城山キリスト教会説教
二〇二五年三月二三日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書七章一節〜九節
 ヨハネの福音書連続説教23
  「わたしの時はまだ来ていません」
 
 1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」
5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。
7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。
8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」
こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
(新改訳第三版)
 
 皆さん、おはようございます。ヨハネの福音書を少しずつ読み進めていますが、今日は7章に入りました。ここから新しい段落に入ります。
 この7章から始まる出来事は「仮庵の祭り」の時期に起こりました。ユダヤ教には「ユダヤ三大祭り」と呼ばれる三つの大きなお祭があります。一つは「過越の祭り」です。3月から4月、春の時期に行われます。二つ目は「七週の祭り」です。この祭りは、5月から6月、初夏の時期です。そして、三つ目が今回出てくる「仮庵の祭り」です。これは9月から10月、秋の時期に行われるお祭です。秋のお祭ですから果物や穀物の収穫を感謝する収穫感謝祭でもありました。
 どんなお祭りかというと、人々は七日間続く祭りの間、木の枝などでつくった小屋、仮庵(かりいお)で生活するのです。仮庵を作るのには理由があって、一つは、昔、収穫の時期には農夫が畑に小屋を作って寝泊まりしながら収穫したからです。そして、もう一つ大切な理由がありました。それは、昔、ユダヤ人の先祖がモーセに導かれてエジプトを脱出し約束の地に向かって荒野を旅しました。その間、テント生活をしたのです。その荒野での旅の間、主なる神様が彼らの生活を守り導いてくださいました。そのことを毎年毎年、祭りの度に思い起こして感謝をささげるために仮庵で過ごしたのです。
 イエス様の時代の人々は主に石造りの家に住んでいたようですが、この時は家の外に小屋(仮庵)を作って寝泊まりしたわけです。ですから、英語では「キャンピングフェスティバル」とも呼ばれるそうです。今でも、子どもがいる家庭などで、ときどき庭にテントを張ってキャンプすることがありますね。
 そのような楽しい「仮庵の祭り」の時期には、エルサレム周辺のユダヤ人はもちろん、外国に住んでいるユダヤ人たちもエルサレムに訪れて祝う盛大な祭りだったのです。
 ところで、これまで読んできた5章と6章は「過越の祭り」の頃で春の出来事でした。ですから、6章と7章の間には半年以上の時が経過しているのですね。その間もイエス様は教えを語り、病気の人がいればお癒しになり、様々なみわざをなされたでしょう。しかし、地域としてはガリラヤ地方の各地のみを巡っておられました。エルサレムがある南のユダヤ地方には行かれなかったのです。
 なぜでしょうか。その理由が7章1節に書いてあります。
 イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。(ヨハネ7章1節)
 なんと一部のユダヤ人たちがイエス様を殺そうと命を狙っていたというのです。ここに出てくる「ユダヤ人たち」は、厳密には「ユダヤ当局者(祭司や律法学者)」たちを指します。「イエス様は神を冒涜するけしからん奴だ」「大切なユダヤの伝統を壊す危険分子だ」そのようにイエス様の言動に反発し、イエス様を亡き者にしようと殺気立っていたのです。
 また、当時、イエス様の周りには他にも沢山のユダヤ人がいました。彼らもユダヤに住んでいるので、ユダヤ人ではあるのですが、そういう人々のことをヨハネは「群衆」と区別して表現しています。
 ですから、この時、イエス様の周りには何種類かの人がいたことがわかりますね。殺気立った「ユダヤ当局者(指導者)」、それをとりまく「群衆たち」、さらに今日の箇所には「イエス様の兄弟(弟たち)」もでてきます。
 弟たちはイエス様にこういったのです。
 「ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」(ヨハネ7章3節、4節)
 マタイの福音書にはイエス様の弟たちの名前が紹介されていますね。「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」と4人の名前が書かれています。ちなみに他の箇所にはイエス様に「妹たち」がいたとも書かれていますので、イエス様は少なくとも四人の弟と二人以上の妹がおられたということです。イエス様は7人兄弟だったことがわかります。ちなみに私も七人兄弟ですので、少しイエス様に親近感が湧きます。
 この時、弟たちはイエス様の言葉を聞き、数々のみわざを目撃しながらも、正しくイエス様のことを理解していなかったようです。「兄さん、こんな隠れるようにガリラヤの田舎ばかりを巡るのではなく、都エルサレムのあるユダヤに行くべきです。国のど真ん中へいって、ご自分を世にあわらしてください!」
この言葉の背後には「俺の兄貴すごいだろう!」とか「もし兄貴がみんなに認められたら、自分もそれなりに認められるのでは」というような思惑があったかもしれませんね。
 また、5節には「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」(ヨハネ7章5節)とありますから、きっと彼らはイエス様の素晴らしさを感じながらも「都にいる権威ある人たちや世間の多くの人々が兄さんを救い主であると認めたら、自分も信じられる、だからこそ都へ!」そういう心の態度だったようです。
 しかし、そんな彼らにイエス様ははっきりとおっしゃったのです。「わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ7章6節)と。今日の説教題にもつけさせていただいた大切なことばです。
 ここで、イエス様は「わたしの時」とおっしゃっていますが、今日は、まず「時」ということばから最初に考えたいのです。
 
