城山キリスト教会説教
二〇二四年九月二九日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書五章九節〜一八節
 ヨハネの福音書連続説教14
   「今も働かれる主」
 
9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
 ところが、その日は安息日であった。
10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」
12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」
13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。
16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。(新改訳聖書第三版)
 
 ヨハネの福音書を少しずつ読み進めています。
 前回、私たちはイエス様がエルサレムにある「ベテスダの池」で、38年もの間、病に伏せっていた人を癒された出来事を見ました。
 「ベテスダ」という言葉には「あわれみの家」という意味があります。この池は、時々、間欠泉のように池の底からブクブクと水が湧き出ていたのです。当時の人々はそれを見て「見えない天使が降りてきて池の水を動かしているのだ。水が動いた時、最初に池に入った人は癒される」そんな迷信を信じていました。病気の人、目の不自由な人、やせ衰えた人、大勢の人が癒されることを願って、あわれみを求めて池の周りに集まっていたのです。
 38年間、病に伏せっていた人も、そんな一人でした。そんな彼のところにイエス様が近づいて言われたのです。「良くなりたいか」(ヨハネ5章6節)でも、彼は素直に「良くなりたい」とは言えませんでした。「池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(ヨハネ5章7節)と答えました。するとイエス様が言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(ヨハネ5章8節)彼は驚いたでしょう。でも、イエス様のことばに応答して自分の足に力を入れたのです。すると、その瞬間、「その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」(ヨハネ5章9節)のです。
 「もう良くはならない」「私の人生このままだ」孤独とあきらめの象徴のような「ベテスダの池」に伏せっていた彼が、イエス様のことばに応答したとき、新しい人生を自分の足で歩み始めたのです。
 
 さて、今日、お読みした箇所はその続きです。ベテスダの池でイエス様の素晴らしいみわざが起こったのですが、それを見た一部のユダヤ人たちが彼を叱責しはじめるのです。その理由は「その日は安息日であった」(ヨハネの福音書5章9節)からです。
 
1 「安息日」について
 
 イエス様に癒された人は、自分が寝ていた床(移動式のベットのようなもの)を取り上げて歩き始めました。すると、その様子をみたユダヤ人たちが言いました。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」(ヨハネの福音書5章10節)「お前は安息日にしてはいけないことをしている。床を取り上げて運んでいるではないか」、彼が床を取り上げてあるいたことが安息日にしてはいけない「労働」にあたると言ったのです。
 皆さん、彼はただ寝ていたマットレスのようなものを取り上げただけですよ。私は子どもの頃、朝起きる度に母親に言われました。「布団をたたみなさい。引きっぱなしはだめです!」でも、当時のユダヤ人は、それすら「安息日」にしてはいけない「労働」とみなしていたのです。
 
(1)安息日の起源と意味
 
 元々、安息日の起源はどこにあったのでしょう。それは創世記2章に書かれています。
 「神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」(創世記2章2節ー3節)
 神様はこの天地を創造なさった時、それらすべてをご覧になって「非常に良かった」と言われました。そして、七日目に「すべての創造のみわざを休まれた」のです。皆さん、人が造られたのはいつでしたか。六日目ですね。次の日が「安息日」です。つまり、人の人生は「休む」ことから始まったわけです。まず、休みから人生が始まったなんて嬉しいですね。
 また、出エジプト記20章にはモーセの十戒が書かれています。その中には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ(区別しなさい)七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」(出エジプト20章8節ー10節)とあります。つまり、「安息日」というは、人がまず始めに神様の前に静まって、神様に感謝と礼拝をささげて歩んでいくこと、そこに人として確かな歩みがあると聖書は教えているのです。「ああ、神様。あなたはこんなに素晴らしい世界を造ってくださったのですね。」「私を愛し、支え、祝福してくだっているのですね。」そのように神様からの安らぎを得て、新たな日々を送っていくということです。それが「安息日」の意味です。
 
