城山キリスト教会説教
二〇二四年一〇月一三日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書五章一九節〜二九節
 ヨハネの福音書連続説教15
   「救い主の働き」
 
 19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。
20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。
21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。
28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書を少しずつ読み進めています。ここまでの流れ(5章)を改めて振り返りましょう。
 イエス様はエルサレムの「ベテスダ」と呼ばれる池に行かれました。そこに38年もの間、病に伏せっていた人がいました。イエス様はその男に「床を取り上げて歩け」と言われました。すると、彼は床を取り上げて歩き出したのです。
 ところが、その光景を見ていたユダヤ人たちは、彼を非難し始めました。その日が安息日だったからです。
「今日は安息日なのだから床を取り上げてはいけない」「どんな仕事もしてはならない。それなのに床を取り上げて運搬するなんてけしからん!」というわけです。
 しかし、「安息日を守りなさい」という戒めは、本来は神様への礼拝と休息のために備えられたものです。ですから、38年もの間病んでいた人が健康を回復し起き上がって、まして神殿に行って礼拝することが出来るようになったということは、律法に違反するどころか安息日の心にもっともふさわしい姿でした。
 しかし、当時のユダヤの宗教家たちは、「仕事をしてはいけない」という言葉だけにこだわり、その背後にある神様の心をどこかに置き忘れてしまっていたわけです。そして、彼らはいやされた人を責めただけでなく、その人をいやしたイエス様に対しても「安息日を破る不届きな奴だ」と攻撃をしてきました。
 すると、イエス様がユダヤ人たちに言われました。
 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(ヨハネ5章17節)
 イエス様は神様を父と呼び、ご自分が神様と等しい存在であると言われたのです。そして、神様はひとときも休むことなくいつも働いておられるように、わたしもみわざをなすと言われたのです。
 それを聞いたユダヤ人たちは益々腹を立てました。「イエスよ、お前は自分を神と等しくしている。とんでもない!」と激しく怒り、イエス様を殺そうと考えるようになったのです。
 
 さあ、今日はその続きです。イエス様が更にユダヤ人たちと対話をなさり、特にご自分と父なる神様との関係について語り始められたのです。
 
1 子なるイエス様と父なる神様
 
 イエス様は19節、20節でこう言われました。
 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(ヨハネ5章19節、20節)
 ここでイエス様は神様とご自分の関係について二つのことを言っておられます。
 
 (1)子は父と同じことをする
 
 イエス様と父なる神様とは同じだということです。「私は、すべて父なる神様がなさることと同じことをする。違うことはいっさいしない」つまり、父なる神様のなさることと、イエス様のなさることの間に矛盾などは一つもないというのです。
 そこから、何が言えるでしょうか。「イエス様を見れば神様がわかる」ということです。「イエス様がなさっていることを知れば、父なる神様がどのようなお方で、私たちに何をしてくださるのか」がわかるということです。だからもし、皆さんの中で「神様は目に見えないし、どんなお方なのかわからない」そう思う方がおられたなら、イエス様を知れば神様がはっきりとわかるということです。
 福音書を読むと、イエス様がどのようなお方であるのかを知ることができますね。イエス様の眼差しは、愛に満ちた眼差しです。イエス様の手は、いつも病める人に差し出されました。その足は、罪に苦しみ迷い悩む人々に向けられました。イエス様は、罪は犯されませんでしたが、私たちと同じ人として生きてくださり、私たちが経験する様々な苦しみも悲しみもご存じでした。そして、生涯の最後には十字架にかかり、私たち一人一人の全ての罪を背負い身代わりとなって命を捨ててくださったのです。イエス様は、ご自分の命を捨てるほどに私たちを愛してくださったのです。それは、そのまま父なる神様の私たちに対する御思いでありお姿です。なぜなら「子と父は同じだから」です。
 
