城山キリスト教会説教
二〇二五年三月二日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書六章五一節〜七一節
 ヨハネの福音書連続説教21
  「誰のところに行きましょう」
 
 52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。62 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」−−イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである−−65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」
 66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」71 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書6章の最後、イエス様がカペナウムの町で語られた説教からご一緒に学んでいます。
 カペナウムはガリラヤ湖の北西部の岸辺の町です。現在は写真のような遺跡があります。岸辺に面した町だったことがわかります。
 この時イエス様の周りには大勢の人が集まっていました。彼らはイエス様の素晴らしいみわざを見、語られることばに心打たれながらも、こう思ったのです。「イエスは俺たちと同じガリラヤ出身の大工の息子ではないか」「それなのに『自分は神から遣わされた』といっている」「お前はどう思う、信じられるか」そうやって互いに小声で文句を言いだしたのです。イエス様はそんな彼らに言われました。
 「互いにつぶやくのをやめなさい。」(ヨハネ6章43節)
 イエス様は父なる神と永遠の昔から共にいて、そのお方から遣わされた神と等しいお方、救い主だからです。「だから『イエスは神かただの人か』とつぶやくのはやめなさい。口を閉じてわたしのことばを聞きなさい」ということですね。
 さらにイエス様は「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6章44節)とも言われました。つまり、イエス様を信じイエス様のことばを受け入れることができるようにしてくださるのは、父なる神の働きだということです。ですから、私たちはそれぞれに「イエス様あなたを信じます」と告白しクリスチャンになりましたが、その背後で父なる神様の御手が「引き寄せてくださった」からこそ、私たちはイエス様を信じ今朝もそのお方に礼拝をささげることができているのですね。
 
 さて、イエス様の教えの続きですが。6章51節でイエス様は言われました。
 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6章51節)
 イエス様の譬えが「パン」から「肉」に変わっていますね。それを聞いた人々は益々わからなくなりました。
 「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」(ヨハネ6章52節)
するとイエス様はさらにこう言われました。その内容はもっともっと彼らを混乱させ不快にさせるものでした。
 「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。(ヨハネ6章53節―57節)
 皆さん、これを読んでどう思われますか。もし、今日初めて教会にきたとして、こんなことを言われたら「もう、やばいところにきた」と引いてしまいますよね。
 当時の人々も「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」(ヨハネ6章60節)と反発しました。イエス様のことばにつまずいてしまったのです。
 イエス様はいったいどういう意味でこんなことを言われているのでしょうか。
 
1 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」とは?
 
 「人の血を飲む」というのは「相手を大変むごたらしい方法で殺す」という意味で使われた表現だそうです。しかも、ユダヤ人にとっては、律法の中に「血は決して食べてはいけない」という戒めがあるので絶対に受け入れられない行為です。彼らはイエス様の言葉じりだけをとらえ、どういう意味で言われたのかをじっくりと聞こうとしなかったのです。
 でも、皆さん。この箇所を丁寧に読めばイエス様が言われた「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」というのが比喩的な表現(たとえ)であることはわかりますね。イエス様は56節で「わたしを食べる者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります」と言われています。例えば、人が何かを食べたらお腹の中にその食べ物があるというのはわかります。でも、イエス様は、食べた人が食べたもの(イエス様の)のなかに留まるとも言われているのです。まるでどっちが食べたのか食べられたのかわからないですね。ですから、「肉を食べる」とか「血を飲む」は、あきからな比喩です。
 どういう比喩でしょうか。それは、「わたしを信頼し受け入れる者は、わたしの中に入れられ、浸され、わたしも信じる者のうちに住む、いつもともにいる」ということです。前回もお話ししたように「イエス様を信じる」というのは「イエス様を私たちの内にお迎えする」と同時に、「私たちも神様によってイエス様の中に入れられる、浸される」ということです。ですから、今回の箇所で言われている「イエス様の肉を食べ、血を飲む」というのは、「イエス様を信じる」ということと同じ意味なのです。
 
