城山キリスト教会説教
二〇二四年七月二一日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書四章二七節〜四二節
 ヨハネの福音書連続説教11
   「目を上げて畑を見よ」
 
 27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。
28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。
32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」
 39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(新改訳聖書第三版)
 
 前回、私たちは4章の前半を読みました。
 イエス様がエルサレムのあるユダヤ地方からガリラヤ地方へ向かわれる途中、サマリヤを通った時の出来事です。スカルという町の外れにある「ヤコブの井戸」の傍らにイエス様が腰を下ろしておられると、お昼の正午頃、一人のサマリヤの女性が水を汲みにやってきました。イエス様は、ご自分の方からその女性に「水をください」と声をかけられて、こうおっしゃったのです。「もしあなたが求めるなら、わたしはあなたに生ける水を与えます。その水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4章13−14節)
 彼女は「いったいこの人は何をいっているのだろう。水をくれといいながら、今度は生ける水をあげるという」イエス様が言われたことの意味が分かりませんでした。「そんな水があれば便利ですよね。水を汲みにくる手間が省けるから助かります。私にもください」と答えたのです。すると、イエス様は突然、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。女性が「私には夫はありません」と答えると、イエス様は「そのとおりですね。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではありません。」イエス様は、この女性が抱えている問題の核心をずばりと指摘されたのです。 彼女は結婚生活や人間関係に問題を抱えていました。本当の愛や誠実さを知ることができずに心の渇きを覚えていました。そんな自分のことをイエス様が言い当てたので「この人はただ者ではない。もしかしたら、私の悩みに解決を与えてくれるかもしれない。」そして、一つの問いをなげかけました。「どこで礼拝したらいいのですか」という質問でした。彼女は、人生の問題の解決は神様を礼拝すること、つまり、神様との正しい関係の中に生きることが大切だと感じていたようなのです。
 当時、サマリヤ人はゲリジム山で礼拝していました。一方のユダヤ人はエルサレムの神殿で礼拝していました。それぞれ「自分たちの礼拝のほうが正しいのだ」と主張していたわけです。だから、この女性は、「どこで礼拝すべきでしょうか」と質問したのです。そんな彼女にイエス様は言われました。「あなたがたが神様を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。真の礼拝者たちが霊とまことによって神様を礼拝する時が来ます。今がその時です。」つまり、「特定の場所に限定されず、世界中どこにおいても礼拝できる時が来ます。信じる人々が、聖霊の助けによって、心から神様を礼拝するようになるのです。今がその時です。」と言われたのです。そして、「このわたしが救い主キリスト(メシヤ)です」と告げられました。
 今日は、その後に起こった出来事(4章の後半)を見ていきましょう。
 
1 サマリヤの女と町の人たち
 
 28節から30節には、こう書いてあります。
 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。(ヨハネ4章28ー30節)
 イエス様との出会いが彼女に大きな変化をもたらしました。水を汲みに来ていたはずなのに、それを井戸に置いたまま町へ戻っていったのです。イエス様と出会う前の彼女は、誰もいない一番暑い時間に水を汲みにきていましたね。人から避けられ、自分も人から遠ざかって生活していたのです。それが、自分の方から町の人々のところに行って「みなさん!来て、見てください。私のこと全部を言った人がいるのです。この人はキリストなのでしょうか。救い主に違いありません。本当かどうか自分の目でみて確かめてください。」と、呼びかけはじめたのです。
 この「来て、見てください」という言葉は前にも出て来ました。ヨハネ1章でイエス様の弟子となったピリポが友人のナタナエルに言った言葉です。疑うナタナエルにピリポが「来て、そして、見なさい。」と言ったのです。それで、ナタナエルは直接イエス様のもとに行き、イエス様が本当にキリストであることを知るようになったのです。
 ピリポもサマリヤの女も、「とにかく、このイエス様のもとに来てごらんなさい。自分の目で確かめてください」と促したわけです。彼女は、難しい聖書の知識をもっていたわけではありません。でも、イエス様は私のことをご存じで、私の疑問に答えてくださった。私が抱えていた問題の解決を与えてくださるお方だということがわかったのです。だから、その素晴らしいお方に直接会って下さいと紹介したのです。
 
 @「彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。」(ヨハネ4章30節)
 
 サマリヤ町の人々は彼女の声に促され、イエス様に会いにいったのです。口語訳聖書では、「人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。」と訳されています。大勢の人がサマリヤの女性のことばをきっかけにイエス様のところにやってきました。
 
 A「その女の言葉によって信じた」(ヨハネ4章39節)
 
