城山キリスト教会説教
二〇二四年一二月八日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書六章二二節〜二九節
ヨハネの福音書連続説教19
「神のわざ」
22 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。
23 しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。
24 群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。
25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(新改訳第三版)
おはようございます。ヨハネ福音書の6章は、イエス様が「五つのパンと二匹の魚」で五千人以上の人を養われた出来事から始まりました。その奇跡を経験した群衆は「この方こそ来たるべき預言者だ。今こそローマの支配から解放してくれるに違いない」そう考えてイエス様を王として担ぎ上げようとしたのです。しかし、イエス様は群衆から離れて一人静かな所に退かれました。そして、弟子たちには「舟に乗って湖の向こう岸に渡りなさい」と言われたのです。
もう夕方でしたが、弟子たちはイエス様のことばに従って湖へ漕ぎだしました。「パンの次はどんな素晴らしいことがあるのだろうか」そう思っていたかもれません。でも、彼らが漕ぎだして、四、五キロほど進んだところで嵐がやってきました。風が吹き荒れて波が高くなり、前に進むことも、後ろにも戻ることができず、湖の真ん中で立ち往生してしまったのです。あたりはもう真っ暗でした。
そこに、なんとイエス様が水の上を歩いて弟子たちのもとに近づいてこられたのです。弟子たちは「幽霊だ!」と驚き恐れました。しかし、そんな彼らにイエス様が言われたのです。「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6章19節)イエス様のことばを聞いた弟子たちは喜んでイエス様を舟にお迎えしました。そして、無事に目的地までたどり着いたのです。
ヨハネはこの「水の上を歩く」という出来事を、イエス様が神の子救い主であることを示す第五番目の「しるし」として記録しています。イエス様が自然界を超越するお方、人にはどうすることも出来ない嵐をもご支配し、水の上を歩くことのできる「神なるお方」であるということが示されたのです。
また、この時イエス様は「わたしだ」と言われました。それは、単に「わたしがここにいるよ」という意味ではなく、ギリシャ語では「エゴー・エイミー」直訳すると「わたしこそ、『有るという者』です。」つまり、『無から有を生みだすことのできる、永遠の存在者』なのだ」という宣言でした。
私たちも、嵐のような突然の困難にみまわれるときがあります。その中で前にも進めず、後ろにも戻ることができず、漕ぎあぐねてしまうようなときがあります。どうしようもない不安や恐れを感じるときもあります。しかし、今もイエス様は、こんなところに来られるはずがない、そう思うような状況のなかにも来てくださって、「勇気を出して、わたしだ、恐れることはない」「すべての存在のみなもとである私が、無から有を生み出すことのできる私が、あなたとともにいる。だから、大丈夫。安心して生きなさい」と語ってくださるのです。
さて、今日はその翌日の出来事です。大勢の群衆がイエス様と弟子たちを追いかけてきたのです。ご一緒に見ていきましょう。
1 イエス様を追いかけた群衆
6章2節−24節にこうあります。
その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。・・・テベリヤから数隻の小舟が来た。群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。(ヨハネ6章22節ー24節)
地図にあるようにパンの奇跡が行われたのは「湖の向こう岸」と呼ばれる、ガリラヤ湖の北東に位置する岸辺です。ここからイエス様一行はガリラヤ湖の北西にあるカペナウムに向かわれました。一部の熱心な人たちは翌日になってもパン奇跡の余韻をもとめその場所でイエス様を探していたのです。
「昨日はすごかったな。イエスというお方はただ者ではない。」「それにしても、せっかく大勢の人が集まったのに解散させられてしまった。」「イエス様たち一体どこにいってしまわれたのだろう。」
そして、群衆が岸辺を見るとそこにあったはずの舟がなくなっていることに気がつきました。
「おい。見ろ。昨日は舟が一隻あったのに今はない。イエス様と弟子たちが乗っていったのだろう。」「しかし、おかしいぞ弟子たちはともかくイエス様は山の方に行られたはずだ。いつの間に舟に乗られたのだろうか…」
すると、タイミングよくテベリヤ(地図)からカペナウムへ向かう舟が数隻やってきたのです。
「ちょうどいい、この舟に乗せてもらおう。」
群衆の一部は湖を渡ってカペナウムにやってきたのです。彼らはイエス様を見つけて言いました。「先生。いつここにおいでになりましたか。」(ヨハネ6章25節)ちなみに、この時、イエス様の周囲に集まっていたのは「パンの奇跡を見た熱心な人」、その熱心さに押されて「テベリヤからの舟に乗せてあげた人」、また「カペナウムの岸辺で野次馬のように集まってきた人」などがイエス様を取り囲んだのです。そんな彼らにイエス様が大切な教えを語り始めるのです。
