城山キリスト教会説教
二〇二五年四月六日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書七章一〇節〜二四節
ヨハネの福音書連続説教24
「宮での教え」
10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。
11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか」と言って、イエスを捜していた。
12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。
13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。
14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
17 だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。
19 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」
21 イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。
22 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。−−ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです−−それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
24 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(新改訳第三版)
ヨハネの福音書7章には、ユダヤ三大祭の一つの「仮庵の祭り」で起こった出来事が記されています。
このお祭りは、毎年9月〜10月頃に行われた秋の祭です。期間は一週間で、人々は木の枝や葉っぱでつくった小屋(仮庵)で寝泊まりしました。昔、ユダヤ人がモーセに導かれてエジプトを脱出して荒野を旅した時、テント生活をしたからです。その荒野での生活を主なる神様が守ってくださったことを思い起こし感謝するために、毎年、仮庵を作って祭りの期間を過ごしたのです。
都エルサレムには、大勢の人が集まって盛大に祝われました。初日には旧約聖書のゼカリヤ書が朗読されたそうです。次のような内容です。「主なる方が来られて、敵国を打ち負かし、全地の王となられる。エルサレムに回復と平安がもたらされて、人々は、主を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」仮庵の祭は、ここに約束されているメシヤ(救い主)の訪れを待ち望む時でもあったのです。
ですから、前回の箇所で、イエス様の弟たちがイエス様にこう言ったのです。「兄さん、こんな隠れるようにガリラヤ地方だけを巡るのではなく、エルサレムのあるユダヤに行くべきです。この祭のときに、ご自分を世にあわらしてください!」
しかしイエス様はこうお答えになりました。
「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ7章6節)
「時」はギリシャ語の「カイロス」ということばで「何かをなすべき時」という意味があります。つまり、弟たちが「今だ!」と考えた「時」と、イエス様の「時」の理解は違っていたのです。イエス様がおっしゃった「わたしの時」が何をさしていたかというと「十字架と復活」のみわざをなされる「時」でした。
人々が期待していたように華やかにあらわれ、目に見えるユダヤの国を打ち立てる英雄としてではなく、人々が目を背けるような惨たらしい十字架にかかり、全ての人の罪の罰をその身に受け、死んで葬られ三日目に復活されることによって「救い」を成就される「時」です。イエス様はそのようなご自分の「時」を明確につかんで、ご自分の栄光ではなく、私たちの救いの為に一歩一歩、進んで行かれたのです。前回、私たちはそのことを学びましたね。
ところで、前回の説教を聞いてくださったある方からこんな質問をいただきました。「先生、イエス様は7章9節で『あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。』といわれましたね。でも、10節を読むとこう書いてあります。『しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。』どういうことでしょうか。」 確かに気になりますね。今日はまずそこからご説明します。
「公にではなく、内密に」
イエス様は9節で「わたしはこの祭りには行きません」と言われました。でも、実際にはエルサレムに上って行かれたのです。理解の助けになるのは、10節の「公にではなく、いわば内密に」ということばです。
当時、ユダヤの人々は大きなお祭のためにエルサレムに巡礼に行くとき、町や村の人たちと集団で行動しました。例えばルカの福音書2章では、イエス様が12歳になられた時に両親と共に「過越の祭り」に参加されたことが記されています。その帰り道、イエス様はご両親とはぐれたのです。でも、最初、両親はイエス様がいなくても気にしませんでした。なぜなら「大勢で帰っているし、誰かと一緒なのだろう。後で合流できる」と考えたからです。
つまり、「公に行く」というのは、集団で都に上ることをさします。この時、イエス様はそのように「公に」は行動されませんでした。なぜなら、弟たちと同じように考える人が大勢いたからです。もしかしたら、その群集たちに担ぎ上げられるような騒ぎが起きたかもしれません。ですからイエス様が「あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません」と言われた意味は、「公に(大勢の人々と一緒に)今、このタイミングでは祭にはいかない」なぜなら、「今はまだ自分をメシヤとして示す時(十字架にかかる時)ではないから」そのように理解できるのです。
