城山キリスト教会説教
二〇二四年一一月二四日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書六章一六節〜二一節
ヨハネの福音書連続説教18
「わたしだ。恐れることはない」
16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。(新改訳第三版)
先週の木曜礼拝では洗礼式がありました。イエス様を信じ共に礼拝をささげる仲間がひとりまたひとりと加えられていくことは、私たち城山キリスト教会にとって喜びです。
洗礼の準備で良く語られることの一つですが「洗礼はゴールではなくスタート」です。イエス様を救い主として人生にお迎えしイエス様と一緒に生きていく歩みの始まりです。また、イエス様を信じて洗礼を受けてもすべてが順風満帆にいくとはかぎりません。もちろん、喜びも嬉しいことも経験します。でも、同時に「何故こんなことが起こるのか」「イエス様を信じたのに試練に遭うのか」「私の信仰がたらないからだろうか」そんな風に考えてしまうこともありますね。
皆さん。今日の箇所はそのような私たちにとても大切なことを教えている出来事です。イエス様を信じて生きる試練もある、困難もある、恐れることもあある、その中でイエス様が私たち一人一人に語りかけてくださる、励ましてくださっている、そのような箇所なのです。ご一緒にみていきましょう。
前回、イエス様は、ガリラヤ湖を眺める小高い丘の上で、「五つのパンと二匹の魚」という僅かな食べ物で、五千人以上のお腹を満たしてくださいました。素晴らしいみわざを経験した群衆たちは熱狂しイエス様を王として担ぎ上げようとしたのです。「このイエスが、王になりさえすれば、自分たちを支配しているローマから解放してくれるにちがいない、自分たちの生活も安泰だ」そんな自分勝手な期待を持ちました。
すると、イエス様は「人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」(ヨハネ6章15節)のです。マルコの福音書にはイエス様が「祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。」(マルコ6章46節)と書かれています。
皆さん。以前、イエス様は「わたしと父なる神様は一つです。同じです。」と言われましたね。だから、私たちは「イエス様は父なる神様と一つなのだから、父の御心をご存知なのだから祈る必要ないのでは…」とも思いますね。でも、福音書を読むとイエス様がたびたび一人寂しいところに退かれて父なる神様と祈っておられたことがわかります。
なぜでしょうか。それはイエス様が「人」としてこの世に来て下さったからです。イエス様は神なるお方ですから何でも出来るお方です。でも、私たちと同じ「人としての制限」の中に生きてくださったのです。だから、イエス様は人としてのあるべき姿をお示しになっているのです。祈りを通して父なる神様との親しく交わり「父なる神」と「子なるイエス様」との関係を保っておられたのです。その中でイエス様は神様のみ声をきき励ましと力を受けてご自身の働きを進めていかれたのです。
そして、そのようなイエス様が私たちにも祈ることを勧めてくださっています。そして、具体的な祈りの内容も教えてくださっていますね。「主の祈り」です。私たちは今朝も礼拝の中で「天にまします我らの父よ」と祈りました。聖書によって私たちに語ってくださる神様に「天のおとうさん」と親しく呼びかけ応答することができるのです。
「主の祈り」だけではありません。イエス様の御名によって私たちどんなことでも自由に神様に語りかけることができます。祈りによって私たちの思いや願いを天の父なる神様に知っていただくことができるのです。その中で神様から励まされ力を受けて進んでいくことができるのです。そのような天の父なる神様との親しい関係の中に私たちもまた生かされているのです。
1 湖に出た弟子たち
さて、イエス様は祈る為に山に退かれました。一方の弟子たちはどうだったでしょうか。16節、17節にこうありますね。
「夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。」(ヨハネの福音書6 章16節、17節)
(1)イエス様が強いて
別に弟子たちが勝手にイエス様と別行動したわけではありません。同じ出来事を記録しているマルコは「イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ」(マルコ6章45節)と記しています。イエス様が彼らを舟にのるよう促がされたのです。
おそらく、この時の弟子たちはパンの奇跡で熱狂した群衆と同じように「イエス様がローマ支配から解放し、見える形で国を打ち立ててくれるに違いない。イエス様が王になれば俺たちは大臣になれる。王の側近だ。」そんな風に思っていたのかもしれません。イエス様は弟子たちのことをよくご存じでした。彼らがイエス様を正しく理解できていないことも感じておられたのでしょう。だから、弟子たちを強いて舟にのせ群衆から遠ざけられたのです。これから経験することを通して「イエス様がどのようなお方であるのか」正しい理解へと導こうとされるのです。
弟子たちはイエス様のことばに従いました。舟にのって湖に漕ぎ出しました。きっと「イエス様が向こう岸に行けとおっしゃったのだから何かいいことが待っているに違いない。パンの次は何だろう…」そんな風に思ったかもしれませんね。ところが急に嵐がやってきたのです。
(2)嵐に遭う弟子たち
「すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。」(ヨハネの福音書6 章17節、18節)
「まずいな風が強くなってきたぞ。」「しかも、もう日が沈んで暗くなってきたな・・・」「でも、大丈夫もともと俺たちは漁師だ。」始めはそんな風に思っていたでしょう。しかし、どんどん風が強くなり湖の中心あたりにきた時にはさすがの弟子たちも漕ぎあぐねてしまうほどの嵐になったのです。「イエス様が行きなさいというから出発したのに、いったい何故こんな嵐に遭うのだ!」「イエス様のことばに従ったのになぜだ。」弟子たちは思ったでしょう。
でも、皆さん。私たちも同じように思う時がありますね。突然の嵐のような出来事が起こったり、その中で漕ぎあぐねるようなことがあるのです。そして、「なぜ?どうして?」と思うことがあります。でも、イエス様は、いたずらに私たちを苦しめるお方ではありません。私たちが予想もしない出来事の中でも、私たちの思いを越えた主のご計画をなしてくださるのです。
実際、この時もイエス様は弟子たちを見捨てたけではありませんでした。彼らを放ってはおかれなかったのです。
2 湖の上を歩くイエス様
イエス様は嵐の中、荒れ狂う湖の上を歩いて弟子たちのもとに近づいてこられたのです。マルコ6章には「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれた」(マルコ6章48節)とあります。つまり、イエス様は弟子たちと別行動されましたが彼らの様子をちゃんと気にかけてくださっていたのです。彼らが「漕ぎあぐねているのをご覧になって」イエス様の方から近づいてくださったのです。しかも、「湖の上を歩いて」きてくださいました。イエス様はまるで嵐を踏みつけるようにして近づいてきてくださったのです。
皆さん。マルコの福音書には、今日の箇所と似ている出来事がありましたね。マルコ4章でイエス様が弟子たちとガリラヤ湖に出られました。その時も嵐に遭ったのです。その時のイエス様は弟子たちと一緒に舟に乗っておられました。でも、眠っておられました。嵐がきて焦る弟子たちがイエス様を起こしました。「イエス様、助けてください!」すると「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」(マルコ4章39節)のです。イエス様は二言で嵐を静められたのです。この出来事を通してイエス様が自然界を治めることのできる「神なるお方」であることを示されました。
そして、今日の箇所でもイエス様は人には絶対にできない超自然的なみわざ「水の上を歩かれた」のです。つまり、イエス様はこの事を通してご自分が「自然の法則を超越する存在」「神なるお方」であることをお示しになったのです。だから、ヨハネはこの出来事をイエス様が「救い主」であることを示す第五番目の「しるし」として紹介しています。
でも、弟子たちはどんな反応だったでしょうか。19節には「彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。」(ヨハネの福音書6 章19節)とあります。イエス様を見て「良かった!ひと安心」ではなく「恐れた」のです。ヨハネはあっさり書いていますがマルコはもっと詳しく書いています。「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。」(マルコ6章49節、50節)考えてみれば、おかしな姿ですね。自分たちの命を奪うかもしれない「嵐」よりも、自分たちが尊敬し数々の不思議なみわざを行った「イエス様」を恐れてしまう。しかも、幽霊と思ったのです。こんなところにイエス様が来るはずがないと思ったということですね。
でも、私たちも試練や問題の中で漕ぎあぐねるとき、そのただ中に「イエス様が来て下さる。ここにおられる」そう思えないときがありますよね。イエス様を求めながらも「ここにはイエス様はおられない。あの人のところにはいるかもしれないけど私のところにはおられるはずがない」と考えてしまうことがあります。弟子たちと同じです。
しかし、イエス様は素晴らしいお方です。そのような恐れの中にいる弟子たちに声をかけてくださったのです。
3 イエス様の語りかけ
イエス様は何とおっしゃているでしょう。「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネの福音書6章19節)です。実は、マタイの福音書では最初にもうひと言つけ加えられています。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14章27節)と。
(1)「しっかりしなさい(サルセイテ)」
この「しっかりしなさい」は、「サルセイテ」というギリシャ語で、「安心しなさい」「勇気をだして」とも訳すことができます。「勇敢でありなさい」とも訳されます。聞いた人の内側から自信をもたせるような語りかけなのです。嵐の中で、怖がる弟子たちにイエス様は「安心しなさい。勇気をだして。」と言われたのです。なぜでしょうか。「わたしだ。」イエス様が確かにここにおられるからです。イエス様が来て下さったから安心があるのです。
(2)「わたしだ(エゴー・エイミー)」
イエス様がおっしゃった「わたしだ」はギリシャ語では「エゴー・エイミー」ということばです。「エゴー」は「私」という代名詞です。「エイミー」は「(私は)〜である」英語のbe動詞にあたる言葉です。通常ギリシャ語では「エゴー」をつけなくても「エイミー」だけで「私は何々である」という意味をあらわします。
