城山キリスト教会説教
二〇二五年五月一一日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書七章二五節〜三六節
 ヨハネの福音書連続説教25
  「今しばらくの間」
 
 25 そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。
26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。
27 けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」
28 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。
29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」
30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。
31 群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか。」
32 パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。
33 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
34 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
35 そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。
36 『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書7章には、ユダヤ三大祭の一つ「仮庵の祭り」の時に起こった出来事が書かれています。
 この時、エルサレムには大勢の人が集まっていました。イエス様の時代のエルサレムの人口については、諸説ありますが、およそ5万人くらいだったと言われています。そして、祭のときには10倍以上の人々、数十万人が集まったと考えられます。
 「仮庵の祭り」は、ユダヤの人々にとって「救い主の到来」を待ち望むお祭でもありました。初日には旧約聖書のゼカリヤ書から「救い主」に関する箇所が朗読されたのです。
 ですから、ガリラヤでイエス様の周囲にいた人々、特に兄弟たちは「兄さん、今こそ、ご自分を世に示す絶好の機会です」とイエス様に勧めました。でも、イエス様は「今は、まだ、わたしの時ではない」とおっしゃいました。イエス様は「救い主」としてご自身を表す「時」、「十字架と復活」のみわざをなさる「時」はまだなのだとおっしゃったのです。
 そして、イエス様は「公に」人々と一緒にではなく、いわば「内密に」エルサレムに上られました。十字架のみわざはまだ先なのですが、この祭のときにもイエス様は人々にお語りになりたいメッセージがあったのです。
 前回は、そのようなイエス様が祭の中頃に、宮(神殿)に入られて「教え」を語られた箇所を読みましたね。今日の箇所には、その「教え」を聞いていた「エルサレムの人たち」の反応が書かれています。ご一緒に見ていきましょう。
 
1 「エルサレムの人たち」の反応
 
 このとき、イエス様の周りには大きく分けて三種類の人々がいました。
 第一に、「ユダヤ人たち」と呼ばれる宗教指導者たちです。彼らはイエス様を憎み殺そうとしていた「祭司・律法学者・パリサイ人」たちです。
 第二に、「群衆たち」と書かれている人たちです。彼らはイエス様と同じガリラヤ地方からエルサレムに巡礼に来ていた人々です。彼らの中にはイエス様に好意をもって追いかけてきた人々もいました。
 そして、第三は、今日出てくる「エルサレムの人たち」です。彼らは神殿のお膝元であるエルサレムに住んでいた人たちです。彼らはイエス様が神殿で語っておられる姿をみて思ったのです。
 「この人は、彼ら(ユダヤ指導者たち)が殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。」(ヨハネ7章25節、26節)
 エルサレムの人々は指導者たちのイエス殺害計画の噂を聞いていたのです。だから、「イエスが公然と語っているのに当局者は何も言わない。ということは、この人がキリスト(メシヤ)だとみとめたのだろうか」と考えました。でも、すぐにその考えを打ち消します。「いやいや、そんなはずはない。」「私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」(ヨハネ7章27節)と言ったのです。
 彼らがそう考える背景にはいくつかの理由がありました。
 
(1)「キリスト(メシヤ)はベツレヘムから出るという預言」
 
 旧約聖書のミカ書に「イスラエルの支配者になる者(メシヤ)はベツレヘムから出る。」(ミカ5章2節)という預言が書かれています。そして、その預言の通りイエス様はベツレヘムでお生まれになりました。しかし、そのことは一般には知られていませんでした。なぜなら、イエス様の両親はヘロデ王の手を逃れてエジプトに避難したからです。そして、ヘロデの死後にイエス様一家はガリラヤのナザレに住むようになったのです。ですから、人々はイエス様をガリラヤ出身だと思っていました。そんなイエスが救い主であるはずがないと考えたのです。
 
(2)「隠れたるメシヤ(救い主)という思想」
 
 また、もう一つ「隠れたるメシヤ」という考えがありました。ユダヤ教の書物「タルムード」という教えの中にこんなことが書かれているのです。「三つのものは気付かぬうちにくる。一つは『メシヤ』、二つは『神から遣わされる者』、三つは『さそり』である」 要するに「メシヤ(救い主)は、ある日、突然に、公にあらわれる」という理解です。ユダヤ人たちは「メシヤ(救い主)は、人知れず存在し隠れている。それがある時、神秘的な神々しい姿で現れるのだ」そういう思想を持っていたのです。「だから、これにイエスは当てはまらない。イエスの素性は割れている。ガリラヤのナザレ出身の大工だ。今は旅回りの説教者のようなことをしている人物だ。そんな人物がメシヤ(救い主)のはずはない」と考えたのです。
 彼らには自分たちが考える華々しい「救い主」像があって、それに当てはまらないイエス様を受け入れることをしなかったのです。
 
