城山キリスト教会説教
二〇二四年七月七日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書四章一節〜二六節
ヨハネの福音書連続説教10
「新しい礼拝」
1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、2 −−イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが−−3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」−−ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである−−10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(新改訳聖書第三版)
ヨハネの福音書4章に入りました。この時、イエス様はユダヤ地方から北のガリラヤ地方に向かわれました。4章の始めにはこう書いてあります。「イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、・・・主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた」(ヨハネ4・1ー3)
イエス様の弟子の中で、以前バプテスマのヨハネの弟子だった者たちが、ヨハネがしていたように多くの人に洗礼を授けていたのです。そのことがユダヤの伝統を重んじる「パリサイ派」の人たちの耳にはいり「混乱分子が妙なことをやり始めた」というような印象を思ったのでしょう。イエス様はあえて彼らに対抗しようとはせず、「ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれ」ることになさいました。
その道中、イエス様は人生に悩み心に渇きを持つ一人の女性に出会うのです。そして、このイエス様と女性との出会いの出来事は、今、私たちが世界中でささげることのできる「礼拝の原点」となった箇所でもあります。今日はその出来事を見ていきましょう。
1 サマリヤを通って
当時、ユダヤからガリラヤに行くには、まっすぐに北上しサマリヤを通るのが近道でした。でも、ユダヤ人たちは、東に向かってヨルダン川を渡り、ぐるっと迂回してからガリラヤへ入るルートを選びました。二倍の距離をわざわざ遠回りしたのです。ユダヤの人たちにとってサマリヤを通ることはありえなかったからです。その理由はイスラエルの長い歴史にあります。
元々、イスラエルの国は、ダビデと息子ソロモンまでは一つの国でした。でもその後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。北イスラエルの首都がサマリヤ、南ユダの首都はエルサレムです。北イスラエルは、紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリアは占領した国の民族性を薄める為に、雑婚政策をとりました。北イスラエルに住む人たちの大部分をアッシリアに連れて行き、その代わりに他民族を移住させたのです。その結果、北イスラエルの人たちは混血の民となりました。同時に外国から偶像礼拝が入り込んできたのです。一方、南ユダはどうだったかというと、北イスラエルが滅ぼされてから約130年後、紀元前586年に、バビロニア帝国に滅ぼされて捕囚の民となりました。しかし、ユダの人々は、捕囚の地でも自分たちのアイデンティティを保って民族としての純粋性を守ったのです。そして、捕囚の後、エルサレムに戻り神殿を再建したのです。こうした歴史的背景からユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していたのです。「自分たち純粋な神の民だ。正しい礼拝の場所で神様を礼拝している」「彼らは汚れた偶像の民だ」と忌み嫌うようになったのです。
しかし、イエス様は違いました。何の躊躇もなくサマリヤを通られたのです。なぜ、そうなさったのか詳しい理由は書かれていません。でも、はっきりと言えることはイエス様というお方は、何の偏見も差別もお持ちにならなかったということです。私たち人間は、どうしても乗り越える事の出来ない壁を作ってしまうことがあります。仲良くしたくても出来ない、受け入れたくても受け入れることができない。個人のレベルでも、大きな国のレベルでも、そういう弱さが人にはあります。でも、イエス様はどんな場所にも、どんな人のところにも等しく足を運んでくださるお方です。この時、サマリヤの地には、憎しみと争いがありました。イエス様は躊躇なくそこに入っていかれて、人生に渇きを覚えていた一人の女性と出会われたのです。
2 井戸のほとりで
サマリヤに入られたイエス様はスカルという町の近くにこられました。そこには、イスラエルの先祖ヤコブが掘ったとされる由緒ある井戸がありました。「ヤコブの井戸」と呼ばれ直径は2.3メートル、深さは約23メートルの大きな深い井戸でした。イエス様が井戸のかたわらに腰を下ろしていると、ユダヤの時刻の第六時(今で言えば正午)一人の女性が井戸に水をくみにやってきたのです。普通、水を汲むのは涼しい早朝か夕方の仕事です。しかし、この女性はわざわざ人が来ない時間にこっそり水を汲みにやってきたのです。
するとイエス様がその女性に「わたしに水を飲ませてください」(ヨハネ4・7)と話しかけるのです。当時の旅人は、井戸から水を汲むことができるように動物の皮でできた「つるべ」、水を汲む道具を携帯していたと言われます。でも、イエス様はそれをもっておらず女性に頼んだわけです。