(2)当時のユダヤ人の現状
 
 しかし、当時のユダヤ人たちはどうだったでしょうか。彼らは、十戒の「どんな仕事もしてはならない」「働いてはいけない」という言葉にこだわりました。そこから色々な細かい規則を作ったのです。例えば、「安息日には何メートル以上歩いてはいけない」とか「火を使って調理してはいけない」とか「医療行為も命に関わることしかしてはいけない」と定めました。そうやって、仕事を39にも分類し、そこから更に細かい「してはいけない」リストを作っていたのです。その中に「運搬すること(物を運ぶこと)をしてはいけない」という規則もありました。
 当時の律法学者たちはそのような様々な細かい「安息日」の規定を守らせることで、皮肉なことに、人々から「安息」を奪ってしまっていたのです。人々は疲れていたでしょう。それらの規則が重荷に感じていたはずです。
 ですから、イエス様はマタイの福音書11章28節でこう言われましたね。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)
 「そのようにあなた方から安息を奪ってしまう様々な重荷を下ろしなさい、私が休ませてあげます」と、イエス様はおっしゃったのです。
 だから、今、イエス様を信じる私たちは、当時のユダヤ人のように「安息日」を守る必要はありませんね。私たちにとっての真の「安息」が何かと言えば、イエス様のもとにいって、イエス様に重荷をおろし、イエス様が与える救いを喜び、感謝の礼拝をおささげすること、それが私たちにとっての「安息日」ですね。
 でも、当時のユダヤ人はそうではありませんでした。ベテスダの池でせっかく病気の人が癒されたのに、神様の素晴らしいみわざを喜ぶどころか、「お前はしてはいけないことをしている。安息日に寝床を運んでけしからん」と非難したわけです。
 すると癒された人はこう答えました。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」(ヨハネの福音書5章11節)それを聞いたユダヤ人たちが問いただしました。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」(ヨハネの福音書5章12節)
 でも、癒された人は、自分を癒してくださった方が誰なのかわからなかったというのです。意外ですね。自分を癒してくれた人が誰か分からないなんて不思議ですよね。私だったら名前くらい聞いたと思います。でも、彼はそれをしなかった。それくらいイエス様がすぐに彼のもとを離れていたということですね。彼を癒されたあとイエス様はすぐにその場をさられたのです。イエス様はあっさりしていますね。もし、私だったら「俺、俺だよ。名前知りたくない」そんな風にアピールしたたもしれませんね。しかし、イエス様は、彼が立ち上がったのをご覧になってすぐ、さっとその場をさられたのです。
 これは想像ですが、おそらく癒された人は「自分を癒してくださった方がいなくなった。きっと宮(神殿)に行かれたのだろう。一言でもお礼をお伝えしたい」そう考えたのかもしれません。そして、宮にむかったのです。
 
2 宮の中で
 
 でも、この時、宮はお祭でしたら大勢の人がごった返していました。なかなかイエス様が見当たりません。彼は38年伏せっていたのです。まだ、そんなに早くも動けなかったでしょう。自分ではイエス様を見つけられなかったようです。するとイエス様の方が「彼を見つけて」(ヨハネの福音書5章14節)くださったのです。
 そして、こう声をかけられました。「見なさい。あなたはよくなった。」(ヨハネの福音書5章14節)あのベテスダの池で「良くなりたいか」と問いかけられたイエス様が、もう一度宮の中で彼を見つけて「あなたはよくなったね」と声をかけてくださったのです。
 そして、これからの新しい人生、何があるかわからない。自分の足で生いきていかなければならない彼に、イエス様はこう言われたのです。
 「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」(ヨハネの福音書5章14節)
 みなさん。このイエス様のことばを聞いてどう思われますか?「罪を犯してはいけない。そんな無理じゃないですか。」「罪を犯したら、また病気になってしまうということですか。」「もっと、もっと悪いことが起こってしまうって、いったいどういうことですか」そんな風に思うかもしれません。
 でも、ここでイエス様は、決して彼を脅して「罪を犯したらとんでもないことになるぞ」そういう意味のことを言われたのではないです。また、彼の38年の病気の原因が「罪」だと、ここで言われたわけでもありません。当時の人々は、「この人が病気なのは、何か大きな罪を犯したからにちがいない」と考えていたでしょう。でも、思い出してください。イエス様がこの人を癒されたとき何といわれましたか。「あなたが罪を犯したからこんな病気になった」とか「先祖が悪いから病気になった」とは、ひと言もいわれなかったのです。イエス様は、ただ「良くなりたいか」と聞き、「起きなさい。歩きなさい。」といって、この人を癒されたのです。彼の過去のことは何一つおっしゃいませんでした。
 そして、宮の中でもう一度彼を見つけられたイエス様は、ここでも彼の「過去」でなく「未来」、これから先の彼の生き方について励ましのことばをかけてくださっているのです。「もう罪を犯してはなりません。」つまり、「神様に背を向けて、神様を無視して、的外れに生きていってはいけませんよ」ということです。「せっかく与えられたあわれみを、救いを、大切な新しい生き方を失ってはいけないですよ」「これから神様と共に歩んで生きなさい」と語られているのです。
 みなさん。彼は38年もの長い間、辛い生活を送っていましたね。でも、イエス様に癒していただいて新しい人生を歩みはじめたのです。これから先、何があるかわかりません。自分の足で生きていかなければなりませんから。だからこそイエス様は「良くなった人生を大切に保っていこうね」「神様に背を向ける人生は、たとえ体が元気で足は動いても、心の内側はまるで伏せっているような人生になってしまうから。だから注意しなさい。神様との関係を大切にしていきなさいね。」イエス様は、そう言ってこれから新しい人生を生きる彼に励ましのことばを語りかけてくださったのです。
 
