城山キリスト教会説教
二〇二五年六月一日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書七章三七節〜三九節
 ヨハネの福音書連続説教26
  「生ける水の川」
 
 37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書7章「仮庵の祭り」での出来事を読んでいます。このお祭りには、大きく二つの意味があったことをお話してきました。
 
<仮庵の祭りの意味>
 
 一つは、「荒野での神様の守りを感謝するとき」でした。
昔、ユダヤ人の先祖がモーセに導かれてエジプトを脱出し約束の地に向かって荒野を旅しました。そのとき、彼らはテント(仮庵)で生活しました。神様は彼らの荒野での生活を守ってくださいました。ですから、祭の期間、木の枝や葉っぱで作った仮庵(仮の住まい)で過ごしながら神様の守りを覚えて感謝をささげたのです。
 もう一つは、「収穫の恵みを感謝するとき」でした。この祭りは秋に行われ、穀物や果実の収穫を感謝する収穫感謝祭の意味もあったのです。
 そして、実は、この祭にはもう一つの意味がありました。それは、「水を求めるとき」(雨乞いの祭り)だったのです。
 エジプトを出て荒野を旅したイスラエルの民が、まず必要だったのは喉の渇きを潤す水でした。彼らはエジプトを出てから三日目には、もう喉が渇いて文句を言い始めたのです。「マラ」というところに来ると、そこに水があったのですが、飲んでみるとその水は苦くてとても飲めたものではありませんでした。民の不満は頂点に達しました。その時、モーセが神様に叫ぶと一本の木を示されたので、モーセがその木を水に投げ入れると、なんと水が甘くなって飲めるようなったのです。彼らは喉の渇きが癒されて進んでいきました。しばらく進むと、神様が「エリム」と呼ばれる、十二の泉のあるオアシスに導いてくださったのです。その水のほとりで、彼らはしばらく滞在して渇きと疲れを癒すことができました。さらに旅を続けていくと、やっぱり喉が渇きますよね。彼らは「ああ、のどが渇いた!」「のどが渇いた!」と文句を言い始めました。そして、「レフィディム」というところに来たとき、もう我慢ができなくなってモーセに怒りをぶつけました。「水がほしい!なんとかしろ!」と。そのとき、神様がモーセにおっしゃいました。「杖で岩を打て」。モーセがその通りに杖で岩を打つと、なんと岩から水が流れ出てきたのです。
 このように主なる神様はイスラエルの民が荒野を旅する間、必要な水を与え続けてくださったのです。ですから、この「仮庵の祭り」の時にも、イスラエルの民は自分たちの生活が守られるように、作物をつくるために十分な水があたえられるように、神様に「水を求める儀式」をおこなったのです。
 
<仮庵の祭りの「水を求める儀式」>
 
 どんな儀式だったかというと、祭の期間、毎朝、祭司を先頭にした行列がエルサレムの南東にあるギホンの泉まで下って水を汲みにいきまました。祭司が泉から「黄金の水差し」で水を汲み、皆が「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ」(イザヤ12章3節)というイザヤ書の言葉を合唱します。それから、行列は神殿に戻って祭壇の回りを一周してから、祭壇の西の隅に設けてある銀のじょうごのような形の場所に取ってきた水を注ぎ込みます。どんな意味があったかというと、この水が祭壇の下の地下に沈んでいって地下の淵に達して、その淵が動いて天から雨が降ると考えられていたのです。
 彼らは祭の間、毎朝、その儀式を行ったのです。そして、最終日「祭りの終わりの大いなる日」には、祭壇の回りを七回巡ることになっていました。神殿には大勢の人が集まっていたでしょう。祭の盛り上がりが最高潮に達したときです。イエス様が立ち上がって大声で語られたのです。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7章37節-38節)
 イエス様は、祭りの中で水を熱心に求める人々に向かってこう言われたわけです。「皆さん、あなた方は、熱心に渇きを満たす水を求めてエルサレムにやってきましたね。でも、皆さんにお伝えしましょう。渇いている人は、わたしのもとに来て飲みなさい。そうすれば、あなたの心の奥底から生ける水の川が流れ出てくるようになるのです」
 今日は、イエス様が語られたこの言葉にから三つのことをご一緒に考えていきましょう。
 