でも、イエス様は10節にあるように「いわば内密に上って行かれた」ましたね。おそらく、それはイエス様に意図があったからです。もちろん十字架はまだ先なのですが、イエス様はこの時のも、人々にお語りになりたいメッセージがあったのです。それは、特に祭の最終日、クライマックスの時に語られるのですが、今日はその前に祭の「中ごろ」に起こった出来事からご一緒に考えていきましょう。
1 仮庵の祭りにいた人々
この時、イエス様の周りには何種類かの人たちがいました。
まず、「ユダヤ人たち」と呼ばれる宗教指導者(祭司や律法学者)です。彼らはイエス様に殺意を覚え敵対していました。11節には「ユダヤ人たちは、祭りのとき、『あの方はどこにおられるのか』と言って、イエスを捜していた。」(ヨハネ7章11節)とありますね。英語の聖書では「Where is he?」です。敵対心をもっていたわけですから、「あいつは、どこにいる?」というニュアンスですね。
その次は「群集」です。イエス様は内密に行動されたのですが、それでも噂を聞いてガリラヤからエルサレムまでついてきたのです。彼らがどんな様子だったかというとこうあります。
イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。(ヨハネ7章12節、13節)
「群集」はイエス様を追いかけてきたものの、ユダヤ当局者を恐れて「ひそひそ話」をしていました。周囲の目を気にして権威を恐れていたのです。
それから、もともと「エルサレムに住んでいる人たち」で、次回読む箇所にでてきます。
2 宮(神殿)の中で
そういう状況でイエス様は神殿で教えを語られたのです。
祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。(ヨハネ7章14節)
それがあまりにも素晴らしかったので敵対していたユダヤ人たちが驚いてこう言いました。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」(ヨハネ7章15節)「こいつは特定のラビ(指導者)についたわけでもない。ガリラヤの大工のせがれが、なんでこんな教えを権威をもって語ることができるのか」と驚いたわけです。すると、イエス様が大きく三つのことをおっしゃいました。
@みことばの権威の源
イエス様は「みことばの権威」の源をお示しになりました。
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです」(7章16節)
「私は自分勝手に考えたことを教えているのではない。私を遣わした方、父なる神様という最も偉大な方の教えを語っているのだ。」とおっしゃいました。もちろん、イエス様は父なる神と同じ本質をもつお方です。でも、人としての制限の中に生きてくださいました。ですから、いつも父なる神様に祈り、親しく交わり、神様のみ思いを受け取って語られたのです。その証言が、今、聖書として私たちに与えられているのです。だから、神のことばである聖書に権威があるのです。
そう聞くとある人は「いやいや、聖書は神様からって言うけど、ヨハネ、マタイ、パウロ、人が書いているじゃないか」というかもしれません。もちろん、神様は歴史の中で人を通して聖書をしるされました。でも、著者は神様です。
ある学校の先生が生徒に「法隆寺を建てたのはだれか?」と聞いたそうです。すると生徒が「大工たちです。左官です。」と答えました。確かに大工や左官が作ったのですが答えとしては不正解ですね。法隆寺を建てたのは誰か。聖徳太子です。
そのように聖書を実際に記した記者はたくさんいます。いろいろな人が書きました。しかし、それを書かせて内容を正しく守らせ保ってくださったのは唯一の神様なのです。そこに確かな権威があります。その聖書が今私たちの手元にあるのです。それを読み、励まされ、慰めを受けることができるのです。
A「聞き手の姿勢」
二つ目にイエス様はこういわれました。
「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」(ヨハネ7章17節)
ここでは「みことばの聞き方」について語られていますね。どのようにイエス様のことばを聞いたらよいのかということです。注目したいのは「神のみこころを行うなら」ではなく「行うと願うなら」と言われていることです。
イエス様に敵対する「ユダヤ人たち」は、イエス様のことを「ナザレの大工のせがれ、専門的な教育も受けていないやつだ」と決めつけていました。イエス様を馬鹿にし、憎み、敵意を抱いていたのです。そこには「神のみこころを行おうと願う」姿勢はみえませんね。もし、彼らが、素直な心で耳を傾けていたなら、イエス様から「神の子としての権威」を感じ取ったはずです。
皆さん。私たちが聖書を読み理解していこうとするとき、大切なことは「神のみこころを行おうと願う心」です。神様は「わたしの目にはあなたは高価で尊い」とおっしゃるように、私たち一人一人大切にしてくださるお方です。そして、神様のみ思いは、私たちが神様の愛を受け取り、応答すること、その愛によって自分自身を愛するように人々を愛していくことです。
時々、私たちは「神様は人を愛しなさいっておっしゃるけど、できないときもある」と感じることもあります。でも、実際にできなくても「願う」ことはできますね。ですから、「神様、あなたのみ思いを聖書から受け取り生きていきていきたいです」そのように願いながら聖書を読みメッセージを受け取っていったらいいのです。
B語り手の姿勢
イエス様が言われた三つ目は語り手の姿勢です。
「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7章18節)
