城山キリスト教会説教
二〇二四年一一月一〇日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書六章一節〜一五節
ヨハネの福音書連続説教17
「五つのパンと二匹の魚」
1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(新改訳第三版)
ヨハネの福音書の6章に入りました。今日の箇所は「五つのパンと二匹の魚」でイエス様が五千人以上の人々のお腹を満たしてくださったとても有名な出来事ですね。
これがどこで起こったかとういうと、1節にあるように「テベリヤの湖の向こう岸」(ヨハネ6章1節)でした。この湖は、初めは「ゲネサレの湖」と呼ばれていました。その後、「ガリラヤの湖」と呼ばれるようになり、更に紀元22年頃、この湖の西岸にテベリヤという町ができたので、「テベリヤの湖」と呼ばれるようになりました。ですから、聖書の中では、「ガリラヤ湖」「ゲネサレ湖」「テベリヤ湖」と呼ばれていますが、どれも同じ湖を指しているのです。
この出来事が起こった時期について、4節に「ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた」(ヨハネ6章4節)と、わざわざ記されています。「過越の祭り」は春の祭りです。青草が絨毯のように敷き詰めらている、そんなすがすがしい季節だったことがわかります。
イエス様は、ガリラヤ湖を見渡す小高い丘に登り弟子たちとともに座られました。弟子たちにしてみれば「人混みから離れて久しぶりにゆっくりイエス様と過ごせる」そう思っていたでしょう。しかし、そんな思いに反して麓から大勢の群衆がやって来たのです。10節に「その数はおよそ五千人であった。」(ヨハネ6章10節)と書かれています。これは男性だけの数ですから女性や子どもを入れると一万人以上いたかもしれませんね。
イエス様は、その大群衆をご覧になって、弟子のピリポにこう言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」(ヨハネ6章5節)それを聞いたピリポが答えました。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」(ヨハネ6章7節)一デナリは一日分の労賃です。「それだけのお金があっても難しいです。不可能です。」という意味です。
ピリポの気持ちを想像してみてください。景色の良い丘でせっかくイエス様と仲間とでゆっくりと話が出来ると思ったのに、大勢の群衆が押し寄せてきたわけですから、邪魔されたような感覚だったのかもしれません。「どうせ、この人たちはイエス様が行うしるしや不思議を見たいだけの群衆じゃないか。私たちのようにイエス様に真剣に従っているわけではない。」「なぜ、私たちがわざわざ群衆に食べ物を与えなければならないのか。自分で食べ物を調達するのはあたり前でしょう。いや、むしろ、彼らのほうから食べ物や贈り物を持って来てもいいくらだ。」そんな気持ちだったかもしれませんね。
その時でした。弟子のひとりアンデレがイエス様のもとに来て言いました。「イエス様、ここにいる少年が大麦のパン五つと、小さい魚を二匹持っています。」(ヨハネ6章9節)少年のお弁当だったのでしょう。「大麦のパン五つと小さい魚二匹」とありますが、これは当時のもっとも粗末な食事だったと言われています。だから、アンデレ自身イエス様に報告したものの、「とはいっても、こんなわずかなものでは、何の役にもたちませんよね。」」と付け加えました。
しかし、イエス様は少年が差し出たわずかなお弁当を用いてみわざを行われたのです。イエス様は感謝をささげてパンを裂き、そこにいた五千人以上の人たちに分け与えられました。すると、弟子たちが配っても配ってもパンがなくならないのです。人々は十分に食べて満腹しました。そして「余ったパン切れ」を集めると十二のかごが一杯になったというのです。イエス様の驚くべきみわざが起きました。
皆さん。今日はこの出来事からイエス様がどれほど素晴らしいお方であるのか、イエス様の恵みの豊かををご一緒に考えていきましょう。
1 わずかなパンで人々を養われた
初めに心に留めたいことは、イエス様が「わずかなパン」で人々を養われたということです。この時、弟子たちは「時間も遅いし日も暮れそうだ、食べ物もない、群衆を帰らせよう」としました。でも、イエス様は始めから群衆の空腹を満たそうと決めておられのです。しかも、少年がもっていた「五つのパンと二匹の魚」をもちいられたのです。
少年にとっては大切なものでした。これを差し出してしまったら自分はお腹がすいたまま我慢しなければならないのですから。きっと「イエス様に食べて欲しい」そう思って、自分の弁当を差し出したのではないかと思います。イエス様はそれを受け取られて、「感謝をささげてから、すわっている人々に分けて」(ヨハネ6章11節)くださったのです。わずかなものを用いて、沢山の人のお腹を満たしてくださいました。
