きだぞ」と脅されているような印象を持たれるかもしれません。
でも、聖書が言う「滅び」には、次のような4つの意味があるのです。
(1)「失っている」状態
「あなたは何のために生きているのですか」と問われても、よくわからない。「自分には価値があるのだろうか」わからない。神様との関係を失っているからです。この世界を造り、私たちを愛してくださっている神様に背を向け、神様のことが分からなくなっている状態です。また、それが原因で人生の意味や目的といった、人として大切なものを失っている状態です。
(2)「迷っている」状態
有名な「アメイジンググレイス」の歌詞に、「I once was lost but now I am found」(以前は迷っていたけど、見出された)とありますね。迷子のような不安な状態です。
例えば、子どもが大きなテーマパークなどで迷子になってしまうことがありますね。迷子になった子どもが保護されて大泣きしていることがあります。周囲にどんなに沢山の人がいても、その子は「迷子」です。何故かというと、自分のことを一番よく知っている保護者と離れているからです。どんなに、そばに優しい大人がいたとしても不安なのです。
人が「滅びの状態」にあるのは、「迷っている状態」、つまり、私を造り、私のことを本当によく知っておられる天の父なる神様から離れているからです。だから不安なのです。
(3)「浪費している」状態
お金の無駄遣いということではなくて、自分の人生をまるで浪費しているかのような生き方です。昔、援助交際で補導された高校生がいったそうです。「何が悪いの、自分の体なんだから、どう使ったっていいじゃない」神様が与えられた自分自身を大切にすることができなくなっている状態です。
(4)「破壊している」状態
自分を傷つけ、他人を傷付けて、周りも破壊していくような状態です。今も、世界中で争いが絶えません。多くの人は平和を望んでいるはずなのに、人が人を互いに傷付けあってしまう現実があります。
滅びの状態は、そのように「失い」「迷い」「浪費し」「破壊」に向かう状態です。聖書は別の言葉で「罪」と呼びます。的外れ、神様からズレている状態です。
神様は、そのような「滅びの状態」にある一人一人を放ってはおけない、愛しておられるのです。「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」に、御子イエス・キリストを与えてくださったのです。イエス様が滅びの状態にある私たちのズレを、罪を背負い、十字架にかかってくださったのです。そして、三日目に蘇り、今も生きておられます。そのお方を信じるものは、「永遠のいのち」が与えられるのです。素晴らしい約束です。
3 永遠のいのち
それでは、「永遠のいのち」は、どういうものでしょうか。今の肉体の命がずっと続く、「不老不死のいのち」ということでしょうか。そうではありません。聖書が教える「永遠のいのち」について、ヨハネの福音書17章3節には、こう書かれています。
「永遠のいのちとは彼らが唯一のまことの神であるあなたとあなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17・3)
また、ヨハネの手紙第一の5章12節には、「御子を持つ者はいのちを持っている」とあります。つまり、「永遠のいのち」とは、イエス様を知る(信じる)ことによって、神様との関係が回復され、神様の愛と恵み、平安の中を生きることができるようになることです。そういういのちです。
ですから、先ほどの「滅びの状態」とは正反対の状態です。「失っている人生」でなく、人生の意味を、自分の価値を見出し続ける人生が始まります。「迷子の人生」でなく、私たちを誰よりも知ってくださる父なる神様に見つけ出されて、羊飼いなるイエス様に、見守られ養われる人生です。「浪費」や「破壊」の人生ではなく、神様の愛によって癒されて、自分を大切にし、周囲をも建て上げていく人生へと向かわされていく、そのようないのちです。私たちは、イエス様によってこの「永遠のいのち」が与えられているのです。
そして、もちろん。この「永遠のいのち」は、たとえ、この地上の命が終わっても決して終わることがじゃいいのちです。イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11・25)といわれました。だから、「永遠のいのち」は、「死んでも生きる」、「よみがえり」のいのちでもあります。