イエス様はユダヤ人たちに対して「あなたがたは自分から語り、自分の栄光、名誉を求めている。」と指摘されています。自分勝手に自己流で聖書を語ってはいけないということでもありますね。ある聖書注解者がこの箇所をこう解説していました。
「自分の教えや学説、新発見などを一生懸命に語る学者は、おのずから名誉欲に負けてしまって『偽り』や『不真実』が教えの中に入ってしまう。だから、私たちが求めなければならないことは、オリジナルかどうかやクリエイティブかどうかではなく、ただ、唯一の教師である神様と一致するかどうかということである。」
これは特に牧師が気を付けないといけないとこです。だから、もし、私が説教で自分の栄光を求め「今日は今まで誰も見いだしたことがない新しい解釈を語ります!」と言い始めたら注意してください。
聖書は決して自分の栄光を求めて自己流で語るものではありません。もちろん、完全な解釈ができるお方はイエス様お一人です。でも、多くの先人のみことばへの謙虚な姿や努力があります。自分の栄光を求めのではなく、神様の栄光のために決して変わらない主のみことばをまっすぐにできる限り正しく伝えたいという姿勢が大切なのです。
草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。(イザヤ40章8節/口語訳)からです。 そして、同時に聖書のメッセージは、主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(哀歌3章22節ー23節)とあるように、変わらないけれど、語られる度に新しい語りかけなのです。そのような神様のことばをイエス様はご自分の栄光ではなく神の栄光を現すことのみを考えお語りになったのです。
イエス様は神殿で「みことばの権威」「聞く人の心」「語る者の姿」という大切な教えを語られました。
そして、今日の箇所の後半(19節から24節)でイエス様は、ユダヤ人たちに「そのような、わたしをあなたがは、殺そうしている」「それは、わたしが安息日に人を癒したからだ」「しかし、わたしは、決して律法の本質(神様の御心)には反していないのだ」とおっしゃるのです。さらに、そのことを立証するために彼らがよく知っていた「モーセの割礼」を取り上げて話されます。
3 モーセの割礼
イエス様は、こうおっしゃいました。
「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。−−ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです−−それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。」(ヨハネの福音書7章22節ー23節)
「割礼」は、男性性器の包皮を切り取る手術です。ユダヤ人以外でも当時の古代オリエント社会で広く行われていました。「通過儀礼」として、また衛生的な面での意味合いも強かったようです。
モーセは神様の導きで「割礼」を「神様の民として聖なる者とされた」(世から切り離された)という意味で用いて生まれて八日目の男の子に施しました。「体の一部を切り取る」ことで、「神の民」とされて人生をスタートすることの印としたのです。
ちなみに「割礼」はイエス様がおっしゃっているように「モーセの律法」よりも前から行われていました。父祖アブラハムからです。ですから、例えば生まれた男の子の八日目が安息日であれば「割礼」を優先していたわけです。
つまり、ここでイエス様がおっしゃっているのは、「あなたがたも、『安息日』よりも優先しておこなうことがあるでしょう?」という指摘です。
「あなたがたは『割礼』を守っています。『体の一部を切り取る』ことで『神様の民とされている』ことの『しるし』として『割礼』を大切にしています。だから『安息日』にもそれを行っているでしょう。」
「まして、私は『体全身を癒して、罪をきよめ』、『神の民』とされて『新しい人生』を出発させることの『しるし』として、『神様のわざ(癒し)』を行ったのです。それは『安息日』よりも優先されないのですか?」
そう言ってイエス様は「わたしは律法破るどころか、その本質、神様の御心を行っている」という宣言しておられるのです。
そして、7章24節でこう締めくくられています。
「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7章24節)
ここでの「さばく」は「判断する」という意味です。原文には「人」ということばがないので、直訳で「表面的に判断するのでなく、正しく判断しなさい」とも訳せます。
当時の、ユダヤ人たちは律法を表面的にとらえて「安息日には何の仕事もしてはならない。これをしてはならない。あれをしてはならない。」と細かい規則を作り上げて人々を縛っていました。律法の本質、神様の思いからずれていたのです。
安息日本来の目的は人を解放し人に安息を与えるものです。神様の恵みと祝福を受け取る日です。ですからイエス様が、病で苦しむ人を癒し真の安息を得させてくださったことは、安息日の本来の目的にかなったことだったのです。
イエス様が言われた、「うわべで判断せず、正しい判断をしなさい」は、つまり「神様の律法を、そこに込められている神様の愛を土台として読み理解しなさい」ということですね。
そして、皆さん。それは、今、私たちが聖書を読み、聖書からの説教を聞く上でも大切なことですね。聖書の中心は「神は愛です」(1ヨハネ4章16節)とある通り、父なる神様の愛です。そして「この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1章14節)とある通り、イエス様の豊かな恵みです。
聖書のどこを切リとっても、この父なる神様の愛とイエス様恵みが、聖霊によって流れてくるのです。神様が聖書を通して私たちに伝えておられるメッセージは、父なる神様の広く深く大きな愛、そして、イエス様の豊かな恵み、聖霊の親しい交わりです。それを受け取り、味わい、感謝しつつ、今週も歩んでいきましょう。