この女性は、驚いたでしょう。ユダヤ人とサマリヤ人は反目しているわけですから声をかけるなんてありえない。そこで、この女性は言ったわけです。
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」(ヨハネ4・9)
すると、イエス様は不思議なことを言われました。
「もしあなたが、わたしが誰であるかを知っていたなら、あなたはわたしに求めたことでしょう。そして、わたしのほうからあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(ヨハネ4・10)
この女性の反応を想像してみてください。きっと彼女はイラッとしたと思いますよ。「何を言っているのですか、水を汲む道具も持っていないのに、どこから、そんな生ける水(湧き水)をもってこようというのですか。偉大な先祖ヤコブが苦労して深い井戸をほったのて、やっと水を得たのですよ。それなのにあなたは「生ける水を与えることができる」あのヤコブより自分の方が優れているとでもいうのですか。」こう切り返したのです。
すると、イエス様はさらに不思議なことをおっしゃるのです。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4・13ー14)
考えてみてください。わざわざ真っ昼間に水を汲みに来ている女性に対して「わたしが与える水を飲む者は渇くことがありません。」と言うのですよ。彼女にしてみれば「そんなあなたがどうして水をくれというのか」という事ですよね。イエス様のことばの意味がまったく分かりません。
「そんな水があったらいいですよね。暑い中、私がもうここまでくみに来なくてもよいように、そんな水があるなら私にも下さいよ。」と、半ば呆れたようにことばを返したのです。しかし、次の一言で会話の流れがガラッと大転換するのです。
3 問題の核心へ
イエス様は突然、こう言われました。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(ヨハネ4・16)
どういうことでしょう。実は、この女性にとっての悩みの核心、それをイエス様はズバリ指摘したのです。この女性が抱えていた問題、人生の渇きとは、何だったのでしょう。4章17節ー18節にこうあります。
女は答えて言った『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です。』(ヨハネ4・17-18)
この女性が人目を避けて水を汲みに来ざる得ない理由は、彼女の人生に大きな影を落としていた人間関係の問題でした。「夫が5人いたが、今、一緒にいるのは夫ではない」という現実です。具体的なことが書いてないのでどういう状況だったのかわかりません。夫の方が悪いのか、彼女にも問題があったのか分かりませんが、何度も結婚と離婚を繰り返したようです。周囲の人々は、彼女のことを「なんだあのふしだらな女は」と言っていたでしょう。ですから、わざわざ人目を避けて暑い時間に水を汲まなければいけませんでした。孤独だったでしょう。心の渇きを感じていたはずです。ひょっとしたら、自分の心の渇きにすら気づいていなかったかもしれません。イエス様は、そんな彼女をご存じで渇きの元となっている根本を指摘されたのです。
皆さん、イエス様というお方は全地全能の神なるお方です。私たちの過去も、今私たちが抱えている問題も、自分ですら気づいていない渇きもご存じです。詩篇139篇にはこう書かれています。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。」(詩篇139・1ー3)ヨハネの手紙にもこうあります。「神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」(1ヨハネ3・20)
神様が何もかもご存じときくと、見張られているような、窮屈な気持ちになるかもしれません。でも、そうではありません。神様は私たちを愛をもって造り、私たちの最善をおこなってくださるお方です。その神様があなたを知ってくださっているのです。そして、語りかけてくださるのです。
4 解決を求めて
イエス様が、女性の問題をズバリ指摘なさった時、彼女は、「ああ、このお方が与える水というのは、どうやら、この井戸の水のことではなくて、私の人生そのものの渇きを癒す水のことではないだろうか」と、少しずつ分かってたきたのです。
そして、この女性は問題の解決の鍵が礼拝の中にあるということを考えていたようなのです。「私の人生の問題の解決の鍵は、神様との関係が正されていくと言うことの中にある」と彼女はぼんやりと感じていたようなのです。
そこで、彼女は、これまでずっと持っていた一つの疑問を投げかけます。「先生。あなたは預言者だと思います。 私たちの父祖たち(サマリヤ人)はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(ヨハネ4・20)「どちらで礼拝したらいいのですか?」という質問です。
当時の礼拝は、神殿に行って自分の罪の為にいけにえをささげ神様の赦しを求めるものでした。つまり、この女性は自分の心のズレや解決のために、どこに行って礼拝をささげれば良いのかを尋ねたのです。当時のサマリヤ人はゲリジム山に独自の神殿を作って礼拝していました。一方、ユダヤ人は「エルサレムこそ神様が選ばれた場所で正統的な神殿だ」と自負していました。サマリヤ人はゲリジム山でユダヤ人はエルサレムで礼拝していたので、彼女は「いったいどちらの礼拝が本当の礼拝なのか、どちらの礼拝に解決があるのだろう」と疑問をもったのです。
