城山キリスト教会説教
二〇二四年九月八日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書五章一節〜九節
 ヨハネの福音書連続説教13
   「ベテスダ−あわれみの家ー」
 
1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、イエス様がガリラヤのカナで「王室の役人」の息子を癒された出来事を見ました。この役人はイエス様のところにやってきて「息子が病気で死にかけているのです。どうか、家に来て息子を直してください。」と願いました。それを聞いたイエス様は、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と言われたのです。彼が、イエスが言われたことばを信じて家に帰路につくと、その帰り道、家のしもべたちがやって来て役人にこう伝えたのです。「ご主人様、息子さんの病が治りました」。役人が詳しく話をきくと、なんとイエス様が「あなたの息子は直っている」と言われた丁度その時刻に息子の病が直っていたのです。そして、役人と家の者たちはイエス様を信じたのです。
 ヨハネはこの出来事を、イエス様が神の子、救い主であることを示す「第二のしるし」と呼んで書き記しました。そこから、私たちは「イエス様が語られた約束のことばは必ず成就する」ということ、そして、「私たちはイエス様の約束のことばである聖書のことばに信頼して歩んでいけばよい」ということを学びましたね。
 
 さて、今日は5章に入りました。今日の箇所は、イエス様がもう一度、ガリラヤからエルサレムに上られた時に起こった出来事です。イエス様は「ベテスダ」と呼ばれる池に行かれました。そこでイエス様は38年もの間、病気を患っていた人を癒されたのです。
 
<ベテスダの池での癒し>
 
 この時、エルサレムでは「ユダヤ人の祭り」(ヨハネ5章1節)が行われていましたので、国中から大勢の人々が集まっていました。「羊の門」と呼ばれる町への入り口があって、人々が列をなして神殿に向かっていたのです。その近くに「ベテスダの池」がありました。ヘブル語で「あわれみの家」という意味です。この池には「五つの回廊」があったと書かれていますが、池は長方形の形をしていたようです。その4つの辺と、丁度、真ん中に渡り廊下のようなものがありました。そこに大勢の「病気の人や、目の見えない人、足が不自由な人、痩せ衰えた人たちが」あわれみを求めて、癒されることを願って集まっていました。
 少し、想像してみてください。お祭ですから、沢山の人が楽しそうに喜びに溢れて「羊の門」を通り神殿に向かっていたのです。その華やかさとはうらはらに、すぐそばにある「ベテスダの池」の周りには病み疲れた人々が沢山伏せっていたのです。当時、病んでいる人、体の不自由な人は神殿から閉め出されていましたから、祭りに出席することはできません。人々とのあたたかい交わりや喜びを失っていました。そういう人々が大勢池の周りにいたのです。
 なぜ、この池に人が集まるようになったかというと、こんな言い伝えがあったからです。「主の使いが時々この池に降りてきて水を動かす。その時、最初に池に入った者が癒される。」ベテスダの池は、池の底から地下水が湧き出ていて、時々、間欠泉のようにブクブクと泡がでて水面を動かしたのです。池の表面が動くのを見た人々は「目に見えない天使が水をかき回しているからだ。最初に池に飛び込んだ人の病気は治る」そんな風に考えたのです。医者に見放され、治る見込みがない人たちがその迷信を信じて藁をもすがる思いで集まっていました。
 今日の箇所に出てくる38年間、病を患っていたこの人もそうでした。そんな彼のもとにイエス様が来られて、彼をご覧になって病気を癒してくださったという出来事です。ヨハネは、この「ベテスダの池での癒し」の出来事をイエス様が行われた第三番目の「しるし」呼んで書いています。第一の「しるし」は、2章で「カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた出来事」です。二番目は、前回の「王室の役人の息子の癒し」、そして、「ベテスダの池での癒し」が第三の「しるし」です。
 イエス様が「神の子、救い主」だということ、そのお方どのような働きをなされるのか、私たちに何をしてくださるお方なのかが、この「第三のしるし」を通して語られているのです。
 今日は、この癒しの出来事を読みながら、いくつかの大切なことをご一緒に考えていきましょう。
 