2 イエス様の対応
 
 さあ、そのような「エルサレムの人々」にイエス様はどう対応されたでしょうか。
 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。」(ヨハネ7章28節)
 この「大声を上げて言う」は「クラゾー」という言葉で、「叫ぶ」「悲鳴を上げる」と訳されるとても感情的なことばです。目の見えないバルテマイのイエス様への「ダビデの子よ、あわれんでください」という叫びや、イエス様が裁判かけられたとき、総督ピラトに対して「イエス様を十字架につけろ!」と叫んだのとの同じことばです。そんな風にイエス様は叫び声をあげて反論されたのです。
 私たちはイエス様のイメージをやさしくて穏やかと考えるかもしれません。もちろん、イエス様は愛に満ちた、優しいお方です。でも、時には感情的に怒り、怒鳴ったときもります。また宮で大立ち回りしたこともあるのです。
 イエス様は「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。」と叫ばれました。これ疑問文として以下のように反語的に訳すこともできるのです。
 「あなた方はわたしがどこから来たかを知っているというのか?しかし、わたしが本当はどこから来たか、あなたがたが知っているはずがないではないか?」「わたしは、あなたがたが考えているように、自分で来たのではありません。父なる神から遣わされたのです。あなたがたは、その方を知らないのです。」
 イエス様は彼らの心の態度、「私たちは、神様の住まいである神殿のお膝元エルサレムに住んでいるだから。神様のことも、救い主のこともよく知っている。お前のようなガリラヤの田舎に住んでいて、年に何度かしか都に上ってこないやつが何をいっているのだ。私たちは、律法学者ほどじゃないにしろ、少なくともお前よりは知ってる!」そんな傲慢さに対して「その思いこそが、あなたたちを盲目にし、神様の御心から離れているのです。」とご指摘なさっているのです。
 さらにイエス様はこうおっしゃいました。
 「わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」(ヨハネ7章29節)
 ここでイエス様は、「わたしは父なる神様を知っている!わたしはその方もそばにいて、その方がわたしを遣わしたのです」と宣言なさっているのです。
 みなさん。イエス様は、神と等しいお方、神から遣わされたお方、「わたしは神を知っている」とおっしゃるお方です。そのイエス様によって、私たちもまた神様を知ることができるのです。イエス様がなされたみわざを通して、神様がどういうお方かを知ることができる、イエス様が語られたことばを通して、神様の私たちへの声をきき、御思いを知ることができるのです。
 讃美歌の121番に、イエス様の生涯が歌われた「まぶねのなかに」という賛美がありますね。
 
 「まぶねの中に」
 まぶねのなかに うぶごえあげ 
 木工(たくみ)の家に人となりて
 貧しきうれい 生くるなやみ 
 つぶさになめし この人を見よ
 食するひまも うちわすれて 
 しいたげられし ひとをたずね
 友なきものの 友となりて 
 こころくだきし この人を見よ
 すべてのものを あたえしすえ 
 死のほか なにも むくいられで
 十字架のうえに あげられつつ 
 敵をゆるしし この人を見よ
 この人を見よ この人にぞ 
 こよなき愛は あらわれたる
 この人を見よ この人こそ 
 人となりたる 活ける神なれ
 
 皆さん、父なる神様は目に見えないお方です。しかし、「この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ」とあるように、イエス様を通して私たちは神様を見ることができる、聖書を通してイエス様のことばを聞き、私たちを愛してくださる神様を知ることができるのです。
 
3 「群衆」と「ユダヤ人の宗教指導者たち」
 
 イエス様と「エルサレムの人たち」との対話に反応した人々がいました。「群集」と「ユダヤ人の宗教指導者たち」です。
 
 @「群集」
 
 彼らはどう反応をしたでしょうか。こうあります。
 「群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。『キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか。』」(ヨハネ7章31節)
 「群集」は、ガリラヤからイエス様についてきた人たちです。この時点ではイエス様が「十字架と復活」によって本当の意味での「救い」をもたらすお方であるという理解はありませんでした。でも、彼らはイエス様のみわざを見、教えを聞き「この方が『救い主』なのではないだろうか。この方、以上のしるしを行う方はいないのではないだろうか。」と思ったのです。彼らは「ユダヤ指導者」よりも無学でした。「エルサレムの人たち」よりも、神殿から遠かった人たちです。でも、イエス様に素直に応答したという意味においては他の誰よりもイエス様に近いと言えますね。彼らの姿からイエス様に単純に応答することの大切さを教えられますね。
 