(2)子は父に従順である
 
 ここでイエス様は「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません」といわれました。当時の親子関係にたとえて話されています。当時、子は親の職業を継ぐのが普通でした。そして、子は自分勝手に仕事をするのではなくて、父親の姿を見てその通りにまねて、仕事を学び身に着けたのです。
 そのようにイエス様も父なる神様の御心に従って従順にみわざをなされたのです。
 でも、それはイエス様の能力に限界がある、劣っているという意味ではありません。この箇所で言われていることは、「三位一体の神様」における「秩序」を表しているのです。皆さん。私たちが信じる聖書の神様はどんなお方でしょうか。神様は唯一のお方です。同時に「父なる神」「子なるキリスト」「聖霊」という三つの位格(人間の人格にあたるもの)を持っておられます。そして、父、子、聖霊は、同じ本質と同じ思いを持ち、いつも愛と調和の中で働いておられる「ひとつの神様」です。私たち人の理解を超えておられます。でも、安心してください。天国にいったらはっきりとわかります。
 そして、「子なるイエス様」は「三位一体」の関係性の中で、「父なる神様」にいつも「従順」に従われるのです。でも、それは強制や恐れのためではありません。5章20節に「父は、子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになり」とあるように、イエス様は愛のゆえに、自ら進んで従われ御心を行われるのです。
 ですから、皆さん。このような三位一体の神様を私たちが信じるとき、そこから何が生まれてくるでしょうか。私たちもまた神様から与えられる豊かな愛と調和の中に生かされるということです。「神様、あなたの愛を感謝します。あなたを信頼し、あなたの御思いに従って歩んでいきたいです」そのような告白の中に、私たちも生かしていただけるのです。
 
2 救い主の働き
 
 さあ、イエス様とユダヤ人の対話が続きます。
 21節以降でイエス様は更にユダヤ人たちが驚くようなことをお語りになります。それは「ご自分が救い主である」ということを主張し「救い主の働き」について語られるのです。
 
 (1)「いのち」を与えるお方
 
 イエス様は、21節で「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(ヨハネ5章21節)と言っておられます。
 皆さん。ここまでヨハネの福音書を読んで来ましたが、1章4節に「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハネ1章4節)と書かれていますね。イエス様こそ、「いのち」そのものということです。また、3章16節でも「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)とあり、救い主イエス様が「いのち」を与える方であることがはっきり記されています。そして、ここでもイエス様ご自身が「わたしはいのちを与えることができる」と言われているのです。
 当然、ユダヤ人たちは怒りました。旧約聖書には「人を殺したり、生かしたりすることのできるお方」は、神様だけだと書かれているからです。
 たとえば、旧約聖書の列王記には、アラムの国のナアマン将軍が預言者エリシャに重い皮膚病を癒された出来事があります。そのときナアマンの主君だったアラムの王がイスラエルの王に手紙を書きました。「私の家臣が病気なので、直してください。よろしく」というわけです。その手紙をもらったイスラエルの王はびっくりです。「病気を直してくれと言われても、そんなことができるわけがないじゃないか。きっとアラムの王は私に言いがかりをつけるためにこんな手紙を送ってきたのだ」と動転しました。そして、イスラエルの王はこう言っているのです。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか」と。「いのちを与えるお方」は神様おひとりということですね。
 また、申命記32章39節でも、神様がはっきりとこう言われました。「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす」(申命記32章39節)つまり「人のいのちを握っておられるのは神様ご自身だけ」というのが聖書の一貫した教えです。だから、ユダヤ人たちはイエス様に猛反発をしました。「お前は神を冒涜している。自分が人にいのちを与える神というのか!」というわけです。
 でも、皆さん。先ほど述べたようにイエス様は神と等しいお方です。神の子、救い主です。もしイエス様が人に「いのち」を与えることが出来なければ、まことの「救い主」ではありません。イエス様はご自分が「いのちを与えることのできる救い主」であることを言葉によって語られました。また、実際のみわざでお示しになっています。
 福音書を読むと、特に、イエス様が死人を実際に生き返らせた記事が三つ載っています。「会堂管理者のヤイロの娘」「ナインのやもめの息子」そして「ラザロ」です。この三つ蘇りの出来事は、イエス様が本当に「人にいのちを与える力を持っておられる方」であることをはっきりと示す象徴的な出来事だったのです。
 でも、この三人が、その後、ずっと生き続けたわけではありません。やがて彼らも地上の生涯を終えました。ですから、イエス様が与えてくださる「いのち」は、もちろん肉体の「いのち」も含まれていますが、それだけではないのです。5章24節には、イエス様の言葉を聞いて神様を信じる人は「永遠のいのちを持つ」と書いてあります。この「永遠のいのち」は単に肉体が長生きすることではありません。神様の「いのち」を受けて神様と共に生きる「いのち」です。
 聖書は、人が「神様に背をむけ、神様から離れている」ということは、たとえ肉体は生きていても「いのちがない状態」「霊的に死んだ状態」だと教えています。だから、25節に「死人が神の子の声を聞くときがきます」と書かれていますが、この「死人」は神様に対して死んでいる人、神様の声に応答することができない、霊的に死んだ状態のことを表しています。
 でも、イエス様は「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5章25節)とおっしゃいました。もし、神様に対して「死んだ状態」の人が救い主イエス様の声を聞いて、イエス様を信じるなら「生きる」!つまり「神様との関係が回復し、神様に応答しながら、神様とともに生きる」ようになるのです。救い主の働きは、その「永遠のいのち」を与える働きなのです。皆さん、イエス様を心にお迎えしている今、私たちはその「いのち」に生かされているのです。
 