すると、イエス様はゲリジム山でもエルサレムでもない「新しい礼拝」について教えてくださったのです。
5 新しい礼拝
「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。・・・真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(ヨハネ4・21ー23)
なんとイエス様は「特定の場所に限定されずに、世界中どこにおいても礼拝できる時が来ます。今がその時です。」と言われました。少し、思い出してください。以前、イエス様はエルサレムの神殿の商売人たちを追い出されました。「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建てる」とおっしゃいました。商売人たちは当時の礼拝の為に必要ないけにえの動物を売っていました。ですから、商売人を追い出されたということは「新しい礼拝の形」が始まるということを意味しているわけです。またイエス様が「神殿を三日で建てる」と言われましたが、イエス様ご自身が「まことの神殿」であり、人々の罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえることを意味しているわけです。
ですから、今日、皆さん。復活されたイエス様を信じる私たち一人一人と、イエス様はともにいてくださって、私たちはどこにおいても、この方を礼拝することが出来るのです。どんな状況にあっても、この方に賛美を献げ、祈り、人生をゆだねて生きていくことが出来るのです。そういう新しい礼拝「霊とまことによる礼拝」を捧げることが出来る「その時がきた」と、イエス様は言われたのです。
もはや、特別な「聖地」と呼ばれる場所でしか礼拝できないとか「総本山」のような場所にしか恵みがないという限定された礼拝ではないのです。「霊による」とあるように、私たちの霊(心の最も深いところ)から主を礼拝するのです。イエス様が「心を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛せよ」と言われたように、心から「まことをもって」ささげる礼拝です。
でもそう聞くと聞くと「心を込めて、一生懸命に頑張って捧げる、立派な姿」というイメージを持たれるかもしれません。でも、「まこと」というのは、「真実、誠実、正直」ということです。だから、主の前に正直な心で出ること、疲れているときは「疲れています。」「神様、今、私はこういう状態です。とても礼拝できるような状態に思えません。でも、礼拝に来ました。」そういう正直な心も「まこと」の姿です。
聖書には、イエス様を信じる者の内に、聖霊が住んでくださって、そのお方の助けによって、「アバ父」と親しく呼びかけることができるとあります。私たちの心のうめきや叫びを、祈りや賛美をそのままお伝えすることができるのです。
ですから、「霊とまことによる礼拝」は、どこか遠い所におられる神様を、高いハードルを超えて礼拝するのではありません。いつも私たちの傍らにいてくださる主なる神様に、まるで心と心を通わせるように親しくささげることができる礼拝なのです。だから、私たちは、今朝もこうやってイエス様によって、「霊とまことによる礼拝」を捧げているのです。心の深みまでご存じである父なる神様のみ声を心で聞くことができるし、私たちも応答することができるし、正直な思いを打ち明けることができるのです。そういう礼拝です。そして、この礼拝は日曜日の礼拝もそうですし、家に帰って一人になった時にも続いてくのです。イエス様が共におられるからです。だから、クリスチャンの生活はずっと「新しい礼拝」捧げているような歩みなのです。
6 救い主に出会って
この時、イエス様はサマリヤの女性に、「今がその時です。」と言われました。「新しい礼拝」の原点がここにあるのです。なぜなら、救い主が来られたからです。だから、彼女が「私は、キリストと呼ばれる救い主が来られることを知っています。救い主がこられたらすべてのことを教えてくださるときいています。」(ヨハネ4・25)と言ったとき、イエス様は、はっきりとこう言われたのです。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(ヨハネ4・26) 「わたしこそが救い主です」と宣言なさったのです。
彼女は嬉しかったでしょう。「そうか、この方が救い主なのだ!」彼女の心は喜びに満たされて、水を汲みに来ていたことも忘れて、急いで町に帰って行ったのです。サマリヤの女性は救い主に出会い、渇いていた心が癒され、人目を避けていた人生から、喜びをもってイエス様を人々に紹介する人生に変えられたのです。
みなさん。私たちの人生にも様々なことがおこります。心が渇くこともあります。そんな私たち一人一人をイエス様はご存知で、今朝も語っておられます。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4・14)
主を礼拝し生きることは、イエス様から豊かな水をいただき、枯れることのない泉が、私たちのうちに与えられているということです。そこに癒やしがあります。慰めがあります。喜びがあります。神様の大きな愛と平安があるのです。そのような「新しい礼拝」に生かされていることを覚えながら、「主よ。今日もあなたの生ける水があふれ出ますように」そんな祈りをもって、この週もあゆんでいきましょう。