城山キリスト教会説教
二〇二四年八月一八日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書四章四三節〜五四節
 ヨハネの福音書連続説教12
   「ことばへの信頼」
 
 43 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。
44 イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言しておられたからである。
45 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。
 46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。
47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。
48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。
52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。
53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。
54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。(新改訳聖書第三版)
 この時、イエス様はユダヤからガリラヤに向かって進んでおられました。その途中、サマリヤを通られて一人の女性と出会い、その女性がきっかけとなってサマリヤの多くの人々がイエス様を救い主として信じるようになりました。
 その後、イエス様は、サマリヤの人々がしばらく滞在して欲しいと願ったので、二日滞在されて、当初の目的であるガリラヤへ向かわれたのです。
 今日の箇所では、そのガリラヤでの出来事が記されているわけです。44節を見ると、イエス様ご自身が「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と言っておられたことが書かれています。でも、次の45節を見ると、ヨハネは、イエス様がガリラヤに行かれると「ガリラヤ人はイエスを歓迎した」と書いているのです。ガリラヤ地方はイエス様がお育ちになった故郷と言ってもいい場所ですから「故郷では尊ばれない」と書かれているのに、「ガリラヤ人はイエスを歓迎した」と書かれているので、いったいどっちなのと思ってしまうわけです。
 
1 「預言者は故郷では尊ばれない」
 
 44節の「預言者は自分の故郷では尊ばれない」ということばは、大きく三つの意味が込められていると考えられます。一つは、「エルサレムの人々にイエス様は受けいれられなかった」という意味です。
 
 (1)エルサレムの人々
 
 イエス様は、エルサレムで神殿を指して「わたしの父の家」と言われました。つまり、エルサレムがイエス様の故郷であるとも言えます。神様のひとり子であり、神様から遣わされた方であるイエス様は、本来、エルサレムで崇められ尊ばれていいはずです。しかし、エルサレムの人々はイエス様を尊び歓迎するどころか、ユダヤ当局者たちは「あいつは異端分子だ、危険人物だ」と、イエス様に敵意を抱くほどだったのです。そういう意味で、イエス様が「ご自分が本来、受け入れられるはずの場所、故郷で尊ばれ」なかったわけです。
 ですからイエス様はエルサレムを去ってガリラヤへ向かわれました。しかし、ガリラヤのすべての人がイエス様を歓迎したわけではなかったのです。
 
 (2)ガリラヤの人々
 
 他の福音書を読むと、イエス様がガリラヤのナザレに帰られたとき、人々は「あれは大工のせがれじゃないか。母親はあのマリヤだし、おれたちはイエスの弟たちも妹たちもよく知っている。普通の人間じゃないか」そう言って、イエス様につまずいたと書かれています。イエス様のことをよく知っているはずの人々が、イエス様を神から遣わされたお方、神のことばをあますところなく伝える預言者として認めることができなかったというのです。
 また、三つ目は「この世の人々」が、イエス様を尊ばなかったとも理解できます。
 
 (3)世の人々
 
 ヨハネの1章10節―11節には、こう書かれていましたね。
「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1章10節−11節)
 つまり、イエス様が言われた「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と言われた、このことばの中には、この世自体が、この世界自体がイエス様の故郷であるのに、受け入れない人々がいるという現実があるということを示しています。
 ユダヤ人に限らず、ある意味では、私たちの姿を重ねてもいいかもしれません。私たちは、イエス様を始めから尊ぼうなどとは考えませんでした。人は、みんな、一人一人が神様の姿に似せて形作られているにもかかわらず、「イエス様を受け入れよう」「神様を信頼し生きよう」などと、最初から考えようとしない存在です。
 つまり、「エルサレムでも、イエス様がお育ちになったガリラヤでも、この世のどこにおいても、イエス様を受け入れようとしない人々は沢山いるのだ。」「今も、多くの人がイエス様に背を向けて拒絶したままで生活しているのだ」という現実をイエス様はご存じでした。
 皆さんが、もし、そんな扱いを受けたらどう感じますか。自分の故郷、自分が本来受け入れられるべき場所に戻ったのに、拒絶されたら辛く悲しいですね。「もう、あなたたちなんて知らない」といって去ってもおかしくありません。でも、みなさん。聖書読むと何と書いてありますか。イエス様は素晴らしいお方です。黙示録3章20節には、このようなイエス様の言葉が書かれています。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)
 イエス様はご自身が尊ばれるどころか拒絶されても、そんな私たち一人一人のもとから去るのではなく、私たち心の扉をノックしてくださるお方です。そして、私たちが一度心の戸を開けるなら、イエス様は喜んで入ってきてくださり、ともに食事をしてくださるというのです。つまり、「わたしはあなたと親しく過ごす」と語ってくださるのです。
 