 (2)「さばき」を行うお方
 
 そして、イエス様が言われた「救い主の働き」二つ目は、「さばきを行うお方」です。
22節で、イエス様は「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました」といわれました。27節でも「父はさばきを行う権を子に与えられました。」とありますね。つまり、救い主は人に「いのちを与える」だけでなく、神様から「さばきを行う権威」が与えられているのです。
 みなさん、「さばき」と聞くと少しきつい印象をうけるかもしれません。別のことばで言い換えれば「審判者」、「審判する人」です。例えばスポーツでも正しい「審判」が必要ですね。いくらすばらしい選手が集まってプレーしても、もし審判がいい加減なら試合はめちゃくちゃになります。でも、審判が適切に裁く試合は選手たちは本来の力を最大限に発揮することでき良い試合をすることができるわけです。そのように、イエス様は私たちの人生を、この世界を、正しく判断し公正に裁いてくださる最高の審判者なのです。人の判断は不完全で限界もあるでしょう。でも、神様から「すべてのさばきをゆだねられた」イエス様が私たちの人生とこの世界の最終的な審判者であるなら、私たちはそのお方にすべてをおゆだねして「イエス様、あなたにおまかせします」という告白の中に生きることができますね。
 
3 「いのちを受ける善」とは
 
 そして、今日の箇所の最後29節でこう締めくくられています。
 「善を行った者は、いのちを受け、悪を行った者はさばきを受ける」(ヨハネ5章29節)
 ちょっと、ドキッとする人もいるかもしれません。「悪を行った者とあるけど、私は悪いこともしてしまう。さばかれてしまうんじゃないか」そう心配になる方もおられるかもしれません。
 でも、安心してください。神様は私たちがそういう存在であるのをよくご存じです。聖書には自分の力で善を行うことの出来る人は一人もいないとあります。ローマ人への手紙3章12節に「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」(ローマ3章12節)と書かれています。また、ローマ人への手紙7章18節ー19節で、パウロは自分のことをこうも言っています。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(ローマ7章18節-19節)みなさん。パウロでさえこういっているのです。
 でも、それでは、善を行っていのちを受ける人なんて、一人もいないのでしょうか。みんな裁かれるしかないのではないでしょうか。けしてそうではありません。
 イエス様が言われた「いのちを受けるために行う善」とはどういうことかとういうと、24節にはっきりこう書いてあります。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5章24節)
 イエス様は「わたしのことばを聞いてわたしを遣わした方を信じる者はいのちを持つ」と言われたのです。つまり、救い主イエス様のことば(聖書のことば)を聞き、愛を持って救い主イエス様を私たちのもとに遣わしてくださった父なる神様を信頼して生きること、これこそ私たちができる最高の善なのです。
 だから、皆さん。安心してください。天の父なる神様が私たちに求めておられるのは、何か良いことを「あれをしなさい」「これをしなさい」ではなく、「天のお父様、あなたは私を愛してくださっているのですね。ありがとうございます。あなたが遣わしてくださった救い主イエス様のことばを聞き、その約束を信頼していきていきます」そのような告白に生きることなのです。
 人の親子関係を考えてみてください。親にとっての喜びは何ですか。「お父さん、ぼくはお父さんが大好き。いつもありがとう。」子どもにこんなふうに言われたらうれしいですよね。天の父なる神様も同じです。私たちが何が出来ても出来なくても「愛する我が子よ」と呼びかけてくださり、私たちがその呼びかけに応答し生きることを喜んでくださるのです。
 ですから、皆さん、「天のお父様、私もあなたを愛します。信頼します。」「救い主をありがとうございます。私たちに『いのち』を与え、『正しい審判者』として、人生を導いてくださるイエス様とともに歩んでいきます。」そのような告白をもって今週も歩んでまいりましょう。