城山キリスト教会説教
二〇二五年二月一六日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書六章四一節〜五〇節
 ヨハネの福音書連続説教21
  「引き寄せてくださる神」
 
 41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、イエスについてつぶやいた。
42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」
43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。
44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
46 だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
48 わたしはいのちのパンです。
49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書6章を読んでいます。
 イエス様はガリラヤ湖近くの丘の上で「五つのパンと二匹の魚」で五千人以上の多くの人たちを養ってくださいました。満腹した群衆は「この方こそ来るべき預言者だ」と叫び、イエス様を王様にしようとしました。しかし、イエス様は、熱狂した群衆から退かれ、弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、向こう岸へ行かせたのです。
 向こう岸には、カペナウムという町がありました。そこに着くとすぐに、また大勢の群衆がイエス様のもとに集まってきました。イエス様の周りに集まってきた群衆の中には五千人の給食で満腹した人々もいました。そんな彼らに、イエス様は教えを語られはじめたのです。まずこう言われました。
「なくなる食物のためにではなく、なくならない食物のために働きなさい」
 それを聞いた彼らがイエス様に尋ねました。
 「なくならない食物のために働くというのは、神のわざを行いなさいということですね。神のわざを行うために、私たちは何をすべきでしょうか?」
 するとイエス様は、「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」とお答えになりました。つまり、イエス様は「神様があなたがたに望んでおられることは、神が遣わした者(わたし)を信じて生きることです。なぜなら、わたしこそ、決してなくなることのない『いのちのパン』であり、わたしを食する者(わたしを信じる者)は、『永遠のいのち』をもつことができるからです」とおっしゃったのです。
 皆さん、イエス様は「わたしを食する者」つまり、「イエス様を信じる者は」とおっしゃいましたが、「イエス様を信じる」とはどういうことでしょうか。それは、イエス様を信頼しイエス様のうちに入っていくことといえます。私たちが聖書のみことばの約束の通り、「私はひとりではない、いつもイエス様が一緒にいてくださり、イエス様の中に生き、愛されて、赦され、守られて、歩んでいるのだ」ということを信頼して生きることです。
 パウロは手紙の中で、「キリストが私たち一人一人の内に住み、私たちもまた神によってキリストの中に入れられているのです」と語っていますね。ですから、私たちがイエス様に「イエス様、あなたを信じます。私のうちに入ってください」と心にお迎えしたとき、イエス様が私たちの内に住んでくださいました。それは、同時に私たちも神様によってイエス様の中に入れられイエス様の恵みと愛の中に浸されているのです。
 今日は礼拝の中で洗礼式がありますが「洗礼」はそのことを表わしています。「洗礼」には水の中に全身浸る「浸礼」と、また、水を頭に振りかける「滴礼」があります。どちらも意味は同じです。信じる者がイエス・キリストと一つとされ、イエス・キリストの中に入れられて浸されていることを表しているのです。
 「いのちのパンであるキリストを食する」というのは、イエス様を信頼し「私はイエス様の中に入れ、イエス様がいつも共にいてくださるのだ」という聖書の約束にうなずきながら生きていくことです。
 
