城山キリスト教会説教
二〇二四年一〇月二七日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書五章三〇節〜四七節
 ヨハネの福音書連続説教16
   「五つの証言」
 
 30 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
31 もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。
32 わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。
33 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。
34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。
35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。
36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。
38 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
41 わたしは人からの栄誉は受けません。
42 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。
43 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。
44 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。
46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」(新改訳第三版)
 
 イエス様はエルサレムのベテスダの池で、38年間病気だった人をお癒しになりました。それがきっかけとなって、ユダヤ人の宗教家(おそらくパリサイ人たち)との対話が始まりました。その日が安息日だったからです。「イエスよ、お前は安息日にしてはいけないことをしている」そう非難した彼らにイエス様がいわれました。「わたしと父なる神様は同じです。父なる神様が、今に至るまでひとときもやすむことなく働いておられるように、わたしもみわざをなすのです」それを聞いたユダヤたちは怒り心頭です。「お前は自分を神と等しい存在とするのか!」しかし、イエス様は続けて言われたのです。「わたしは『いのち』を与える『救い主』、父なる神様から『裁き主』としての権威が与えられているのです。」それを聞いたユダヤ人たちはますます腹を立てました。「お前は、神を冒涜している!自分が救い主だというのか。」「そんなこと信じられるか!」と猛反発したのです。
 でも、皆さん。私たちも敵対までいかなくても同じような気持ちになることがないでしょうか。「イエス様は救い主?本当だろうか」という疑い、揺らぎ、そんな気持ちを私たちも持つことがありますね。教会に来ていても、クリスチャンになっても、「イエス様は救い主というけど、神様、私の人生あまりにも辛いことや問題が多すぎやしませんか」そんな思いになることがあるかもしれません。
 私たちはそれをどこに戻っていけばよいのでしょうか。「イエス様が救い主である」ということ、何をもって確信することができるのしょうか。牧師が「信頼できます!」と大声で叫んでも、「それあなたが言ってるだけでしょう」と思うかもれません。「何となくそんな気がしてきた」というような感情や雰囲気ですましてしまうのでしょうか。
 皆さん。実は、今日の箇所はそんな私たちにとってとても励ましになる箇所なのです。なぜなら、「イエス様が確かに救い主であることの証言があるからです。イエス様ご自身が救い主であることの証拠、様々な証言を示してくださっているからです。私たちには疑いが起こることがあります。不安になることもあります。でも、どんなに疑っても「そうじゃない」と思っても大丈夫です。なぜなら、イエス様が「盤石な証言があるから」と語って下さっているからです。
 イエス様とパリサイ人たちとの対話にもどります。疑いと反発の空気の中でイエス様は、31節と32節でこう言われました。
 「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。」(ヨハネ5章31節、32節)
 ユダヤの社会では、一つのものごとが確証されるには少なくとも二人の証人がいなければなりませんでした。旧約聖書の中にこう書かれています。「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(申命記19章15節)これがユダヤの掟です。イエス様はそのことをちゃんとご存知でした。
 皆さん。ある人が誰であるかを証明するためには証言が必要です。以前、ライフ・ラインの制作をしていた頃、番組に出て欲しい人に、最初にアポイントを取るのに苦労しました。どうやってこちらを信用してもらうか。いきなり電話は難しいですね。メールを出したり、時には自筆で手紙を書いたりもしました。なかなか会っていただくまで時間がかかります。でも、そんなときに助かるのは、その人とすでに面識のある人が私のことを紹介してくれる時です。「この人はライフ・ラインのディレクターで豊村さんといいます。信頼出来る人です。」そう証言してくれたら本当にスムーズです。そういう「証言」が複数あれば「信頼」はますます確実なものになります。
 そして、今日の箇所ではイエス様がご自分が救い主であることを疑うパリサイ人たちに対して「五つの証言」を提示されるのです。それを見ていきましょう。
 