1 イエス様の問いかけ
 
イエス様は、彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」(ヨハネ5章6節)
 
 みなさん。病気の人が「良くなりたい」のは当たり前ですね。38年も病気の人が「良くなりたい」のは当然です。でも、人はあまりにも失望が続くとどうなるでしょう。周囲の人からどんなに「良くなるよ」「大丈夫だよ」と言われても、希望を持つこと期待することがしんどくなってしまうことがありますね。
 きっと彼は、いろいろな医者のところにいったでしょう。沢山の薬も飲んだと思います。「あれがいいよ」「これがきくよ」と聞けば試したでしょう。でも、一向に病気はなおりませんでした。「何をやっても無駄だ」期待しては裏切られの連続だったと思います。「もう、これ以上、良くなることはない。」38年という長い年月は、彼の心から「良くなりたい」という願いを奪うのに十分な長さです。
 だから、彼はイエス様にこう答えています。
「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(ヨハネ5章7節)
 「池の中にいれてくれるひとがいないのです。」「あわれみにどっぷりと浸してくれる人がいないのです」と行ったのです。ベテスダの池に来たけれど(おそらく、最初は誰かに運んでもらったのでしょう)でも、その後は、彼は寝たきりですから、どう考えても自分の力で最初に池に飛び込むことはできません。一緒に水が動くのを待って、水が動いたら池に入れてくれる、そんな友だちもいませんでした。
 それでも、この人は、この池から離れることができなかったのです。なぜでしょう。おそらく、もう、ここしか居場所がなかったからです。「この池に希望もないけどかといって他にいくところもない」「この場所にいれば、少なくとも人々の施しを受けて生きて行くことができる。」だから、イエス様の「よくなりたいか」という問いに、真正面から「はい。良くなりたいです。」と答えられなかったのです。
 でも、イエス様は、そんな彼が希望を失い伏せっているのをご覧になって、その状態がもう長くて、あきらめてしまっているのもご存じのうえで「よくなりたいか。」と問いかけられたのです。まるで、彼の心の奥底にある、自分でも忘れている願いをもう一度回復してくださるかのように、イエス様は彼を見つめて問いかけられたのです。
 皆さん、私たちはどうでしょう。「よくなりたいか」という質問に対して、「いやいや、無理です。もう何十年もこの状態ですから」「よくなりっこないです」そんな風に思うことがありますね。彼のように実際に伏せっているわけではないにしても、問題がなかなか解決せずに長引いてしまうようなとき、置かれた状況が一向によくならないとき、「イエス様、どうせ無理です」「もう求める気持ちもありません。」期待することもできないくらい疲れはててしまうこともあります。
 もちろん。イエス様は私たちに無理強いをなさるお方ではありません。でも、38年間、病に伏せっていた彼と同じように、私たち一人一人にも目を留めてくださって、私たちの心の深いところにある願いを知ってくださって、「あなたの本当の求めは何ですか」「今日、あなたがわたしに求めるものはなんですか」「よくなりたか」と声かけてくださるのです。
 