2 イエス様の説教
26節から始まるイエス様の教えは58節までつづく長い説教なので、今回は26節から29節までを読んでいただきました。そこから特に二つのことばに注目したいのです。一つは「永遠のいのちにいたる食物」もう一つは「神のわざ」ということばです。
(1)「永遠のいのちにいたる食物」
イエス様は、集まってきた群衆に向かってこう言われました。
「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(ヨハネの福音書6章26節)イエス様は「良く良く聞きなさい。あなたがたはわたしを熱心に追いかけてきました。」でも「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と言われたのです。
でも、皆さん「あれっ」と思いませんか。群衆たちはこの前日、ヨハネが「しるし」と呼んだ「パンの奇跡」を「見た」のです。実際に目で見て食べて味わったのです。それなのにイエス様は「あなたがは、しるしを見たからでない」と言われています。どういうことでしょう。
おそらく、群衆が「しるし」が示す本当の意味「イエス様がどのような方なのか、何の為にこの世に来られたのか」を理解していなかったからだと思います。彼らはイエス様を「自分たちの理想を実現してくれる指導者だ」と思っていました。「ローマから救い出してユダヤの王国を再建してくれる人物だ」と期待したのです。
イエス様は、そのような彼らの「自己実現のためにイエス様を求めている姿」を指して、「パンを食べてお腹いっぱいで幸せだ」という「一時的な幸せ」を求めているのと同じだとご指摘なさったと考えることができるのです。
しかし、皆さん。誤解しないでください。聖書は、食べ物や生活の糧を求めることを否定しているわけではありません。私たちが生きていくためには食べて行かなければなりません。肉体的な必要があります。生活の糧のために働くことは大切なことです。だから、イエス様が教えてくださった「主の祈り」にも「日ごとの糧を今日も与えたまえ」という祈りが含まれています。
しかし、聖書はそれだけでなくもう一つ永遠の視点からみたとき、人にとって大切なのは「なくなる食物」では満たすことのできない「なくならない食物」言い換えるなら「心の糧」があるということも教えています。
<荒野での誘惑>
例えば、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記されていますが、イエス様は公の活動を始める前に荒野で四十日四十夜の断食をなさいました。すると、試みる者がやってきてこう言ったのです。「イエスよ。おまえが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」すると、イエス様は旧約聖書の言葉を引用してこう答えられました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」もちろん、人が生きるためには「物資的なもの」が必要だ。しかし、それだけでなく、人は「神様のことば」によって心が養われる必要があるのだ。人を愛をもって創造し人の全ての必要を満たすことのできる「神様のことば」を聞き、それによって励まされ、支えられ、養われながら、生かされていくことが、人にとって最も大切だと教えられたのです。
だから、イエス様はマタイの福音書6章でも言われました。 「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・ あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもの(生活にとって必要なもの)はすべて与えられます」(マタイ6章31節ー33節)
まず第一に求めるべきものは「神様のことば」によって生かされていくこと、それを求めていけば生活に必要なものも備えられていくとおっしゃったのです。
ですから、この時もイエス様は群衆に対して「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ6章27節)と言われているのです。「働きなさい」は「追求しなさい、求めなさい」という意味のことばです。つまり、「肉体的な必要だけ」ではなく「霊的な必要を満たす」永遠のいのちにいたる食べ物「神様のことば」を求めていきなさいとイエス様は教えられたのです。
(2)「神のわざ」
そして、今日考えたい二つ目のことは「神のわざ」ということばです。
イエス様のことばを聞いた人たちはこう言いました。
「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」(ヨハネ6章28節)
なぜ彼らがそう尋ねたのでしょうか。実は当時のユダヤ人たちは「食物」や「パン」ということばを、旧約聖書の「モーセの律法」を指すことばとして用いることがあったからです。例えば箴言9章5節に「さあ、わたしのパンを食べなさい」という箇所があります。これは神様が人に呼びかけていることばです。「わたしのパン」は神様が与えてくださった「律法」のことだとユダヤの指導者は解釈し理解したのです。