でも、ここではあえて「エゴー(わたし)」がついているのです。通常はつかないけど、あえて「エゴー」をつけるときは「わたし」という存在がとても強調されるのです。だから、このときイエス様が「わたしだ」(エゴー・エイミー)と言われたことばは、直訳するなら「わたしは『わたしはある』と言う者」と強調的に語られているのです。
さらに、それは旧約聖書の中で(ユダヤ人にとって)何を意味していたというと「わたしは神である」という宣言と同じ内容を示すのです。
旧約聖書出エジプト記3章で神様はモーセに語りかけてご自身の名前を教えられました。もともとモーセはエジプト王宮で育てられましたが、40歳の時、殺人を犯して王宮を追われてしまいました。そこから40年間も荒野で羊飼いをするようになったのです。彼が80歳の時です。自分の人生も終わりに近いと思っていたでしょう。その時、神様が燃える柴の中から語りかけられたのです。「モーセよ。エジプトに行って、イスラエルの民をそこから脱出させなさい」と。でも、モーセは「そんなの無理だ。イスラエル人たちが自分を受け入れてくれるはずがない」と思いました。神様、「私が『神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」と言いました。すると神様がモーセに言われたのです。「わたしは『わたしは、ある』という者である」(出エジプト3章14節)、ギリシャ語では「エゴー・エイミー」です。
神様は「有りて、あるもの」それは何を意味するでしょうか。神様が「永遠の存在者なるお方」ということです。また、「有りて、あるもの」ですから、神様は「無から有をうみ出すことのできるお方」です。何もないところからすべてものをうみ出すことの出来るお方です。また、そのお方は「あなたは存在していいと告げるお方」です。こんな私にも「ありなさい」「存在しなさい」と語ってくださるお方、なぜなら、神様は「永遠の存在者」だからです。
神様は、そのようにご自分のことを自己紹介され「わたしがあなたを遣わす、あなたの力となり、あなたの必要を満たす」とモーセに語られたのです。だからモーセは励まされたのです。「わたしはあっていいのだ」「人生終わりじゃないのだ」心の内側から勇気が湧いてきたのです。「わたしはある」という神様が出会ったからです。
ですから、この時イエス様が弟子たちに「わたしだ(わたしはある)」(ヨハネの福音書6章19節)と言われたことは、「わたしこそ、モーセに現れた『あって、ある者』神なのだ」という宣言と同じだったのです。
(3)恐れることはない
だから、イエス様は「どんな嵐の中でも恐れることはない」「怖がらなくてもよい」「勇気を出しなさい」と荒れ狂う水を踏みつけて弟子たちに語られたのです。
そして、みなさん。イエス様は私たちに対しても同じです。どんな嵐のような試練の中でも、困難や恐れの中でも、「私なんて」と思ったとしても「勇気を出して、あなたはそこに存在していい。恐れないでよい。なぜならすべての存在の源である『あってあるもの」わたしがあなたとともにいるから」と今朝も語って下さるのです。
4 イエス様を迎えた弟子たち
さあ、イエス様の声を聞いた弟子たちはどうしたでしょうか。「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。」(ヨハネの福音書6章21節)のです。弟子たちは荒れ狂う嵐に怯えていました。イエス様が目の前にいる今も嵐の中です。まだ状況は変わっていなかったでしょう。でも、弟子たちは「舟の中に」「恐れの只中に」イエス様をお迎えしたのです。
するとどうなったでしょうか。「舟はほどなく目的の地に着いた。」(ヨハネの福音書6章21節)のです。とても象徴的なことばですね。イエス様を迎え入れた彼らは無事に目的地に着いたのです。
旧約詩篇107篇29節ー30節にはこうあります。「主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」(詩篇107篇29節−30節)
皆さん。今日の箇所を振り返りますが、弟子たちはイエス様に言われた通りに舟を漕ぎだしました。そうしたら嵐にあったのです。イエス様のことばに従って進みだしたときに困難にあったのです。
それは、私たちの信仰生活にも重なりますね。「イエス様を信じたのに何故こんなことが起こるのですか」そう思うような経験をすることがあります。普通、私たちは「イエス様を信じたら万事うまくいくのではないか」と期待します。そして、そうならないと「自分の信仰のせいじゃないか。何か罪を犯したらからだろうか」と考えてしまいやすいですね。でも、実際にイエス様に従って歩んでいくなかで困難な状況になることがあるのです。嵐のような試練に遭遇することもあります。神様の大きな御手のなかで、私たちの信仰の状態とは無関係に起こる現実があるのです。
そして、その中で私たちは「もう前にもすすめません。もどることもできません。どうしたらいいのでしょうか」と恐れて漕ぎあぐねることがあるかもしれません。でも、イエス様はそんな私たちを決して放っては置かれません。弟子たちにそうだったように、私たちを「ご覧になって」「水の上を歩く」ように、まるで嵐を踏みつけるように私たちのそばに来てくださるのです。
そして「勇気をだしなさい。安心しなさい。わたしは『あってある者』、あなたを支えあなたの必要を満たす神です。だから恐れる必要はありません」と語りかけてくださるのです。
ですから、そんなイエス様に「イエス様、ここにあなたをお迎えします。」「私の人生に、この問題に、あの課題に、恐れに満ちた私の心のただ中にあなたをお迎えします。」そのような告白と祈りをもって、この週も歩んでまいりましょう。最後に「人生の海の嵐に」を賛美しましょう。