3 今に至るまで働かれる主
 
 宮でイエス様と再会した彼はユダヤ人たちに伝えました。「私を直してくださった方が分かりました。イエスというお方です。」すると、ユダヤ人たちは「何、あのイエスだと。以前、神殿をめちゃめちゃにした奴じゃないか。今度は、安息日を無視するなんてけしからん!」と、彼らはイエス様を迫害し、この後、激しい殺意を抱くようになるのです。
 みなさん。考えてみてください。「安息日は大切だ」「自分たちは神様の戒めを守っているのだ」そう自負しているユダヤ人たちが「イエスを迫害し」この後「殺そうとして」いるのです。律法が大切だといいながら、律法を守っているといいながら、彼らは明らかな律法違反である「人を殺そう」としているのです。そして、イエス様に対して「お前は安息日にとんでもないことをしている」と非難しているのです。
 イエス様は彼らに17節でこうおっしゃいました。
 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。」(ヨハネの福音書5章17節)
 これはどういうことでしょう。先ほど読んだ創世記には、神様が「すべての創造のわざを休まれた」(創世記2章3節)とありました。では、その後、神様は何もされなかったのでしょうか。そうではありません。神様は世界を造られた「創造のみわざ」は終えられましたが、この世界を支え保持し、そこに生きる私たち一人ひとりを守り支えてくださる、その神様の働きは一時も止まることはないのです。
 詩篇121篇4節にこうあります。
 「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」
 みなさん、神様は、今に至るまで一睡もすることなく働いておられるのです。ですから、私たちは安心して日々を生きることができます。疲れたら休んで夜はゆっくり寝ていいのです。まどもろむことも眠ることもない神様が私たちを守り支えてくださるからです。
 詩篇の作者は「私のたましいは、生ける神を求めます」(詩篇42篇2節)といいました。私たちの神様は、今も生きて働かれる神様です。私たち一人一人の人生に具体的に介入して関わりをもって下さるお方です。
 そして、イエス様も「ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネの福音書5章17節)といわれました。「天の父なる神様」と同じように、イエス様も今も生きて働いていておられます。神の御子、救い主イエス様は十字架にかかり、三日目によみがえって、目には見えませんが今も生きておられます。信じる者に救いを与えて豊かな恵みを注ぎ、主の変わらない安息の中にいれてくださるのです。
 みなさん。「今も生きて働いてくださる主イエス様がおられるから、」そこに私たちの安心があります。「今も生きて働いてくださる主イエス様がおられるから、」失望することがあっても、希望をみいだすことができるのです。私たちの人生にはいろいろな辛いことや苦しいこと、「なぜですか」と叫びたくなることがありますで。でも、「今も生きて働いてくださる主イエス様がおられるから」、決して失望に終わることはないのです。
 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13章8節)とあるように、イエス様は、私たちの為に「今も生きて働いてくださる主」です。その恵みを感謝しつつ、今週も共に歩んでまいりましょう。