 39節には、町の人たちの多くが「その女の言葉によって信じた」と書かれています。この女性のひと言からサマリヤに福音が広がっていったのです。彼女は強いられて伝道しようと思ったわけではありません。ただ、自分が体験した出来事を話しイエス様を紹介したのです。
 私は、こういう箇所を読むと嬉しくなります。イエス様はご自分を人々に現わすために正直な証言を用いてくださるのです。私たちがイエス様と出会って体験したことをそのまま用いてくださるのです。時々、思わないでしょうか。「自分なんかよりも、もっと有名で影響力のある人がクリスチャンになったら、その人を見て沢山の人がイエス様を信じるのではないだろうか。」もちろん、神様はそういう人を通してもイエス様を伝えてくださるでしょう。
 でも、パウロはこういっています。「神はこの世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選ばれた」(第1コリント1章27節)私たちは「この世で力のある人がクリスチャンになったら」と思うわけです。でも、神様は「わたしの方法はそうではない。弱い存在かもしれない。でも、そのあなたを用いるのだ」とおっしゃるのです。救い主イエス様を知り、そのお方に信頼し告白する私たちをそのまま用いてくださるのです。だから、「私なんてたいしたことない。弱く小さな者です。」と思ったなら、聖書のことばの通りです。「主はこの世の弱い者を選ばれた」の通りに、主はあなたを用いようとされているのです。サマリヤの女は、この時、町で最も信頼されそうにない人でした。でも、その彼女がイエス様と出会い、彼女のことばによって、「ぞくぞくと、人々がイエス様のもとへやってきたのです。」4章42節には、その後のサマリヤの人々の様子がこうあります。
 
 B「『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』」(ヨハネ4章42節)
 
 彼らは、サマリヤの女性がきっかけとなって、イエス様のところに行きました。その後、イエス様から直接話し聞き「イエス様こそほんとうに世の救い主だ。直接、聞いて信じました」という告白に導かれたのです。
 今も同じですね。私たちも色々なクリスチャンの経験やお話を通してイエス様を知ります。人から誘われて教会に来たかも知れない。人から聞いて「聖書すこし読んでみようかな」と思ったかもしれない。でも、そこから自分で聖書の約束のことばを信じ受け入れてクリスチャンになったのです。今も、イエス様は聖書を通して、私たちに一人一人に個人的に語りかけてくだいます。そのイエス様の招きに応えて、私たちは「この方が本当に私の救い主だと知っている」という告白の中に生かされているのです。
 
2 イエス様と弟子たち
 
 さて、今日の箇所には「サマリヤの女の出来事」の間に「イエス様と弟子たちの会話」が挿入されています。
 27節にはこうあります。「このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、『何を求めておられるのですか』とも、『なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。」(ヨハネの福音書4章27節)
 弟子たちは食べ物を調達するために買い出しに行っていました。帰ってくるとイエス様が井戸端で女性と話していたわけです。弟子たちは不思議に思ったでしょう。サマリヤ人に話しかけていることもそうですし、当時ユダヤ教の教師と呼ばれる人は街角で女性と話すことはタブーだったからです。でも、弟子たちは、これまでイエス様と行動を共にするなかで少しずつ分かっていたはずです。「ああ、イエス様というお方は、私たちが当たり前だと思っているような慣習や偏見にとらわれないお方だ。イエス様の行動にはイエス様の目的があるのだ。」ということを少しずつ気が付き始めていたのでしょう。だから、何も言わずにイエス様と女性の会話を眺めていたのです。
 サマリヤの女が立ち去った後、町で買ってきた食べ物をイエス様に勧めました。「先生。召し上がってください」(ヨハネ4章31節)すると、イエス様はこう言われたのです。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4章32節)
 皆さんが弟子だったどう思いますか。「どういうことですか、イエス様、暑い中せっかく買ってきたのに、誰かがもう食べ物を持ってきてくれたのですか。それならそうと早く言ってくださればいいのに」と思ったのかもしれませんね。でも、イエス様が「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:32)と言われたのは、物質的な食べ物のことではなかったのです。
 イエス様は続けてこう言われました。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4章34節)つまりイエス様が言われた「食物」は、お米やパンというような実際の食べ物ではなく「心の糧」、「魂の糧」と言ってもよいと思います。
 イエス様にとっての「心が満たされる糧」というのは、どこからくるかというと、一つは「神のみこころを行う」ということです。
 
 @みこころを行うこと
 
 神様のみこころ(願い)とはなんでしょうか。前々回、読んだ3章16節にはこうありましたね。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)神様は人を愛して、私たちが「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ことを願っておられます。第一テモテ2章4節にもこうあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(1テモテ2章4節)神様は、すべての人が自分の問題に気づいて解決を見いだし、罪赦され、癒され、最善の人生を歩む者へと変えられていくことを望んでおられるのです。つまり、神のみこころは、あなたという一人一人が最善の人生を神様にあって送ることができるようになることなのです。それを行うことがイエス様の「心の糧」というのです。
 