もちろん、イエス様は神なるお方ですから、何も無いところからでもあらゆるものを生み出すことがお出来になります。でも、この時、イエス様はあえて「少年が差し出したもの」、たとえそれがわずかであっても、どんなに粗末であっても、それを用いて「みわざ」を行なわれたのです。そういう方法をとられたのです。
この少年のことを少し考えてみてください。何か大きな信仰があったわけではありませんね。神様の声を聞いて特別な啓示を受けたというわけでもありません。名前も記されてない一人の少年が弟子の一人アンデレに連れられてきたのです。自分の弁当が大勢のお腹を満たすなんて夢にも思わなかったでしょう。「イエス様に食べていただきたい」と願って、もてるものを分かち合ったのです。イエス様はそれを祝福し豊かに用いてくださったのです。
2 十二のかごいっぱいに溢れた
そして、二つ目に覚えたいことは、イエス様が与えてくださったパンの余りは「十二のかごいっぱいに」溢れるほど豊かだったということです。6章12節にはこうあります。
彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。(ヨハネ6章12節ー13節)
皆さん。ここに、人々は「十分食べた」とあります。「ちょっと食べた」でも「沢山人がいるから遠慮して食べた」「控えに食べた」でもありません。彼らは食べたいだけ十分たべて満腹したのです。
その上で、なお余ったパン切れを集めると、なんと「十二のかごがいっぱい」になりました。「余ったパン切れ」とありますが、当時ユダヤの人々が宴会をするときには必ず余り物を取っておく習慣があったそうです。貧しい人々に施したり、給仕をした「しもべたち」に振る舞うためでした。つまり、この時、余り物が「十二のかごがいっぱいになった」ということは、給仕の仕事をしていた人、パンを配っていた「十二弟子たち」の分もちゃんとあったということですね。人々にパンを配った弟子たちもイエス様の養いを十分に受け取ったのです。イエス様のために労する人々にも恵みが十分に与えられたのです。
最初にお話したように、弟子たちの中には「なんで、こんな群衆に私たちが食べさなきゃいけないのか」「この人たちは、ただ興味半分に来ているだけではないか」「自分たちはイエス様の弟子で特別だ。群衆とは違うのだ」そんな自負もあったでしょう。しかし、イエス様にとっては群衆もパンを配った弟子たちもみんな同じだったのです。十二のかごいっぱいにパンが余ったということは、溢れるばかりのイエス様の養いをみんな同じように受け取ったのです。誰一人としてイエス様の養い、恵みからこぼれ落ちる人はいなかったのです。イエス様の恵みは全ての人々がうけとって尚、ありあまるほど豊かなものだからです。
3 群衆の反応
そして、三つ目に考えたいことは、この出来事を見た人々の反応です。6章14節ー15節にこう書かれています。
人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(ヨハネ6章14節ー15節)
群衆はパンの奇跡を行われたイエス様に驚いて言いました。「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」この「世に来られるはずの預言者」というのは、申命記18章15節でモーセが示した「わたしのような預言者」やがてくる「救い主」を指すことばです。(前回学びましたね。)
「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」(申命記18章15節)
ここでモーセは「将来、わたしのような預言者が起こされる」と預言しました。だから、人々は長い間「モーセのような預言者」が現れるのを待ち望んでいたのです。
モーセは、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から導き出した人物です。荒野を旅している間、神様は毎日マナという「パン」を天から降らせ養ってくださいました。ユダヤ人なら誰もが知っている有名な出来事です。そして、今、彼らの目の前でわずかなパンが尽きることなく増え続け、自分たちを養ってくれるという奇跡が起こったのです。
当然、「このイエスこそ、私たちが待ち望んでいたモーセのような預言者だ」と思いますよね。「モーセがエジプトの支配から先祖たちを救ったように、今度は、このイエスがローマの支配から私たちを救い出してくれるに違いない」そういう「救い主」だと思ったのでしょう。イエス様を自分たちの「王」として担ぎ上げようとしたわけです。