1 「時」について
 
 新約聖書が書かれたギリシャ語には「時」と訳されることばがいくつかあります。一つは、「クロノス」といって、これは時計が針をさす「時刻」、流れていく「時間」の「時」です。もう一つは、「カイロス」といって、何かをなす「時」、収穫の「時期」や何かをする「機会」という意味です。イエス様がいわれた「わたしの時」は、この「カイロス」ということば、つまり、何かをなす「時」のことです。
 イエス様はご自分の「時」を明確に理解しておられました。これから起こることも、ご自分が何をなすべきかも、すべて明確にご存じで、その上で行動されたのです。イエス様はご自分の「時」をしっかりと理解し、その確信の中を歩まれたお方です。
 でも、皆さん。私たちは違いますね。誰も明日の確かなことはわかりません。暖かくなってダウンコートや布団をしまったかと思えば、急にまた寒くなってひっぱりだすこともあります。
 自分の人生においても、明日実際何がおこるのか誰も言い当てることはできません。でも、聖書は、そんな私たち一人一人が神様の「時」の中に生かされていると教えているのです。
 伝道者の書3章にはこうあります。
 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
 つまり、聖書は、すべてのことの中に天地を造られた主なる神様がお定めになった「時」があり、私たちはその中に生かされていると言うのです。そう聞くと、ある人は「なんだか運命にしばられているような、窮屈な気持ちがする」というような印象をもたれるかもしれません。でも、決してそうではありません。詩篇の作者はこういいました。
 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(139篇14−16節)
 ここには「私のために作られた日々」とあります。つまり、天の父なる神様は私たち一人一人を愛をもって創造しいのちを与えてくださいました。そして、私たちの生涯の全て、お母さんのお腹の中にいるときから、この人生を終えるときまでの全てにおいて「私のために作られた日々」を備えてくださっているのです。私たちはそのような神様の「時」の中に生かされているのです。
 しかも、その「時」は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3章11節)とあるとおり、私たちにとって「美しい」日々、「良い」日々なのです。
 だから、皆さん。私たちは、確かに明日ことはわかりません。不安になることもあります。でも、聖書に「神のなさることは時にかなって美しい」とあるのですから日常の中で、私たちのできる最善を行いながら主を見上げながら一歩一歩生きていくとき、それが「神の時」の中に生かされているということなのです。
 私自身、自分の人生を振り返るとき、そのことを実感します。
 私が14年の放送伝道の働きから牧師になろうと決心したとき、関根先生が城山教会に誘ってくださいました。とても、嬉しかったです。でも、実はそれよりも先に、当時、私が所属していた教会から働き人として助けて欲しいと声がかっていたのです。私は牧師になると決心し、その先のことは神様にお任せしていたのです。その時に自分が所属していた教会の必要があることを知り、そこに行こうと決断していたのです。だから、関根先生からのお誘いはお断りしたのです。
 そして、3年間その教会で仕えました。そして、3年目にはいったときに主任牧師の先生との対話の中で、牧師として新たな道に踏み出すときではなかという思いを持ったのです。そして、具体的な導きを祈り初めていました。
 なんと、そのタイミングで関根先生にお会いする機会があって、私がそのように将来のことを考えていることを知っていただけたのです。そして、もう一度「城山教会に牧師としてこないか」と声をかけていただけたのです。本当にありがたかったです。そして、所属教会の方々にも理解していただいて2020年に送りだしていただけたのです。
 本当に神様が備えてくださったタイミングだったと思います。振り返ってみれば、その3年は私にとっても大切な経験し多くを学ぶことができた時間でした。また、城山教会としても3年間でさらに経済的な備えやその他の準備を進めることができ、関根先生の定年までの年数など本当に適切なタイミングだったのです。
 これは私が経験した一つの出来事ですが、同じ主を信頼する皆さんお一人一人も主が「最善の時」備えてくださっています。そのような「時」の中に生かされているということを覚えつつ、日常のさまざまな決断や選択を主に信頼しながら歩んでゆけばよいのですね。
 