2 イエス様への応答
 
 イエス様は、38年間、病に伏せっていた彼に続けてこう言われました。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ5章8節)
 歩けない人に向かってですよ。イエス様は「わたしがあなたを池にいれて上げます」ではなく、「これから私が病気を直します」でもなく、「さあ、起きて!(あなたのその足でたって)床を取り上げて、歩きだしなさい!」と、命じられたのです。彼は、驚いたでしょう。でも、「そんなこと突然いわれても無理です」とは言わなかったのです。「いやいやいや、そういうことじゃなくて、あなたが私を池に運んでくださらなければなおらないのですよ。動けないんですから」ともいいませんでした。なんと彼はイエス様のことばに応答して自分の足に力を入れたのです。今まで決して踏み出そうとしなかった足に力をいれて一歩踏み出そうとしたのです。すると、その瞬間、何がおこったでしょう。
「その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」(ヨハネ5章9節)
 「もう良くならない」「俺の人生このままだ」孤独とあきらめの象徴のようなベテスダの池に38年もの間伏せっていた彼が、イエス様のことばに応答したとき、新しい人生を自分の足で歩み始めたのです。
 皆さん。私たちは、自分で自分を救うことができません。神様が与えてくださる救いの為に何一つ努力する必要はありません。救いは全て神様が与えてくださいます。でも約束のことばを聞いて、そこで終わりなら自分のものになりませんよね。「さあ、どうぞ」と差し出された美味しいご馳走をただ見ているだけでは味わうことはできません。「ありがとうございます」と受け取らなかったら味わうことはできませんね。差し出されたご馳走は私たちが料理する必要はありません。全部用意されています。でも、それをいただくことはこちらの意志です。私たちクリスチャンの生活はイエス様のことばを聞いて受け取ったところからスタートしました。そして、応答していく歩みなのです。
 
<ヨルダン川を渡る>
 
 旧約聖書のヨシュア記3章にこんな出来事が書かれています。
 昔、イスラエルの民はモーセに導かれてエジプトの奴隷生活から脱出しました。四十年間の荒野での生活の後に、いよいよ神様の約束の土地に入るときがやってきました。モーセの後継者ヨシュアが民を率いて、約束の地に入っていくことになったのです。しかし、問題がありました。目の前にあるヨルダン川を渡らなければならなかったのです。その時期はヨルダン川の水が岸いっぱいにあふれんばかりでした。どうしたら渡ることができるでしょうか。そのとき、神様がヨシュアに言われました。「主の契約の箱をかつぐ祭司たちを先頭に渡らせなさい。その祭司たちの足が川の水に浸ると、川の水はせき止められる。」皆さん。川の水は流れているのです。足を踏み入れるのには、勇気がいりますね。でも、ヨシュアは主のことばに応答して一歩踏みだしたのです。何が起こったでしょうか。祭司たちが足を水に浸した時、川の水がせき止められました。そして、イスラエルの民は全員無事に川を渡ることができたのです。(ヨシュア記3章参照)
 不思議ですね。彼らが一歩、踏み出したときに流れがとまったのです。まず川の流れがとめられてから渡ったのではありませんでした。川は水であふれていましたが、神様のことばに応答して足を踏み出したとき、神様のすばらしいみわざをみることができたのです。
 皆さん。神様は、私たちのためにすべてのことを整えて、私たちが安心して進んでいくことができるようにしてくださるお方です。私はそれを信じます。
 そして、時には目の前の状況はかわらなくても、問題の真っ只中だけど神様が最善をなしてくださると信頼し、「全てのことを働かせて益としてくださる」ということばに応答して一歩踏み出すという状況もあるのです。もちろん勇気がいりますね「本当に大丈夫だろうか」と思うこともありますね。クリスチャンになっても先の人生、わからないこと多いですから。皆さん、私たちが信じる前に、エス様が夢に出てきてくださって、これから先の事を見せてくださったらいいと思いませんか。「臨太郎、お前のこの先何十年のことを見せてやろう。すばらしいだろう。信じるか。」これならいいですよね。でも、イエス様はそうなさらないのです。「わたしを信頼して生きるか」と問いかけられるのです。「主のみことばは私の足のともしび」とあるように、目の前の一歩を照らし聖書を通して励ましてくださるのです。「イエス様、目の前の状況は何も変わっていません。」「状況は変わっていなくても、わたしを信頼して一緒に歩んで行こう」イエス様はそうおっしゃいます。「わかりました。イエス様、どうなるかわからないど、あなたとともに歩んで行きます。」そのように応答してゆく中で、イエス様のみわざを味わせていただけるのです。
 皆さんも、クリスチャンになられる前、いろんな不安を感じられたかもしれません。「クリスチャンになったら、家のこと、お墓のこと大丈夫だろうか」「クリスチャンになると、いろんなきまりを守らなければいけないんじゃないだろうか」「毎週、礼拝に行けるか。ほんとうにやっていけるだろうか」いろんな心配あったと思います。でも、振り返ってどうですか。それぞれに一歩踏み出されてイエス様を信じてこられました。「大丈夫だった」「ここまで守られた」と告白できるのではないでしょうか。
 もちろん。「イエス様、信じたのに何故こんなことが起こるのですか」と思うような試練を経験することもあります。大きな悩みを抱えることもあります。でも、イエス様のみことばに応答して、勇気をもって小さな一歩をふみだしてゆくとき、イエス様は「決して、あなたをはなれず、あなたを捨てない」「あなたとともに歩く」とあるように、私たちと共に歩んでくださるのです。詩篇23篇に、「主は私の羊飼い、私は乏しいことはありません」とある通り、私たちだけが一人で踏み出すのではありません。いつもイエス様が一緒にいて人生を歩んでくださるのです。
 