1 「だれでも渇いているなら」
 
 イエス様は、「だれでも渇いているなら」(ヨハネ7章37節)といって招いておられます。
 皆さん。「水がおいしい」と感じるのはどんな時ですか。熱い中、作業した後に飲む水。温泉にいってサウナで整った後に飲む水。スポーツをした後の水。私は中高生の頃、バスケットボール部に所属していました。当時は、まだ「水をの飲ませない」という指導が当たり前でした。練習が始まって数時間たった頃にやっと水が飲めるのですが、その前にフリースローをいう練習をして、2本連続でシュートが決まった人から水を飲みにいくのです。この時の集中力はすごかったです。そして、二本入ったときの喜びは言いようがありません。水道までダッシュして水を飲んだときのおいしさは忘れられません。でも、喉が渇いていないときはただの水道水ですから、別に美味しいとも飲みたいとも思いませんよね。渇いているから美味しいのです。人は「渇き」を感じなければ、水を求めようとはしません。「渇いている」という自覚が大切なのです。
 そして、聖書は、人には肉体の渇きだけでなく、心の渇き、人生の渇きがあると教えています。ヨハネの福音書4章には、サマリヤの女性がイエス様と出会った記事が書かれています。イエス様が井戸のかたわらに腰掛けておられました。暑い真っ昼間でしたが一人の女性が水を汲みにやって来ました。イエス様は彼女に言われたのです。
 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4章13節、14節)
 イエス様は彼女の心の渇きをご存じでした。彼女は人間関係に困難を感じていました。結婚、離婚を繰り返して周囲からはふしだらな女として、白い目で見られていました。心が渇いていたのです。もしかしたら、その渇きも当たり前すぎて渇きを感じないほどだったかもしれません。しかし、彼女はイエス様と出会って「渇き」を自覚し、しかも、「このお方が私の人生の渇きを癒すことのできる方」だと知ったのです。
 また、3章では、ニコデモという老人がイエス様に会いに来ました。彼は社会的に大変立派な人で人々に尊敬されていました。それでも、彼も人生の「渇き」を覚えていました。どういう「渇き」だったというと「自分は年をとっている。このまま人生が閉じてしまったら、自分は神様に受け入れてもらえるのだろうか、天国にいけるのだろうか、永遠の問題に対する答えが欲しい」そのような「渇き」でした。だから、ニコデモはイエス様のもとへ「渇き」の癒しを求めてやって来たのです。
 マタイの福音書11章28節で、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11章28節)と言われました。今日のことばを用いるなら「誰でも渇きを覚えている人は、わたしのもとに来なさい。わたしが渇きを癒してあげます」という招きでもありますね。
 どんな人も皆、自分自身を正直に見つめるとき、自分ではどうすることもできない渇きのような問題を抱えています。「自分は何のために生きているのか」「人生はどこに向かうのだろうか」「死んだらどうなるのだろう」「自分は愛されているのか」「自分の心の罪は赦されるのか」そのような「渇き」を、みんなもっていると聖書は指摘します。
 だから、イエス様は「だれでも」とおっしゃったのです。「祭の終わりの大なる日」に大声で叫ばれたイエス様の招きは、全ての人に向けられているのです。
 
2 「わたしのもとに来て飲みなさい」
 
 そして、二つ目にイエス様は「わたしのもとに来て飲みなさい」とおっしゃいました。「飲みなさい」は「信じる」と同じ意味です。イエス様を信頼し、自分の人生の主としてお迎えして生きるということです。ヨハネの福音書6章でも同じ意味のことが語れましたね。「いのちのパンを食べる」という表現です。それは「イエス様を信じる」という意味です。ヨハネの福音書には「水を飲む」とか、「いのちのパンを食べる」とか、「イエス様のもとに行く」という表現が使われますが、これは全て「イエス様を信じる」「イエス様を信頼して生きる」という意味なのです。
 でも、皆さん。そう聞くとこう考える人がいるかもしれませんね。「うっかり飲んだら、食べたら、後で多額の請求書が来るんじゃないか?何か要求されるじゃないだろうか?」安心してください。イエス様を「信じる、食する、飲む」ということに関して聖書はこう言っています。
 ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。(イザヤ55章1節)
 「全部、無償、タダ!」という宣言です。イエス様は、私たちに代価を要求するようなことはなさいません。「献金して、奉仕をして、あれをして、これをして」など一切ありません。「誰でも、渇いている人は、来て飲みなさい」イエス様の与える救いは無償「タダ」なのです。皆さん。都合が良くないですか。そうです。都合がいいのです。それを聖書は「恵み」と呼んでいます。エペソ2章にはこうあります。
 「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」(エペソ2章5節)
 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2章8節)
 賜物、つまり無償のプレゼントなのです。恵みです。だから「良い知らせ」「福音」なのです。
 皆さん。信仰に生かされるというのは、自分では到底受けることのできない「いのちの水」をタダで飲むことです。自分では決して手に入れることのできない「救い」を無償で受け取ることです。私たちはそれを「ありがとうございます」と受け取り、感謝して生きていくだけでよいのです。イエス様はそれを喜んでくださいます。だから「わたしのもとにきて飲みなさい」と大声で招いてくださったのです。
 