1 バプテスマのヨハネの証言
 
 33節にこうあります。
 「あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。」(ヨハネ5章33節)
 みなさん。1章で、バプテスマのヨハネがイエス様を見てなんと証言したでしょう。彼はイエス様を示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)と言いました。ヨハネは、救い主をお迎えする準備をする預言者として働きました。彼のもとには大勢の人たちが集まり、悔い改めの洗礼を彼から受けたのです。そのヨハネが「イエス様こそ私たちの罪を完全にきよめ、救ってくださる救い主である」と「証言」したのです。
 イエス様は、彼について次のようにもおっしゃいました。
 「彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」(ヨハネの福音書5章35節)
 「燃えて輝くともしび」、つまり、「人々を救い主のもとに導くために、道を照らす存在として来たのです」ということです。皆さん。「ともしび」は、それ自体が光を放つわけではなく誰かに点火されてはじめて輝きます。その役割は「照らす」ことです。大切なのは「ともしび」が照らす(示す)「救い主」です。
 当時の人々は、ヨハネを偉大な預言者と認めていました。だから、彼が示すイエス様を「救い主」と認めていいはずでした。でも、「しばらくの間楽しむ」だけで、その「ともしび」が指し示す、イエス様を「救い主」として認めない人々がたくさんいたのです。だから、イエス様は、更にすぐれた証言があるといわれたのです。
 
2 イエス様のみわざによる証言
 
 36節にこう書かれています。
 「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」(ヨハネ5章36節)
 ここでイエス様は「わたしのわざを見れば、わたしがまことの救い主であることがわかる」と言われています。でも、これは考えれば簡単なことですね。
 例えば、先週、サックス奏者の安武さんが来て下さいました。安武さんが一流であることを証明するためにはどうしたら良いでしょうか?彼の演奏を聴くことです。彼の技術が、わざが、奏でるサックスの音色が一流であることを証明します。
 イエス様は福音書に書いてあるとおり、数々のみわざを通してご自分が救い主であることをしめされたのです。ヨハネは福音書にはイエス様の沢山のみわざの中から7つに絞って記されています。例えば「水をぶどう酒に変えられたり」、「人々を癒されたり」、「わずかなパンとさかなで五千人以上の人を養ったり」また、「死んだラザロをよみがえらせたり」と、人には不可能な「みわざ」を実際に行われました。
 そして、最も確かな「みわざ」はなんでしょうか。イエス様は十字架にかかり、葬られ、三日目に蘇られました。その後、五百人以上の弟子たちの前に現れ、確かにご自分が復活したことをお示しになりました。その十字架と復活の事実こそ、イエス様がまことの「救い主」であることを示す「みわざ」であり、確かな証言です。
 
3 父なる神の証言
 
 でも、そのようなイエス様のわざを見ても信じない人もいますね。だから、イエス様は37節でさらにおっしゃいました。
 「わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。」(ヨハネ5章37節)
 バプテスマのヨハネの証言は実際の声を聞くことができました。イエス様が行われるみわざは見ることができました。でも、父なる神の証言はどうでしょう。
 まず、イエス様は彼らに対してこう言われていますね。
 「あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。」 (ヨハネ5章37節、38節
 ここでイエス様は「父の証言があるけど、あなたがた見ることも聞くこともできない」と言われました。でも、それじゃ「証言」にならないですね。どういう意味でしょうか。イエス様は、「父の証言があるけど、あなたがわたしを信頼し、受け入れないから、わからない」と言われているのです。どんなに、証言が差し出されても、もし、それが示しているイエス様への信頼がなければ、その人の心には届かないのです。
 例えば、誰かが私を、綺麗な素晴らしい景色の場所につれていってくださっても、もし、私が目を閉じたままで見ることを拒んでいたら、その景色を見ることも感動することも出来ません。それと同じように、イエス様に心を開かなければ、父なる神様の証言がわからないのです。でも、逆を言えば、「もし、あなたがたが心を開いて、父が遣わしてた者、つまり、目の前にいる「わたし」を受け入れるなら、父なる神様が証言しておられることが確かにそうだとわかる」とイエス様は言われたのです。それでは、そのような「父の証言」はどこにあるのでしょう。イエス様は、彼らが一生懸命に読んでいた聖書にあると示されたのです。
 
4 聖書の証言
 
 39節です。
 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5章39節)
 ここでイエス様が「聖書」と呼んでおられるのは、旧約聖書のことです。当時、パリサイ人たちは聖書を一生懸命に研究していました。その内容が「イエス様が救い主である」と証言しているのに、彼らは心を閉ざしているというのです。そのことをイエス様は指摘されるのです。
 40節で、こう言われています。
「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。・・・あなたがたのうちには、神の愛がありません。」(ヨハネ5章40節ー42節)
 イエス様は「あなたがたは、いのちを得るために聖書を読んではいるのに、それを与えるわたしのもとに来ようとはしません。わたしを受け入れようとしない」そう嘆いておられるのです。でも、皆さん、なぜ、彼らはわからなかったのでしょうか。イエス様のことばにヒントがあります。「あなたがたのうちには、神の愛がありません」(ヨハネ5章42節)
 彼らは、聖書を暗記するほど読んで研究していました。「戒めを守っている」「律法に従っている」と誇っていました。他の人に対しては「あいつらは戒めを守っていない」と責めました。つまり、その姿は、聖書の中で神様が示してくださっている「神様の愛」を見失っている姿です。そんな自分自身の罪に(ズレ)に気づくことができず、自分に「救い主」が必要であることがわからなかったのです。聖書がイエス様こそ「救い」を与えると証言しているのに、それに気づくことができなかったのです。
 皆さん。私たちが聖書を読むときに大切に心に留めたいことがあります。それは、聖書の中心は「神の愛」だということです。聖書は、神様の愛のあらわれである「救い主イエス様」を伝えているのです。でも、このときイエス様と対話している彼らには通じません。「俺たちだって聖書を読んでいる!」そういう反応です。
 