2 イエス様を歓迎した人々
 
 さて、45節には、この時、一部のガリラヤ人がイエスを歓迎した理由がこう書いてあります。
「イエス様が祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたから」(ヨハネ4章45節)
 おそらく、彼らは、エルサレムでイエス様のすばらしい奇跡のことを見たり聞いたりして感激したのでしょう。ガリラヤ人は、もともと血気盛んな人たちです。ユダヤ地方の人々からは、少し蔑まれていました。ですから、イエス様が神殿から商売人や両替人たちを追い出されるのを見聞きして、「俺たちの仲間が都で大活躍した」「何か大きな事をしてくれるのかもしれないぞ」と期待しイエス様を歓迎したのです。
 でも、その人々が、本当の意味でイエス様を理解し、救い主として信じたかというと疑問ですね。むしろ、人間的なヒーローとして、イエス様を歓迎していたと考えられます。
 今でも、同じようなことがありますね。イエス・キリストを人として尊敬するという人は沢山います。「すばらしい教えを説いた人」「自己犠牲に生きた愛の人」「偉大な人物」「だから尊敬します」という方は多くおられます。
 しかし、聖書が語っているのは、また、イエス様が私たちに望んでおられるのは、イエス様を単なる「道徳的に素晴らしい人」や「カリスマ的存在」「奇跡を行う特別な人」として迎えることではなく、「イエス様こそ、私の救い主です」と告白し、イエス様が語られる「約束のことばを信頼して生きる」姿を、イエス様は求めておられるのです。
 そして、ヨハネはその大切なこと伝えるために、今日の箇所で一人の人を紹介しています。ガリラヤのカペナウムに住んでいた「王室の役人」です。ヨハネは、イエス様の数多くの奇跡から、この「王室の役人」の息子を癒された出来事を「第二のしるし」と呼び記しています。この出来事を通して、「イエス様のことばを信頼して生きる」大切さを示しているのです。
 
3 イエス様のことばへの信頼
 
 この時、イエス様はガリラヤの「カナ」におられました。役人が住んでいた「カペナウム」は「カナ」から30キロほど離れた町です。徒歩だと7〜8時間、半日以上かかったでしょう。そこから「王室の役人」が、イエス様のもとへ、やってきました。
 
 (1)王室の役人の来訪
 
 彼は下っ端の役人ではありませんでした。「王室の役人」は「バシリコス」ということばなのですが、これは、「バシレウス(王)」という言葉から派生した「王に仕える役人、直属の役人」ということばです。王に直接つながりのある人物です。おそらく、当時ユダヤをおさめていた領主ヘロデ・アンティパスに仕える、身分の高い役人だったと思います。
 そんな人がわざわざガリラヤのナザレの大工で、今は旅回りの説教者のようなイエス様に会いにきたのです。立場を考えれば呼びつけても良いくらいです。この「役人」には切羽詰まった理由があったのです。47節にはこうあります。
「息子が死にかかっていたからである。」(ヨハネ4章47節)
 彼はイエス様に「息子を癒して下さい」と願いました。すると、イエス様は第一声、言われました。
 
 (2)イエス様のことば
 
「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」(ヨハネ4章48節)
 イエス様、なんだか冷たい印象ですね。でも、ヨハネの福音書でよくこういうイエス様の対応がでてきましたね。カナの婚礼の時、母マリヤにもそうでした。ニコデモの時も、一見、突き放しているように感じることばをおっしゃいました。でも、イエス様のことばには、いつもその人にとって大切な意味があります。
 注意して読むと、この時、イエス様は「あなた」ではなく「あなたがたは」と言われています。つまり、この役人だけでなく、周りにいる群衆に対しても、語っておられることがわかります。この時の群衆は、どんな様子だったでしょうか。「イエスが何か不思議なことをするのではないか」「今度は、どんな奇跡を見せてくれるのか」と眺めていたのではないかと思います。でも、イエス様は、決して人の興味を満たすために奇跡ををなさるのではありません。人々の雑用係ではありません。また、何でも安易に解決してくれる魔法のランプでもありません。その人がイエス様ご自身を求める心を望んでおられるのです。
 この時、役人は単なる興味本位ではなく真剣にイエス様に願いました。
「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」(ヨハネ4章49節)「イエス様、今すぐに、実際に私の家に来て、息子を直してください。」という真剣な求めです。
 イエス様は、そんな彼の願いを受けとめてくださった上で、彼の想像をこえたことをおっしゃるのです。
「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(ヨハネ4章50節)
 直訳は「行け!あなたの息子は生きる!」です。この時、役人は「イエス様このままだと息子は死んでしまいます」「今、死なないうちにきてください」と願いました。言い換えるな、自分の願う時に、自分の想像する方法で、イエス様を求めたのです。でも、イエス様はまるで彼の思いの枠を取り払うように、「行きなさい、息子は生きる、もう直っている!」そう力強く宣言されたのです。
 きっと、彼はびっくりしたでしょう。でも、ヨハネはイエス様のことばを聞いた役人の反応を、短くこう書いています。
「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」(ヨハネ4章50節)
 彼はイエス様のことばを「信じて」「帰った」のです。イエス様のことばを受け取って行動したのです。つまり、イエス様の「しるしや不思議」を実際に「見て信じること」から、「イエス様のことば」を聞いて、それを「信頼して」生きることに、一歩、踏み出したのです。
 パウロは、ローマ書10章17節でこういいました。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
 皆さん。信仰はイエス様のことばを聞くことから始まるのです。けして自分の努力や、自分の側のがんばりから生まれるのではありません。イエス様がすでに語ってくださった「ことば」を聞き、信頼して生きることからスタートするのです。
 