 (1)イエス様の十字架の予告
 
 でも、皆さん。「だったらイエス様もっとわかりやすく話してくださればいいのに」と思いますよね。なぜイエス様はあえてつまずきを与えるような表現をお使いになったのでしょうか。それは、「肉を食べ、血を飲む」という非常に「惨たらしい死」を暗示するためです。イエス様にとっての「惨たらしい死」とは何でしょう。それは「十字架の死」です。
 イエス様はご自分がこれから先に「十字架」という「惨たらしい死」を経験なさること。十字架上でご自分の肉が裂かれ血が流されることをあらかじめ予告しておられるのです。私たちはここでも「イエス・キリストの十字架を信じ受け入れなさい」というメッセージを読み取ることができますね。
 ところで、今日の箇所には「食べる」「飲む」ということばが何度もでてきました。原文を見ると、51節と53節の「食べる」「飲む」は1回限りで終わる行為を表す形で記されています。「わたしというパンを食べるなら永遠のいのちを持つ」これは1回限りです。しかし、54節以降に出てくる「食べる」「飲む」は、原文では継続して行う形で記されています。
 
 (2)繰り返し食す
 
 確かに「食べる」「飲む」は繰り返し行う行為ですね。誰かに変わってもらうことはできません。「ダイエットするので私の代わりに食べておいてください」なんて頼めませんし、食いだめもできません。毎日、自分自身が繰り返し食べる必要があります。「食べる、飲む」は継続を表しているのです。
 つまり、イエス様の「肉を食べる」「血を飲む」という表現は、「イエス様を信頼し生きていきます」という告白を継続し繰り返して生きていくことも表しています。
 イエス様はおっしゃいました。「わたしを食べるもの(信じる者)は永遠のいのちを持つ」これは1回限りのことです。イエス様を一度、信じお迎えすればそれで十分、神の子とされて新しいいのちに生きることができます。
 そして、さらにイエス様は「だから食べ続けなさい」「継続して、食べ、飲みなさい」「いのちに生きていきなさい」とおっしゃるのです。イエス様は「いのちを持つこと」と「いのちに生きること」この二つのことを教えられているのです。
 ですから皆さん。私たちが「イエス様を信じます」と心に迎えるのは1回限りです。さらに、私たちはクリスチャンライフを歩むときに、「イエス・キリストを信頼し生きていきます」という告白の中に毎日食事をするように生きていくのです。
 今日は聖餐式があります。キリスト教会は、なぜ聖餐式を定期的に繰り返し行うかというと、イエス様が「食べ続けなさい、飲み続けなさい」と言われたからです。私たちは聖餐式を繰り返し行いながらイエス様が流してくださった十字架の血を覚え、裂かれた肉体を覚えながらパンを食べぶどうジュース飲むのです。その度に「イエス様が十字架でいのちをささげてくださったほどに私は愛され赦されている。キリストのいのちに生かされているのだ」ということを繰り返し味わっていくのです。
 
2 「いのちを与えるのは御霊です」
 
 人々はイエス様の説教の途中で「これはひどいことばだ!きいてられるか」と騒ぎ出したのです。皆さん、自分が説教しているときに途中で「ひどいことばだ!きいてられるか!」と言われたらショックですね。
 でも人々はイエス様の説教に対して「つぶやき」「つまずき」「聞いてられるか!」と結論づけたのです。
 その時にイエス様はこう言われたのです。
「いのちを与えるのは御霊です。」(ヨハネ6章63節)
 イエス様の語る約束、そこに示されているいのちを与えるのは御霊なのだと聖書は語るのです。
「肉は何の益ももたらしません。」(ヨハネ6章63節)
 ここで言われている「肉」は「自分の狭い理解、知識や経験の範囲でしか受け入れようとしない人の姿」です。私たちは分からないこと理解できないことのほうが多いわけです。でも、「自分の理解できないことは信じない」という姿、ここで「肉」と呼ばれているイエス様に対する姿は、いのちをもつためには何の益にはならないのです。だから、イエス様は、「いのちを与えるのは御霊(聖霊なる神様)です」と言われました。
 皆さん。私たちは聖書が教える三位一体の神様を信じています。父なる神様は御子イエス様を送ってくださいました。そして、イエス様が何といったかというと、「わたしの肉を食する者、血を飲むもの」、まさに「十字架のみわざ」を信じ生きるなら「いのち」が与えられる、それをあたえるのは「御霊なのだ」(聖霊なのだ)と言われたのです。ですから、私たちの救いは「父」「子」「聖霊」、この三位一体なるお方の愛と調和に満ちた同じ働きの中で、私たちは「神の子」とされ「永遠のいのち」を持つことができるのです。「いのちを与える」のは御霊の働きでありイエス様の働きであり、父なる神の働きでもあると聖書は教えるのです。
 そして、イエス様はこう言われていますね。
「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6章63節)
 イエス様のことばを信頼し受け入れて生きること、それは聖霊によって生かされることで、永遠のいのちに生きることなのです。パウロがコロサイ人への手紙の中で「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、・・・感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」(コロサイ3章16節)と語っているように、聖書を読みイエス様のことばで心が満たされていくとき、それに応答し賛美をささげるとき、私たちの内に住んでおられる聖霊なる神様が働いてくださり、イエス様の恵みを神様の愛を豊かに味わせてくださるのです。
 でも、この時、残念ながら彼らはそれを理解できませんでした。6章66節にはこう書いてあります。
「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6章66節)
 この「弟子たち」はイエス様がお選びになった十二弟子のことではなくて、イエス様の弟子になろうとしてついて来た大勢の人たちのことです。でも、その人々の多くがイエス様から離れてしまいました。
 イエス様は、そばにいる十二弟子にこんな質問をしました。 「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」(ヨハネ6章67節)
 すると、ペテロがこう告白したのです。
 