イエス様はどうされたでしょうか。イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(ヨハネ6章15節)彼らから離れていってしまわれたのです。それは、この時「群衆」がイエス様に期待したのは、「自分たちにとって都合のいい人物」だったからです。自分たちに望むものを与え、病をいやし、おまけにパンも食べさせてくれる、そういう存在としてしか見ていなかったからです。群衆がイエス様に求めたのは「ローマの支配から解放し、強い国を打ち立てる」リーダーでした。自分たちの希望を実現してくれる「王」として、イエス様を担ぎ上げようとしたのです。イエス様は彼らの心をご存じで、この時「山に退かれた」のです。
4 第四の「しるし」
そして、皆さん。ヨハネは「五つのパンと二匹の魚」のみわざをイエス様の働きを象徴的に示す第四の「しるし」として紹介しています。
人々の肉体的な空腹を満たすことのできるイエス様は、私たちに尽きることのない「永遠のいのち」を与えることができるお方、そのことを示す「しるし」として、この出来事があるのです。イエス様が神の子、救い主であり、決してなくならない「いのち」を与えるお方であることの「しるし」です。
そして、皆さん、その出発になったのが、あの少年が差し出した僅かな食べ物でした。そこに私たちの信仰生活をみることができますよね。例えば、私たちは「あれが出来なければならない」「これが出来なければならない」「何か立派なことをしなければ」と考え易いですよね。でも、この少年はどうでしたか。彼は単純にもっているものをわかちあったのです。「イエス様に食べて欲しい」と思ったのか、それともそばにいた「アンデレに食べて欲しい」と思ったのかわからないけど、とにかく自分の手にあるものを「分かち合った」のです。それが、イエス様のみわざのきっかけになったのです。
それは今までも同じですね。きっかけになるのは私たちの小さな「分かち合い」です。ある人にとってそれは自分の時間かもしれません。毎週の礼拝もそうですね。この場所に集い、インターネットを通して、イエス様のために時間を「分かちあって」います。イエス様に「私たち自身」を、今、差し出しています。もしかしたら、ある人にとっては誰かに声をかけることかもしれません。「お元気ですか」と励ましのラインを一文、メールを一通送ることかもしれません。また、誰かのことを思って「ああ、神様、あの人こと守ってください。病を癒してください」と祈ることかもしれません。日々の生活の中でイエス様のことを考えながら「そうだ、こうしよう」「ああしてみよう」という思いが与えられたら、それをやってみてもいいかもしれませんね。そのような、小さな小さな「分かち合い」を、イエス様は喜んで受け取ってくださいます。感謝をささげ、祝福してくださる、そこからイエス様が働かれる何かのきっかけとなっていくかもしれません。
この少年は、まさか自分のお弁当で五千人以上の人が養われるなんて想像もしなかったでしょう。でも、結果そうなったのです。私たちは「これをしたらああなるかも知れない、こうなるかもしれない」と考えるわけです。でも、この少年はそんなことは思いもしなかったのです。ただ、自分の持てるものをイエス様に「分かち合った」のです。本当にイエス様は不思議なお方ですね。この時は、ずっと一緒にいた弟子たちにではなくて、そこに来ていた何にもわからないような名も記されていない少年を通して働いてくださったのです。イエス様は、わずかでもいい、粗末でもよい、小さくてもいい、私たちが自分のもてるものをイエス様に「分かち合う」とき、結果的にイエス様の良き働きに用いてくださるのです。
皆さん。今日のこの出来事は弟子たちにとっても驚くべきことでした。そこにいる五千人以上の人にとってもそうでした。そして、それは私たちにとっても同じようなインパクトがあるのです。イエス様は具体的に私たちに必要なものを備えてくださるお方です。
箴言に「主は従う人を飢えさせられることはない。」(新共同・箴言10章3節)とあるようにイエス様は私たちの必要を与えて日々の生活を支えてくださるお方です。だから、今朝も礼拝の中で「主の祈り」を祈り「日々の糧をお与えください」と期待して祈ることができるのです。
そして、同時にイエス様は単に私たちのお腹を満たすだけでなく、けして尽きることのない「いのちパン」を与えてくださるお方です。この出来事を通してイエス様はそのことを示してくださっているのです。
この後、6章を読み進めていくとき、そのことをよりはっきりと語ってくださるのです。少し先取りをすると、6章35節でイエス様はこう言われました。
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章35節)
このことばにあるように、イエス様ご自身が尽きることのない「いのちのパン」そのものであることが6章全体のテーマなのです。ですから、次回以降も今日の出来事をイメージしながら主のことばに耳を傾けていきましょう。お祈りします。