 A「ユダヤ人の宗教指導者たち」
 
 それとは対象的に宗教指導者たちはこう反応しました。
 「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。」(ヨハネ7章32節)
 イエス様に対する人々の好意的な反応を察知した宗教指導者たちは「イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした」のです。
 するとイエス様は彼らにこう言われました。
 「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ7章33節、34節)
 ここで、イエス様は二つおっしゃっていますね。
 
(1)「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。」
 
 これから後に起こる「十字架と復活と昇天」を予告しておられます。そして、もう一つ。
 
(2)「あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
 
 どういうことかと言うと、「あなたは今、わたしを捕らえにきているが、いずれ、わたしにしか与えることのできないものを得るためにわたしを捜すときがくるでしょう。しかし、そのときには、もう、わたしはあなたの手の届かないところに行ってしまっているのです」という意味です。
 こう聞くと少しイエス様が彼らを突き放しているように感じるかもしれません。でも、ここにはイエス様の彼らに対するみ思いがこめられているように思うのです。なぜなら、イエス様は、最初に「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいる」といわれましたね。別の訳では「今しばらくの間、わたしはあなたがたとともにいる」とも訳されます。つまり、イエス様は「今しばらくの間、わたしがいる」この「今」、「どうか心を開いて私を信じて欲しい」「先延ばしにしないでほしい」と願っておられるように思うのです。
 どんなに「ユダヤ指導者たち」がイエス様に敵対しても、どんなに、「エルサレムの人々」がイエス様を見下しても、たとえ「群集」のように不十分な理解であったとしても、イエス様は「今、わたしを信じて欲しい」そう願ってくださるのです。
 旧約聖書のイザヤ55章6節に、こう書かれています。
 「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(イザヤ55章6節)
 ヘブル4章7節にも、こうあります。
 「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル4章7節)
 もちろん、聖書は全体を通して、誰でもいつでも主に向くなら主にお会いできると約束しています。そして、同時に聖書は「いずれまた後で」「また次の機会に」と言って先延ばしにせず、「今」主に応答しなさいとも勧めているのです。
 幸いここにおられる多くの方は、すでにそれぞれの「今」という「とき」にイエス様を信じられましたね。だからこそ、今朝もこうやって礼拝しているのです。
 そして、もし、今日この中で「キリスト教は良いとは思うのだけれど、イエス様を信じるのはまた今度にしよう」「洗礼をうけるのはもうし少し先で」そう思っておられる方がおられたら、ぜひ先伸ばしにせず、「今」「今日」という日にイエス様を心にお迎えしていただきたいのです。なぜなら、イエス様は素晴らしいお方だからです。このお方とともに歩む日々を先延ばしにするのはあまりにももったいないからです。
 今日の箇所の最後を読むと、残念ながらユダヤ人たちはイエス様のことばを理解できず勝手な解釈をしています。
 「私たちには、見つからないという。・・・まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」(ヨハネ7章35節、36節)
 「離散している人々」というのは、外国に住んでいるユダヤ人のことです。つまり彼らはこう考えたわけです。
 「イエスは、イスラエルに住んでいる、われわれ正統的なユダヤ人には受け入れられないから、『しかたがない、外国のユダヤ人(それがだめなら異邦人)のところに行って布教しよう』というのだな。こいつ汚れた異邦人のところにいくから、『わたしがいる所に、あなたがたは来ることができない』といっているのだな。」
 彼らのことばの背後には「イエスなど私たちには必要ない。私たちは神を知っている。神に選ばれているのだ。」「イエスの教えは離散した者や異邦人にしか受け入れられない程度の低い教えだ。」という心の態度が見えますね。
 でも、皆さん。神様のなさることは不思議ですね。その後の歴史を見ると、彼らがいったように「福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ」(マタイ24章14節)たのです。「離散した人々」や「異邦人」の間に宣べ伝えられていったのです。この時、ユダヤ人指導者たちが言った言葉が、そのまま預言として実現し、素晴らしいイエス様の福音が全世界へと届けられていったのです。そして、今、この福音が、イエス様の救いが私たちにも届けられ、私たちはその救いの喜びの中に生かされているのです。その恵みに心から感謝しつつ、この週もご一緒に歩んでまいりましょう。