3 イエス様への告白
 
「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネ6章68節、69節)
 
 皆さん。今日はこれを私たちの告白としたいのです。
 6章の終わりには、一方ではイエス様に対して「ひどいことば」だといって去っていった人たちがいます。でも、一方で「あなたのもとを離れてどこへいけましょう」という素晴らしい告白があるのです。
 ペテロは言いました。
 
 (1)「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」
 
 そうです。イエス様は私たちにいのちを与えることのできるお方です。その約束のことばをもっておられるお方です。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われました。イエス様ご自身がいのちそのものなるお方であり死を打ち破られるお方です。
 ですから、私たちは「イエス様、あなたは永遠のいのちのことばをもっておられるお方です。私たちを生かしいつもともにいて死を乗り越えるところのいのちさえもあたることのできるお方です。」と告白するのです。
 
 (2)「あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」
 
 「神の聖者」は「救い主」と同義語です。ペテロは「あなたこそ救い主です」と告白をしているわけです。そして、「知っています」は単なる知識ではなくて「体験的に知っている」という意味です。
 私たちの人生には色んなことがあります。そういう様々な経験の中で「ああ、イエス様がいつもともにいてくださる」と、イエス様の恵みを日々の生活の中で味わうことができる。だから「私はあなたを体験的に知っています」という告白するのです。
 
 (3)「主よ。私たちがだれのところに行きましょう」
 
 そして、ペテロはそのようなイエス様というお方に「私たちがだれのところに行きましょう。あなたのほかにはないではありませんか、あなたを離れてどこへゆきましょう」と告白したのです。
 皆さん、多くの人がイエス様から去っていきました。今も同じような光景を見ます。でも、イエス様を離れていったいどこに行ったら本当のいのちがあるでしょうか。どこで罪が赦されるのですか。どこで心の平安が与えられるでしょうか。イエス様のもとだけです。
 皆さん、私たちもつまづくことがありますね。わからないこともあります。苦しいこと困難なことも経験します。でも、そのなかで「イエス様、あなたを食べ続けます、飲み続けます、信頼して一歩一歩生きていきます」と告白できるのです。
 なぜなら、イエス様が私たちを離さずともにいてくださるからです。そこに恵みが愛が希望があるから、私たちは「主よ。わたしは誰のところにいきましょう。あなたのところしかありません」そのような告白をもって、毎日食事をするようにイエス様を信頼して歩んでゆくことができるのです。
 
 今日の箇所、6章の最後では、人々が去って行き十二弟子のひとりであるユダさえも、これからイエス様を裏切り去っていくことが記されています。でも、イエス様はユダを含めたすべての人をこの後も愛し尽くしてくださるのです。人々がイエス様を離れて裏切る人の姿をみることは、イエス様にとっても痛みだったはずです。しかし、その痛みも含めてイエス様はすべての苦しみを十字架で背負い三日目に蘇られたのです。それは、私たちにいのちを与えるためのみわざです。
 そのイエス様に感謝と賛美をもって、「主よ。誰のところに行きましょう。あなただけです」という告白をもって、この週も歩んでまいりましょう。
 今日は聖餐式があります。イエス様の十字架を覚えながら、最後に「主イエスの十字架の血で」を賛美しましょう。