2 弟たちの「時」の理解
 
 次に今日の箇所に出てくる、イエス様の弟たちの「時」の理解を考えていきましょう。
 彼らは「兄さん。今こそ、都に上るときです。自分を世間の人々に表す時です」と考えたわけです。弟たちがそう考えたのは、ある意味で自然なことでもありました。なぜなら、「仮庵の祭り」は「救い主」のあらわれを待ち望むお祭でもあったからです。祭りの初日には旧約聖書のゼカリヤ書14章が朗読されました。こういう内容です。
 「主なる方が来られて、敵国を打ち負かし、全地の王となられる。そして、エルサレムに回復と平安がもたらされて、人々は、主を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る」(ゼカリヤ書14章)
 人々はこのゼカリヤ書14章が朗読されるたびに「いつの日か、全地の王となる救い主メシヤが来られ、救いを与えてくださるのだ」と待望していたわけです。「やがて力あるリーダーが現れてローマの支配から解放し自分たちの国を打ち建ててくれる」そのような華々しい王なる「救い主」を待ち望んでいました。
 ですから、イエス様の弟たちの考えもわかりますね。
 「自分の兄がすごいことをしている。救い主かもしれない。」「もうガリラヤでは有名人、すでに大勢の人々が既に集まっている。」「だから、この祭りのときにエルサレムに上って、みんなが待ち望んでいる救い主として公にご自分をあらわすべきだ!」そう考えた訳です。
 しかし、イエス様はそんな弟たちに「わたしの時はまだ来ていません」と言われたのです。「今はその時ではない、あなたがたが自分勝手に期待しているような、時ではない」とはっきりと言われたのです。
 皆さん。私たちは神様の「時」の中に生かされていることは大前提ですが、時々、弟たちが自分勝手に「イエス様の時は今だろう」と思ったように勘違いするようなこともあるかもしれませんね。だから、弟たちの気持ちも分かります。
 でも、そんな弟たちにイエス様は続けて言われたのです。
 「あなたがたの時はいつでも来ているのです。」(ヨハネ7章6節)
 これは、ある意味で皮肉が込められたことばですね。「あなたがたは自分で勝手に考えた『時』の中でしか生きてはいません」ですから、そういう意味で「あなたがたの時はいつでも来ているのです」というわけです。
 そして、イエス様は続く7節で言われました。
 「世はあなたがたを憎むことはできません。」(ヨハネ7章7節)
 どいうことでしょうか。
 ここで言われている「世」というのは、「神様抜きの秩序、神様抜きの世界」という意味があります。「神様抜きの世界から憎まれない」ということは、「神様を認めない世の人々」と同じだということです。「神様の時にいきるなんて考えもしない」弟たちは、そういう心の態度で生きてしまっている、つまり、「時」を見失ってしまっている状態だという指摘ですね。
 
3 イエス様の「時」
 
 しかし、イエス様は違いました。ご自分の「時」をはっきりとご存じでした。確かな目的をもってこの世にこられて、ご自分の時を明確に理解しておられたのです。
 それでは、イエス様の「時」とは、具体的にどんな時なのでしょうか。イエス様は8節で言われました。
 「わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」(ヨハネの福音書7章8節)
 「イエス様の時」はいつ満ちるのでしょうか。それは、これからヨハネの福音書を読み進めると分かってくることですが、「十字架と復活のみわざ」の時です。その時こそが、イエス様がご自分を「救い主」として明確に示す「時」だったのです。
 それは、人々が期待していたような華やかに現れ、敵を打ち倒し、目に見える国を打ち立てる「時」ではありません。むしろ逆で、人々が目を背けるような惨めで惨たらしい姿で十字架にかけられ、人の全ての罪を背負って十字架上で死に、葬られ三日目に復活することによって「救いのみわざ」を成就される「時」です。
 イエス様は、その「ご自分の時」を見つめてまっすぐに進んで行かれたのです。そのようなご自身の「時」を明確に理解しておられたイエス様が、そこに向かって進んでくださって十字架と復活のみわざをなしてくださった。だからこそ、今、私たちは罪が赦されて、神の子とされて、たとえどんなことがあっても、最善をなしてくださる父なる神様の「時」の中に生かされる者とされたのです。
 ですから、皆さん。イエス様が「わたしの時」とおっしゃったその「時」というのは、私たち一人一人の為に用いられる「時」であったのです。イエス様「時」は、ご自分の為ではなく、私たちのための「時」だったのです。そういうイエス様が私たちとともにいてくださるのです。なんと心強いことでしょうか。
 パウロはローマ書でいいました。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)
 こう約束されているのですから、私たちには明日のことはわからないけれど、不安もあるかもしれないけれど、それでも、最終的に万事を益としてくださる主の時の中を、日々を生かされているのです。
 今日は年次総会があります。この1年も神様が城山教会を守ってくだいました。これからも同じように主は守ってくださります。
 また、皆さんの中には年度が替わって新しい環境に進まれる方もおられますね。不安があるかもしれません。先が見えないかもしれません。でも、大丈夫です。
 なぜなら、全ての「時」を明確に知っておられるイエス様が私たちとともにいてくださり、私たちの内に住んでくださるから、そして、「万事を益としてくださる」父なる神様の「時」の中に私たちは生かされているからです。
 その恵みを感謝して、今週も歩んでゆきましょう。
 今日は最後に「御手の中で」を賛美しましょう。この曲はもともと英語の曲で、原曲のタイトルは「In His Time」(彼、神の時の中)です。賛美しましょう。