5 モーセの証言
 
 だから、イエス様は「最後の証言」として彼らが最も尊敬する人物をあげるのです。
 「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」(ヨハネ5章46節―47節)
 皆さん。モーセはどんな人だったでしょう。彼は、神様のことばによって数々の奇跡を行ってイスラエルをエジプトから脱出させました。モーセは神様と顔と顔を合わせて親しく語り合ったとあります。十戒もモーセを通して与えられました。旧約聖書の最初の五つはモーセが編纂したと言われ「モーセ五書」と呼ばれています。イエス様は、「あなた方が尊敬し敬うモーセがわたしについて『証言』している」と言われたのです。
 モーセの書のひとつ申命記18章15節でモーセはこういっています。
 「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(申命記18章15節)
 この「私のようなひとりの預言者」は、旧約聖書に登場する預言者たちの一人ということではなく、後に来られる「救い主」を示すことばです。「救い主」は、神のことばを余すところなく伝える存在です。また、人と神様との間に立ってとりなして下さるお方です。そのような「救い主」がやがてくるとモーセは預言したのです。
 そして、イエス様は「わたしこそ、それなのだ!」「わたしはモーセがイスラエルの民を奴隷状態から救い出したように、すべての人を罪の奴隷の状態から救い出す救い主なのです!」「あなたがたが最も信頼し尊敬しているモーセが、わたしが救い主だと証言しているのだ」と言われたのです。
 
 皆さん。このようにイエス様は数々の「証言」を彼からに示されました。この「証言」一つ一つに耳を傾け冷静に考えれば、イエス様が「救い主」であることがわかるはずなのです。でも、イエス様の前にいるパリサイ人たちは頑なに反発したのです。それどころか益々イエスに対して敵対心を持つのです。
 初めに少し触れたように、私たちも同じように思うことがあるかもしれません。「救い主?本当なの?」「どうしてわかるの?」でも、そんな私たちにイエス様は語りかけてくださるのです。「見てごらん」「分かって欲しい」「信じて欲しい」そう「証言」を示しておられるのです。
 「五つの証言」がありましたね。「バプテスマのヨハネの証言」、「イエス様のみわざという確かな証言」もありました。そして、「父なる神様」の証言が「聖書自体」を通して、偉大な預言者「モーセ」がイエス様こそが救い主だと証言しているのです。
 そして、イエス様がお語りになったそれらの証言がすべて一つにまとめられた「聖書」が、今私たちには与えられています。イエス・キリストが「救い主」であることの証拠はこの「聖書の証言」にあるのです!私たちのよりどころは神のことばである聖書です。それに信頼して生きてくことが、私たちのクリスチャン生活なのです。
 もちろん、パリサイ人たちのように、どんなに証言があっても、それを拒絶してしまうという現実もあります。イエス様が救い主だということに対する反発もあります。人の心を動かすのは聖霊によるとある通りです。
 でも、皆さん。この時、これだけ反発したパリサイ人たちが、この後もずっとそのままだったかどうかはわかりませんね。例えばパウロ。彼もパリサイ人です。クリスチャンを激しく迫害しました。でも、復活のイエス様と出会い救い主なるイエス様を信じてこういっているのです。
 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。(1テモテ1章15節)
 「イエス様が救い主である」ということは、そのまま受け入れるに値する確かな「証言」だと、パウロは声高々に宣言しているのです。
 そして、もちろん「証言」が確かなのだから、それを信頼して生きていく私たちの人生も確かな揺るぎない人生となるのです。もちろん、私たち自身は揺らぎます、疑います、不安にもなります。でも、大丈夫です。なぜなら、決して揺らぐことのない確かな「証言」、聖書のことばがあたえられているからです。その恵みに感謝しつつ、今週も歩んでまいりましょう。