 さて、今日は6章の後半で語られたイエス様の教えの続きです。ご一緒に読んでいきましょう。
 
1 つぶやく人々
 
 これまでのイエス様の教えを聞いた人々はどう反応したと書いてあるでしょうか。彼らはつぶやいたのです。
 この時、イエス様はカペナウムの岸辺で人々に囲まれて教えを語り始ました。少し先の6章59節にはイエス様が「カペナウムの会堂で教えられた」(ヨハネ6章59節)とありますので、おそらくガリラヤ湖の岸辺からカペナウムの町にある会堂へと移動しながらお話なさったのでしょう。その間、人々も増えていったかもしれませんね。
 41節に書いてあるように、イエス様が「わたしは天から下って来たパンである」と言われるとそれを聞いた人々は「つぶやき」始めました。ところで、新改訳2017をお持ちの方は訳が違いますね。「小声で文句を言い始めた」と書いてあります。
 イエス様が、「決してなくならない食物の為にはたらきなさい。それは、わたしを信じる事です」「わたしこそ天からくだってきたいのちのパンです」と言われたのですが、それを聞いた人々は「小声で文句を言い始めた」のです。どんな文句だったのかが続けて書いてあります。
 「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」(ヨハネ6章42節)
 「イエスのことは子どもの頃から知ってるよ。同じガリラヤ地方のナザレ村の大工ヨセフの息子じゃないか。俺たちと同じ人間、最近になって急に不思議なことを行いだして、しかも、『わたしは天から下って来た。』と言っている。神と自分を等しくするなんてよくも言えたものだ。」そのように小声で話し出したのです。
 皆さん。この「つぶやき」(小声で文句を言う)という言葉は、「互いに意見を出し合う」「相談する」とも訳されます。つまり、群集はイエス様について「お前はどう思う」「あの昔からよく知っているイエス、自分のことを神のようにいっている」「確かにパンの奇跡は普通の人には絶対に出来ないよな」「あいつが語ることばも、力と権威に満ちている。」「それでも、昔から知っているナザレのイエスだぞ」
 そんな風に群衆たちは互いにブツブツと意見を出し合って、状況を見ながら自分の立場を判断しかねているのです。「ナザレのイエスは、神から遣わされた者か?それともただの人か?」を。
 実は、この問いは福音書を記したヨハネの時代においてもとても重要な問題だったのです。なぜなら、当時一世紀の終わり頃、既にキリスト教会の中には「イエス様は神ではない、ただの人だったんだ」という考え方(異端)がすでに広がっていたからです。
 「イエス様は素晴らしいことをした限りなく神に近だ。でも人にすぎない。」そのようにイエス様が「神の子、救い主」であることを否定する人々がいたのです。だから、ヨハネは福音書の最後にわざわざこう書いていますね。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」(ヨハネ20章30節)イエス・キリストの神性をとても強調しているのです。
 皆さん、今も同じ声が聞こえる時がありますね。
 「イエス・キリスト…知ってるよ。歴史上の偉大な人物の一人でしょ」「隣人愛を説いた人、十字架で死んだ人でしょう」「でも、奇跡や復活は作り話にちがいない」「イエスが神であるわけなんかない」そういう「つぶやき」はいつの時代にもありましたね。
 この時、カペナウムでイエス様のそばにいた群集はあれだけのパンの奇跡を経験しながらも、今、目の前におられるイエス様を自分たちの経験や理解の範囲でしか見ようとしませんでした。イエス様のことばを「信頼」することができず「ブツブツと互いに意見を出し合う、文句をいう」姿があったのです。
 でも、彼らを責めることはできませんね。私だって、もし、この場にいたとしたら同じような態度をとったかもしれません。
 でも、皆さんイエス様は素晴らしいお方ですね。そんな文句を言う人々に対して、「あなたたちなんて、もう知らない」と拒絶するのではなく、さらに語りかけ続けてくださるのです。
 
2 イエス様のことば
 
 イエス様はこう言われました。
 
(1)「つぶやくのをやめなさい」
 
 イエス様は、群衆たちに「そうやってヒソヒソ話をするのをやめなさい。その口を閉じなさい」と、ばっさり切っておられるのです。「イエスは神の子か、人の子か」と、自分たちの理解や知識をもとに意見を出し合って判断しようとしても、堂々巡りするだけです。そんな議論は無駄だということです。
 46節、47節でイエス様はこう言われていますね。
 「ただ神から出た者、すなわち、この者(わたし)だけが、父を見たのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6章46節、47節)
 「わたしだけが父を見た」とはどういうことでしょうか。それはつまり「わたしは永遠の昔から神と共にいて、そのお方のもとから遣わされた神と等しい存在なのだ」ということですね。だから、イエス様は神様と等しいお方だから、「わたしを信じる者は永遠のいのちを持つ」とイエス様は宣言されているのです。
 今、私たちは関根先生を通して創世記の連続説教を聞いています。聖書の始め1章1節もそうでしたね。
 「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1章1節)
 そこには「神がいるのか、いないのか」という議論は存在しません。そんなのは「無用」というところから始まっています。
 それと同じように、「人として来てくださったイエス・キリストが、真の神なのだ」ということは、議論の余地はないと宣言されているのです。
 でも、皆さん。そうはいっても人には限界があって自分の理解や知識で考えてもわからない信じられないという存在ですね。群集と同じようにつぶやいてしまうものです。だから。そこに人としての限界があるから、イエス様は頑な心の私たちを「引き寄せてくださるお方」がいる。それは父なる神様なのだと、おっしゃるのです。
 