 (3)帰路につく役人
 
 この役人は、イエス様のことばを、持って帰ってきました。でも、私は想像するのです。途中できっと不安になったと思います。「カナ」から「カペナウム」までの道のりは半日以上かかりました。その間、考えたと思います。「さっきイエス様と話したときは信じられたけど、本当にそうだろうか?」「家に帰って癒されてなかったらどうしよう。」でも、彼はその度に思い出したはずです。「あなたの息子は直っています」「生きる」と言われたイエス様のことばを。何度も何度も、みことばを思いめぐらす、そんな旅だったと想像します。
 私たちも、同じようことがありますね。「礼拝でメッセージをきいた時はそう思えたけど。あの集会の時は、あのキャンプの3日間の間は信じたけど。」「本当だろうか。」そんな風に思うこともありますね。でも、その度に思い起こすのです。イエス様のことばを。そのことばを握って一歩一歩、進んで行けば良いのです。
 「役人」の帰りの道も、そんな旅だったはずです。そして、段々、段々、家に近づくと遠くから誰かが駆け寄ってきます。よく見れば家のしもべたちです。「ああ息子に何かあったのだろうか…。」すると、しもべたちが言いました。「ご主人様!坊ちゃんが癒されました!」「いつ息子は治ったのか?」「いついつです。」しもべから話を聞くと息子が癒された時間は、丁度、イエス様が「あなたの息子は直っています」と語られた時間だったのです。
 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。(ヨハネ4章51節−53節)
 イエス様は、距離も時間も空間も超えて、みことばをもって素晴らしいみわざを成してくださいました。旧約聖書のイザヤ書55章11節にはこのような言葉があります。
 「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55章11節)
この聖書にあるとおり、イエス様のことばは成し遂げられたました。そして、この出来事を通して、「彼自身と彼の家の者がみなイエス様を信じた。」(ヨハネ4章53章)のです。
 家の者たちは実際にはイエス様に会うことはありませんでした。主人が持ち帰った「イエス様のことば」を聞いただけです。でも、イエス様のことばに信頼した主人の行動によって、家の者たちがみなイエス様を信じることができたのです。一人の人がイエス様と出会い、イエス様のことばを聞き、信じて踏み出したとき、その人がもちかえった「キリストのことば」を通して、イエス様の福音が広がっていったのです。
 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10章17節)とある通りです。
 皆さん。私たちも毎週毎週の礼拝に来て、何を聞いて何をもってかえるのでしょうか。イエス様のことば、決してかわることのない神のことば、聖書のことばをきいていますね。そして、そのことばを信頼し「持ち帰って」います。「王の役人」のように。それぞれに置かれた場所や境遇は違いますが、同じイエス様のことばを持ち帰ってそれぞれの家庭に、職場に生活の場にもどっていくのです。
 もちろん、今でも神様は素晴らしい奇蹟のようなみわざもみせてくださると信じます。しかし、たとえ驚くような奇蹟がなくても大丈夫です。安心してください。神のことばはけして変わらない、イエス様のことばは「天地は滅びます、しかし、わたしのことばは決して滅びることがない」と言われる約束のことばです。距離も、空間も、時間も関係ありません。イエス様は私たちの思いを超えて働いてくださいます。ですから、「イエス様のことば」を信頼し、今日も持ち帰って、その恵みの中を歩んでいきましょう。
「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13章31節)
「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」(ヨハネ4章50節)