城山キリスト教会説教
二〇二五年一月二六日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書六章三〇節〜四〇節
ヨハネの福音書連続説教20
「いのちのパン」
30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
31 私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(新改訳第三版)
ヨハネの福音書6章ですが、前回から間があきましたので、これまでの流れを振り返ります。
6章がどんな出来事から始まったかというと、イエス様が「五つのパンと二匹の魚」で五千人以上の人を養われた出来事でした。イエス様のみわざを経験した群衆は「この方こそ来たるべきお方だ」と考えて、イエス様を王として担ぎ上げようとしたのです。しかし、イエス様は群衆から離れて一人静かな所に退かれました。そして、弟子たちには「舟に乗って湖の向こう岸に渡りなさい」と言われたのです。
弟子たちはイエス様に従って湖へ漕ぎだしました。もう夕方になっていました。そして、湖を四、五キロほど進んだところで嵐がやってきたのです。前にも進めない、後ろに戻ることもできない、湖の真ん中で立ち往生してしまったのです。あたりはもう真っ暗です。そこへ、なんとイエス様が水の上を歩いて近づいてこられたのです。弟子たちは「幽霊だー!」と恐れました。
そんな彼らにイエス様は「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6章19節)と言われたのです。安心した弟子たちは、イエス様を舟にお迎えしました。そして、無事にガリラヤ湖を渡ってカペナウムについたのです。
翌朝のことです。そんなイエス様たちを追いかけて大勢の群衆が舟にのってカペナウムにやってきました。「やっと、イエス様を見つけたぞ!」岸辺にはあっという間に人だかりができたことでしょう。そして、イエス様は集まってきた群集に大切な教えを語り始められたのです。
前回はカペナウムでイエスがお語りになった説教の始めの部分、6章26節から29節までを読み、そこから二つのことを学びした。
一つは、決してなくなることのない「永遠のいのちにいたる食物」についてです。もちろん、人が生きるためには「物資的な食べ物」が必要です。でも、イエス様はそれだけでなく人は「神様のことば」によって養われる必要があると教えられました。私たちを愛をもって創造し、私たちのすべての必要を満たすことのできる神様の語りかけによって養われ、支えられながら生きていくことが、人にとって最も大切なことだと教えられたのです。
そして、もう一つイエス様は「神のわざ」とは何かを教えられました。イエス様のことばを聞いた人たちは、「神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」(ヨハネ6章28節)と聞いたのです。イエス様の答えは明快でした。
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネの福音書6章29節)
「わたしを信頼して生きていくこと、それが神様があなたがたに望んでおられることなのです」と言われたのです。
皆さん、私たちもときどき「クリスチャンになったら、あれをしなければならないのではないか、これをしなければならないのではないか、何をすれば神様は私を受け入れてくださるのだろうか」と考えることがあるかもしれませんね。そんな私たち一人一人にイエス様はおっしゃるのです。「神様があなたに求めておられることは、ただひとつだけです。わたしを信じることです」イエス様を信頼し、イエス様を心にお迎えして、イエス様とともに生きていくことが「神のわざ」だとおっしゃっているのです。
さあ、今日はイエス様の教えの続き、6章30節から40節までを読んでいただきました。皆さん、今日の箇所のテーマは「いのちのパン」です。6章はパンが何度もでてきますね。五つのパンで多くの人のお腹をみたしてくださったイエス様が「いのちのパン」とは何かを語られるのです。
1 証拠を求める群集
この時、イエス様のまわりにいた人たちはこう質問をしました。
「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」(ヨハネ6章30ー31節)
どういうことでしょうか。要するに彼らは「あなたが『神が遣わした方』で、『わたしを信じなさい』というなら、その証拠を見せて下さい」と迫ったのです。
昔、イスラエルの民がモーセに導かれてエジプトから脱出しました。荒野を旅する間、神様は毎朝マナというパンを降らせ彼らを養ってくださいました。ですから、ユダヤ人たちは、やがて「救い主」が来られるときには、再び「マナ」のような奇跡の食べ物を降らせてくださると信じていました。だから、そのような天からの証拠を見せろといったのです。
それに対してイエス様はなんと答えられたでしょう。
「モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」(ヨハネ6章32節ー33節)
まず、イエス様は、「マナを与えたのはモーセではなく、天のの父なる神様だ」といっておられますね。その上で、「あの時、モーセが神様に祈って与えられたマナは確かに肉体の空腹を満たすパンでした。でも、それを食べてもまた翌日には空腹になってしまう一時的なものでした。しかし、今、神様は天からまことのパンを与えてくださったのです。そのパンは、決してなくなることのない『いのち』をあなたがたに与えるものです」と、イエス様は言わたのです。
すると、それを聞いた群集は言いました。
「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」(ヨハネ6章34節)
「もし、そんなパンがあったら、もう飢えることがないだろう」「そんなパンがあるならくださいよ」半ば皮肉を込めて言ったのでしょう。人々はイエス様が言われた「まことのパン」が何であるかを理解できなかったからです。
ですから、イエス様は彼らに「いのちのパン」について教えられるのです。それは彼らがびっくりするようなことばでした。
「わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6章35節)イエス様は、そうはっきりと宣言されたのです。
2 「いのちのパン」
皆さん。ここで言われている「パン」とはどういうものでしょうか。それは「なくてはならないもの」という意味ですね。それがないと生きられない、人にとってなくてはならない必要な物ということです。
当時のユダヤ人にとって「パン」は主食でした。食事において他はなくてもパンはなくてはならない食べ物です。日本人なら主食は今でもやっぱりお米ですね。お米がないと何かものたりなく感じるのではないでしょうか。もし、仮にイエス様が日本人だったなら「わたしはいのちのごはんです」といったかもしれません。