(2)「父なる神様が引き寄せてくださる」
 
 44節にこう書かれていますね。
 「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6章44節)
 そうです。イエス様のもとにきて、イエス様が救い主であると信じること、受け入れることができのは、その信じる心を与えてくださるのは「天の父なる神様だ」ということです。
 イエス様が言われた「引き寄せる」という言葉は、「重いもの、抵抗のあるものを引っ張って来る」という意味があります。例えば、魚のいっぱい入った網を苦労して引きあげたり、囚人を無理やり牢屋に引きずっていく時に使われる言葉だそうです。
 私は年末になると大間のマグロ釣りのテレビ番組を見るのがすきです。マグロかかったら漁師さんが力一杯引っ張りますが、マグロも抵抗しますよね。引っ張られても、なかなか舟まで来まえせん。漁師さんは足を踏ん張って重く抵抗するマグロをぐっと引き寄せるわけです。「引き寄せる」というのは、そのような意味の言葉です。天の父なる神様は私たちをイエス様のもとに「引き寄せて」くださったのです。
 そう聞くとこう思われる方がおられますね。
 「いやいや先生、私は別にそんなに抵抗してないですよ。」でも、創生記のアダムとエバの時から人はみんな神様に背を向け、神様から離れ、神様の方に向おうとはしない、受け入れようとはしない、そのような性質を受け継いでいる頑なで腰の重い存在です。
 またある方は、「いやいや、それでも、私は無理矢理に教会に引っ張られて連れてこられたなんて感覚はありませんよ。嫌々で洗礼を受けさせられたわけでもありませんよ」とおっしゃるかもしれません。もちろん、神様は嫌がる者を無理やりに首根っこを掴んで強制的に引っ張ってくるような方でもありません。
 それでは神様は、どのような方法で私たちをキリストのもとに引き寄せてくださったのでしょうか。
 
(3)みことば(聖書)によって
 
 イエス様は続けてこう言われました。45節です。
 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。」(ヨハネ6章45節)
 ここで言われている「預言者の書」というのは旧約聖書を指します。当時はまだ新約聖書はありませんでしたから、今の私たちにあてはめれば「聖書」全体と理解して差し支えありません。つまり、神様は私たち一人一人に聖書のみことばによって語りかけ「教え」「聞かせ」「学ばせ」てくださったのです。そのことを通してイエス様のもとに引き寄せてくださったのです。その内容は、イエス様がなさったさまざまな「しるし」としての奇跡であり、イエス様が語られた権威あることばであり、イエス様ご自身の姿です。それら全てが記されたを聖書を通して、神様の側からみれば、(私たちの感覚はどうであっても)腰が重く足を踏ん張っているような私たち一人一人をイエス様のもとに引き寄せてくださったのです。
 私たちはそれぞれにいろんなきっかけで聖書に触れ読んできましたね。ある人は書店で手に取って、またある人は人に進められて、また、ラジオやテレビで、ネットを通して、家族がクリスチャンだから、それぞれに私たちは聖書を知りました。そして、聖書によって、イエス様を知り、イエス様を自分の救い主として信じてクリスチャンになりましたね。
 その背後に「引き寄せてくださる」神様の働きがあるのです。ヨハネの福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び」とあるとおりです。
 私たちは、聖書のみことばを聞いて「イエス様あなたを信じます」と自分でうなずいたけど、じつはその背後に「父なる神様の御手」があり、その御手が「引き寄せてくださった」からこそ、私たちにうなずきが与えられ、イエス様を信じ、今朝もこうやって礼拝しているのです。
 ですから、「強引に、自動的に、神様に引っ張られた」ということではなく、私たちの側からみれば確かに「聖書のみことば」を「聞き」、それによって「教えられ」、イエス様のもと(教会)に「引き寄せられた」ということなのです。同時に、それは神様の側からみれば、100%、神様が私たちを引き寄せてくださったのです。ですから、私たちの信仰は「引き寄せてくださる神」によるのです。
 
(4)「わたしはいのちのパン」
 
 今日の箇所の最後でイエス様はもう一度、繰り返して言われました。
 「わたしはいのちのパンです。・・・わたしは、天から下って来た生けるパンです。」(ヨハネ6章48節、51節)
 6章はパンが何度も出てきますね。神様によって、聖書によって、イエス様のもとに引き寄せられた私たちは、今すでにもう、素晴らしい「いのちのパン」であるイエス様を信じています。イエス様を食しています。ということは、今も生きておられるイエス様の「いのち」の中に生かされているのです。
 詩篇の作者はこういいました。
 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(詩篇34篇8節)
 このことばにあるように、イエス様という「いのちのパン」の素晴らしさを、私たちは味合うことができているのです。
 パウロは、新約聖書エペソ人への手紙3章17―19節でこう祈っています。
 「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3章17−19節抜粋)
 イエス様は「いのちのパン」なのですから、そのイエス様を信頼し、イエス様の恵みを味わって生きるというのは、
 ここでパウロが祈っているように「人知をはるかに越えたキリストの愛」をさらに深く知り、味わうことのできる生涯に私たちは生かされているということなのです。
 そして、その生涯に、天の父なる神様が力強い御手で、私たちを引き寄せてくださいました。引き寄せてくださったのが神様なのですから、これからもキリストの恵みを、愛を、深く深く味合わせてくださるのも神様なのです。そのお方に信頼し、感謝と賛美をもって今週も歩んでいきましょう。