だから、この時もイエス様が「なくならない食物のために働け」言われたとき、「なるほど、それは、旧約聖書のモーセの律法を一生懸命に守れということだな。」と理解したようなのです。だから「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」と聞いたのです。ちなみに「神のわざ」という言葉はギリシャ語では複数形で書かれています。つまり、彼ら考えたのは「神が人間に求めておられる数々の良い行いがあって、それらを達成するためには何をしたらいいでしょうか?」とイエス様に質問したわけです。
でも、皆さん。この群衆たちの考え「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」(ヨハネ6章28節)という考え方を私たちも持ちやすいですね。
例えば、「クリスチャンになるには何をしなければならないのだろうか」「どんな良い行いを積めば天国へいける確証を得られるのだろうか」「何をすれば神様は私を受け入れて認めてくださるのだろうか。」そのような問いを持ちやすいです。
そんな私たちの問いにイエス様は明確に答えて下さっています。
「イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。』」(ヨハネ6章29節) つまり「わたしを信じることです」とイエス様は言われたのです。しかも、皆さん。この時の「神のわざ」はギリシャ語では単数形なのです。一つのことなのです。
つまり、イエス様は、「神様があなたに求めておられることは『あれをしなさい。これをしなさ』ということではなく、ただひとつだけです。それは、わたしを信じることのみです」と言われたのです。
ですから、皆さん。私たちに求められている「神のわざ」とは、ただ「救い主イエス様を信じます」と告白して生きていくことだけなのです。
その時、何が起こるのでょうか。ヨハネ3章15節に「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つ」とある通り「永遠のいのち」が与えられるのです。6章27節でイエス様が「それこそ、人の子があなたがたに与えるものです」と言われたように、イエス様ご自身が私たちに「決してなくなることのない食物」である「永遠のいのち」を与えてくださるのです。神様に愛され、神様に守られ、神様と共にいき、永遠へと繋がっていくいのちを与えてくださるのです。だだ、イエス様を信じることによってです。
3 「信じる」とは
でも、皆さん。「信じる」という言葉には、いろいろなイメージがありますね。「信じる」とはどういうことでしょうか。決して理性を捨てて盲目的に「思い込む」ことではありませんね。また、「信じます。信じます」と唱えて一生懸命に「信じ込むこと」でもありません。群衆たちのような「一時的な熱狂」でもありません。
聖書の中で「信じる」ということばは「信頼する」とも訳せるのです。イエス様ご自身を、イエス様が私たちのためになさってくださったみわざを、イエス様のことばを信頼することなのです。
そして、6章29節の「信じる」という言葉には、原語では「エイス」という前置詞がついています。英語の「into」
「〜の中に」という意味です。つまり、イエス様を信頼するということは、私たちが「イエス様の中に入っていること」だと聖書は教えるのです。
イエス様は「恵みとまことに満ちたお方」です。ですから、イエス様の中に入っているというのは、私たちがどんな状態でも、イエス様の恵みの中で赦され、愛され、守られながら生きているという、みことばの約束を信頼し「そうなのですね。感謝します」とうなずきをもって生きてくことです。それがイエス様を「信じる」信仰の歩みなのです。
さらに、パウロはこうもいいました。
「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。」(1コリント1章30節)
つまり、私たちたちが「イエス様、あなたを救い主として信じます」と心にお迎えするとき、イエス様が私たちのうちに入ってくださるのと同時に、それは神様が私たちをキリストの中にいれてくださるということでもあるです。
皆さん。私たちは右にもそれるし左にもそれます。疑うこともありますし、不安になることもあります。でも、そんな私たちがすっぽりそのまま神様によって「キリストの中に入れられている」のです。
だから、今日のことば「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネの福音書6章29節)には二つの意味があると言えます。
一つは、神様が私たちに求めておられる「わざ」は、「私たちがイエス様を信じること」だけだという意味です。そして、もう一つは、「私たちがイエス様を信じること」そのものが「神様ご自身のみわざ」だということです。もちろん、私たちは自分の意志でイエス様を救い主として信じました。でも、その信仰そのものが、神様が与えてくださったもので、神様の確かな御手で支えられているのです。
だから、私たちがどんな状態でも安心です。大丈夫なのです。信仰は私たちの側の頑張りではないからです。神様が与え、神様が支え、神様がその確かな御手で保ってくださっているからです。
ですから、その恵みに感謝しながら、「イエス様、あなたの中に生かされていることを感謝します。あなたに信頼し、あなたとともに歩んでいきます」そのような告白をもって、歩んで参りましょう。