二年前になりますが、私は三歳下のいとこを海の事故で亡くしました。私の兄弟は7人で多いのですが、いとこは彼女一人だけでした。彼女はスキューバーダイビングが大好きで、休暇中、宮古島でダイビングをしているときに、原因不明ですが、水中で心臓が止まって亡くなりました。知らせを聞いたときは、あまりにも急なで、実感がなく涙もでないほどでした。数日後、関西で葬儀が行われました。小さなか会堂に沢山の人が集まって、ともに讃美歌を歌っているとき、涙があふれてきました。彼女の父親、私にとっての叔父も牧師なので、父親として、牧師として、葬儀の司式をしていました。一人娘の葬儀を執り行うことはどれほど辛く、悲しいことだったでしょうか。でも、葬儀の中で叔父が、悲しみを抱えながらも、こんなふうにいったのです。「真子は、イエス様を信じていましたから、また天国で会うことができます。」そういって、永遠のいのちの希望を語ったのです。私はそれを聞きながら、「本当に悲しいし、寂しいけれども、もう二度と会えないのではない。」「イエス様が与えてくださった永遠のいのちは、決して死で終わるものではなく「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きる」とイエス様が言われたように、やがて復活し、主とともに生きるいのちなのだ。」「再会することができる」その希望を改めて思わされました。
皆さん。「永遠のいのち」は、この地上にあってイエス様とともに生きる素晴らしいいのちであるとともに、たとえ、この地上のいのちが終わっても、「死を乗り越えるいのち」「決して失われることのないいのち」です。イエス・キリストを信じる者は、その希望をもって生きることができるのです。
4 「さばく」ためではなく「救う」ため
そして、今日の箇所3章17節以降には、神様が御子を遣わされたのは、世を「さばく」ためではなく、「救われる」(3・17)ためとあります。神様は、「さばくためでなく」つまり、私たちが「滅びの状態」にとどまるのでなく「何としても救われてほしい。」と望んでおられるのです。でも、無理矢理、私たちの心をこじ開けるお方ではありません。私たちの方が心を開くのを待って下さるのです。
続く、18節には、「信じない者は…すでにさばかれている」と記されていますね。これは、「イエス様が与えてくださるいのちを、もし、私たちが心を閉ざし拒否するなら、そのいのちに生きることは出来ない」という意味です。イエス様は決して、「信じなければ地獄行きだぞ」と脅かすようなことはいわれませんでした。「滅びの状態」にいる人々が、「永遠のいのち」を持つことができるように、心の扉を叩いてくださるのです。
そうであるならば、私たちはどうすればいいのでしょう。ただ単純に、イエス様を救い主として信じ、「イエス様どうぞ、私の心にお入りください」と言ってお迎えするだけでいいのです。ここにおられる皆さんの多くは、すでにそうやってイエス様を信じ「永遠のいのち」に生かされていますね。先週、先月と、洗礼を受けられた方がおられますが、「永遠のいのち」の恵みの中にさらに多くの人が加えられていくことを願っていますね。
今日読んだ3章の終わりには、バプテスマのヨハネがイエス様のことを花婿に譬えてこう言います。「花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」つまり、彼も、イエス様を信じる人が増やされていくことを心から喜んだのです。
そして、3章の最後、36節には「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3・36)と締めくくられています。
「神の怒りがとどまる」というのも、きつく聞こえますが、「滅びの状態」のままにとどまってしまうと同じ意味です。でも、神様は、決してそれを望んでおられません。一人も滅びることなく「永遠のいのち」を得て欲しいと願っておられるのです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)
神様は私たちを愛しておられます。ですから、クリスチャンでない方、是非、今日、この神様の愛を受け取ってください。「イエス様、あなたを信じます。私の心にお入りください」祈ってみてください。
そして、すでにクリスチャンの方は、この「永遠のいのち」が与えられていることを喜び、主に感謝と賛美をもって、この週も歩んでまいりましょう。