3 律法の限界とイエス様の恵み
 
 ヨハネの福音書の特徴の一つですが、イエス様の「しるし」には、イエス様が神の子救い主であることを示すと同時に、旧約聖書の律法の限界が象徴的に示されているのです。
 たとえば、「第一のしるし」で、イエス様はカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられました。その水は、ユダヤの社会で行われていた「水のきよめ」儀式に使われました。でも、いくら水で洗っても人は完全にきよくなりません。確信がもてないのです。つまり、旧約聖書の律法や戒めを守ることによっては救いを得ることはできないということです。その水をイエス様がぶどう酒に変えてくださったということは、救いは、ぶどう酒に象徴されるイエス様の十字架の血による、救いはただイエス様のめぐみによるということが象徴的に示されているのです。
 今回のベテスダの池の癒しもそうです。「ベテスダ」は「あわれみの家」、「めぐみの家」いう意味です。その池には五つの回廊があり人々が集まっていました。五つの回廊は、旧約聖書のモーセ五書(創、出、レビ、民、申命)に記されている律法を象徴的に表していると解釈されます。つまり、ベテスダの池の五つの回廊に伏せっているというのは、「神様のあわれみを受けるためには、律法の戒めをきちんと守らなければいけない。けれども、どんなに頑張っても自分はあわれみを受けることができない」そういう現実を現す光景だったのです。
 ベテスダの池が象徴するのは「旧約聖書の律法によって、神様のあわれみを受けることはできない。」「律法は、人間の罪や弱さを明らかにしても、救いを与えることはできない。」「律法を守ることによっては、神のあわれみを受け取ることができない」という比喩がこのベテスダの池にはあるのです。
 そして、皆さん。その場所にイエス様が来てくださったのです。救い主なるイエス様が、真のあわれみと恵みを与えてくださるお方として訪れてくださったのです。イエス様は、あわれみを求めて伏せっている人に「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われました。つまり「もう、この場所にいなくてもよい」「先着順で一番でないと救われない」「あわれみを受けることができない」という世界ではもうないということです。
 なぜなら、イエス様は「めぐみとまことに満ちたお方」だからです。まことのあわれみと恵みを与えてくださるお方だからです。律法や戒めを守ることによってではなく、ただ、イエス様を信じることによって救いが与えられる。あわれみをうけることができる。恵みの中に生かされる。そのことをこの「ベテスダの池での癒し」、「第三のしるし」は、私たちに示しているのです。
 皆さん。イエス様は、昨日も今日もいつまでも変わることはないお方です。めぐみとまことに満ちたお方です。真のベテスダ、まことのあわれみとめぐみの中に、私たちが生きることが出来るように、みわざをなしてくださったのです。
 イエス様に出会う前の私たちはみんな「あわれみを求めて伏せっていた」ような存在でした。でも、今私たちはイエス様と出会い、イエス様のことばに応答して、一歩、踏み出した者です。主からの一方的な「あわれみとめぐみの中をイエス様とともに歩む者」に変えられたのです。
 そのめぐみに感謝しつつ、この週も歩んでまいりましょう。