その意味は、「わたしはあなたの人生のおかずや、付け合わせのような存在ではない。あなたの人生にとって、なくてはならない一番大切なものなのです」「食べなければ生きられないもの」「あなたにいのち」を与えるものということです。
それでは、その「いのちのパン」は、どのような内容でしょうか。イエス様は三つのことをおっしゃっています。
(1) 尽きることがない
イエス様は言われました。
「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章35節)
「わたしのもとにくる者」つまり、イエス様を信頼し、イエス様が語られたことばを受け入れる人は、決して飢えることがなく、決して渇くことがない「つきることのないいのち」が与えられるのです。
昔、モーセが神様に祈って与えられたマナは確かに肉体的な空腹を満たしたでしょう。でも、翌日にはまた空腹になりました。しかし、今、「あなたがたの目の前にいる、この『わたし』は、あなたがたの心も体も、全存在を生かし養うことのできる『いのちのパン』しかも、尽きることがないのだ」とイエス様は力強く宣言なさったのです
イエス様は4章でサマリヤ女にも言われました。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4章13ー14節)
聖書は、私たちの心の飢えを、渇きを潤すことのできるお方は、イエス様だけだと教えます。だから、詩篇の作者もこう言っています。
「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」(詩篇 116篇7節)
主なる神様のもとに、イエス様のもとに「全きいこい」があるのです。尽きることのないいのちがあるのです。
そして、その「いのち」はいつもイエス様がともにいてくださるという「いのち」です。
(2) いつも共にいる
皆さん。パンの提供者であるイエス様は、与えて食べさせたらそれで終わりではないのです。アフターサービスまでしっかりとしてくださるお方です。6章37節でイエス様はいわれました。
「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネの福音書6章37節)
「決して捨てない」、つまり「いつも共にいる」という約束です。イエス様は信じる者から決して離れることはないということです。素晴らしいですね。「わたしはいつもあなたとともにいる、あなたを決して一人にしない」というイエス様の約束です。
皆さん。だから、私たちがどんなきっかけであれ、どんな方法であれ「イエス様、あなたを信じます。私の人生にお迎えします」と告白したなら、イエス様が私を捉えてくださったのです。イエス様は決してあなたを捨てないのです。
たとえ、私たちがイエス様を忘れてしまうことがあったとしても、私たちの方がイエス様さまから離れているような気持ちになったとしても、イエス様は離れないのです。テモテ第二の手紙に「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(第二2テモテ2章13節)とあるとおりです。
しかも、みなさん、その約束についてイエス様は、それは父なる神様のみ心でもあると言われているのです。6章39節。 「わたしを遣わした方(父なる神)のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく」(ヨハネの福音書6章39節)
イエス様を信じて、イエス様の恵みの中に飛び込む全ての人をイエス様は決して捨てない。しかも、それは父なる神様の御思いでもあるのです。
私たちは色んな挫折や試練にあったときや自分の思うように行かないとき、「自分の信仰が足りないからだ」とか「自分は駄目だ」「こんな私からはイエス様も離れていってしまうのではないか」と、落ち込んだり心配することがあるかもしれません。でも、大丈夫です。なぜならイエス様が「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」と約束してくださっています。私たちに与えられた信仰は、自分の努力や自分の頑張りではなく、神様によって保証されているからです。
(3) 終わりの日によみがえる(復活のいのち)
そして、最後、いのちのパンの内容の三つ目は終わりの日によみがえる(復活のいのち)です。
「終わりの日」というのは聖書の中で度々でてきますが、ここで言われている「終わりの日」は、やがて天に帰られたイエス様がもう一度、この地上に戻ってこられる(再臨される)日です。その時、イエス様によって今もう既に始まっている「天の御国」が完成すると聖書は約束していいます。
イエス様は、その時「わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネの福音書6章40節)と言われたのです。パンの提供者であるイエス様はアフターサービスどころから「永遠保証」をつけてくださっているのです。
イエス様を信じるものには、決してなくなることのない「いのち」が与えられています。しかも、それはこの地上で終わりではありません。やがて「よみがえり」「復活し」神様と共にいきる永遠へと繋がっていく「いのち」です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)とある通りです。永遠の保証が与えられているのです。
以前、ライフラインの関係で、岡山でクリスチャンになった一人の女性の話を聞きました。その方はもうだいぶ高齢になってからイエス様を信じて洗礼を受けられたのです。クリスチャンになったあと、そのおばさんが教会の牧師にこういったそうです。「先生、私ね。人生先はもう長くないかもしれないけど、死んでからのいのちがあるって知ったら、今のいのちも楽しゅうなったんよ。死んでからのいのちがあるってしったら、今の毎日がたのしゅうなった。」
彼女は、残る生涯で喜びや希望を感じることがなかったかもしれません。でも、イエス様を信じて、やがて復活し神様と共にいきるいのちがあると知ったから、そして、今もイエス様がともにいてくださると知ったら、今のいのちが楽しくなったというのです。
私たちはやがてこの肉体の死をむかえます。でも、たとえこの地上のいのちが終わってもそれで全てが終わりではありません。「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」」(ヨハネの福音書6章40節)とイエス様が約束してくださっているとおり「永遠保証付きの人生」が与えられているのです。
今日の箇所で、イエス様は「わたしはいのちのパンです」とおっしゃいました。イエス様は私たちが日々生きる為に実際の必要をご存じで「日々の糧」を与えてくださるお方です。それだけでなく私たちの心も養い続けてくださり、いつも共にいてくださるお方です。たとえ私たちが揺らぐことがあったとしても、イエス様から背を向けてしまうようなときがあっても、イエス様は決して私たちを見捨てることがありません。私たちと永遠にともにいてくださるお方です。その恵みを感謝しつつ、今週も歩んで参りましょう。