 Aみわざを成し遂げること
 
 そして、もう一つ、イエス様は「みわざを成し遂げること」が私の食物とおっしゃいました。皆さん、「神のみわざを行う」とは、イエス様にとってどういうことでしょうか。ヨハネ10章32節でイエス様はいわれました。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。」つまり、福音書の中でこれから見ていく、イエス様がなされた一つ一つの「良いみわざ」ですね。イエス様は病に苦しむ人を癒されました。罪人と呼ばれる人の友となられました。また、このサマリヤの女性のように人生に悩み心の渇きを持つ人を癒されたのです。そうした一つ一つのイエス様のみわざが「わたしの食物だよ」とイエス様は言われるのです。
 つまり、私たちがこうしてイエス様を信じクリスチャンとして生きているということは、そのこと自体がイエス様にとって「すばらし食物」を得ているということなのです。私たちがイエス様にあって生かされているということが、もう既にイエス様にとって「すばらしい糧」になっているのです。私たちが何か立派なことをしたから、何かをしたらイエス様が喜んでくださるではなく、私たちの人生がイエスによって主を礼拝する者と変えられているということがイエス様にとって喜びなのです。 そして、もちろん最終的にイエス様が成し遂げてくださった究極のみわざは、私たちの罪のために十字架に掛かり三日目によみがえってくださった「十字架と復活」、「救いのみわざ」です。だから、イエス様は私たち一人一人が救いを得て、イエス様にあって生かされていくことを心から望んでくださり、「それが私の心の糧だ」とおっしゃるのです。「あなたが生かされること、あなたが主を礼拝し歩むことで、わたしの心が満たされる」と言われるのです。
 
3 「目を上げて畑を見なさい」
 
 そして、もう一つ、イエス様は弟子たちに大切なことを教えられました。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(ヨハネ4章35節)
 この時、弟子たちの目の前には青々とした畑があったのでしょう。イエス様はそれを見ながら「色づいて刈り入れるばかりになっている」とおっしゃるのです。実際は、まだ真っ青なわけですよ。青々とした畑が目の前に広がり、収穫まで四ヶ月あるわけですから、全然、色づいていないわけです。それでも尚、イエス様は「目を上げて畑を見なさい。もう色づいている。刈り入れ時がきている」と言われました。つまり、イエス様は、「神の言葉という種が蒔かれるときは、すぐに刈り入れが始まるのだよ」と教えられたのです。
 皆さん。考えてみてください。もし、私たちが福音を聞いた時、こう言われたらどうですか。「あなたの救いはね。5ヶ月は待たければならない。そんなに早くは色づかないですよ。」「でも、少しがんばって修行したら3ヶ月に短縮できます。」「今月中に聖書を読み切ったら刈り取りですよ。」そうやって皆さんはクリスチャンになりましたか。そんなこと絶対にありません。私たちはそのような制限を受けてクリスチャンにはなりませんでした。
 イエス様の福音は種が蒔かれて、つまり、福音が語られ、その約束を聞き、信じ受け入れたその瞬間に、もう色づいて永遠のいのちの実を刈り取るまでになるのだと、イエス様はおっしゃっているのです。私たちが福音を心に受け入れた瞬間、救いが与えられるのです。イエス様の十字架のみわざによって全ての罪が完全に赦され、神の子とされ、永遠のいのちが与えられるのは、信じたその時にです。福音はすでに色づいているのです。
 実際、サマリヤの町はどうでしたか。ユダヤの人たちから見たら汚れた地、神様の祝福からほど遠い荒れ地のような場所でした。でも、サマリヤの女性がイエス様と出会い、福音の種を蒔くものに変えられ、福音を伝えたとき、その種はあっという間にサマリヤの人々に伝わり、多くの人がイエス様を救い主として信じたのです。聞いてすぐに「永遠のいのちの実」を受け取ったのです。イエス様は、そこに神のことばの種が蒔かれる時、サマリヤであっても、どこであっても「目を上げて畑をみなさい。色づいているではないか」とおっしゃるのです。
 皆さん、今、私たちはその恵みの中に生かされています。自分の周りを見ると「目を上げて畑をみなさい」といわれても全く色づいていないように見えるかもしれません。特に、日本ではクリスチャンが少ないですから。それでも尚、イエス様は「目を上げて畑を見よ。すでに色づいている。」と言われるのです。なぜなら、神のことばに「いのち」があるからです。私たちの努力や頑張りではなく、神のことばが蒔かれたときに、イエス様の福音が受け入れられたときに、それは一瞬のうちに「いのち」を持つことができるのです。私たちは、そのような素晴らしい福音に生かされています。パウロは言いました。「今は恵みの時、救いのときだ」、その今という瞬間に私たちは生かされている恵みに感謝しながら、それぞれが置かれた普通の生活の中で、主をあがめ、主のみわざに信頼し、この週も歩んでまいりましょう。