3 「生ける水の川が流れ出る」
 
 そして、三番目にイエス様は、こうおっしゃいました。
 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネの福音書7章38節)
 「生ける水の川が流れ出るようになる」というのは、つまり、イエス様の与えてくださる水はその人自身の渇きを癒すとともに、その人の内側から湧いてきて川のように流れ出るようになるというのです。つまり、その人の周囲も潤すようになっていくという約束です。
 そのことについて、イエス様は「聖書が言っているとおりに」と言われていますね。これは、「旧約聖書に書かれている通り」「神様が旧約聖書において約束している通り」という意味です。
 それでは、旧約聖書にはどのような約束があるのでしょうか。イザヤ書43章20節にはこうあります。
 「わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」(イザヤ43章20節)
 これは、神様ご自身が荒野に水をわき出させるという約束です。しかも、川の流れのような豊かな水を与えてくださり、飲ませてくださるというのです。
 同じイザヤ書の58章11節の後半には、主を信じる者について「あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる」(イザヤ58章11節)とあります。
 また、エゼキエル書47章には「生ける水の川」について預言されています。
 あるとき、神様が預言者エゼキエルに幻を見せてくださいました。どのような幻かというと、神殿の敷居の下から水が流れ出てくるのです。その水は始めは小さな川のように流れて足首までの深さでしたが、次にひざに達し、さらに腰までの深さになり、最終的に泳げるほどの豊かな流れになったのです。そして、川の流れはアラバの海(死海)にまでたどりつくのです。ご存じのように死海は塩分濃度が高くて魚が生息できない場所です。しかし、神殿から流れ出た水が流れ込むと、その水が良くなり(原文では「癒されて」)多くの魚が住むようになるというのです。エゼキエル47章9節にはこう書かれています。
 「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」(エゼキエル47章9節)
 イエス様は、このような旧約聖書においてすでに約束されている、神様が与えてくださる豊かな水をさして、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネの福音書7章38節)とおっしゃったのです。
 「水の川」です。「水の池」でもなく、「たまった水」でもなく「川」なのです。つまり流れがあるのです。皆さん。私たちの目は、何故、涙が出るのでしょうか。それは渇いたらいけないからです。いつも涙によって潤って水分が流れていないと目が機能しないからです。私たちの人生もそれと同じように、神様の「いのちの水の川」の流れがないと渇いてしまうのです。だから、イエス様が与えてくださる「いのちの水の川」が必要なのです。
 川の流れ(水の流れ)は汚いものを流してくれますね。新鮮さを運んでくれます。「流れている水」、「新鮮な水」、イエス様は私たちの人生にそのような潤いを与え続けてくださるのです。すごいですよね。そんな水があるなら欲しいですよね。
 では、その水は一体何なのかというと、続く39節でこう解説されています。
 「これ(生ける水の川)は、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊(聖霊)のことを言われたのである。」(ヨハネの福音書7章39節)
 つまり、イエス様が与える「生ける水の川」、それは私たちイエス様を信じる者の内側から溢れる「聖霊」なのだと説明されています。「聖霊」は「父なる神」と「御子なるキリスト」と同じ本質を持つ「三位一体」なる神様です。
 聖書は、イエス様を信じる者に「聖霊」が与えられる、私たちの内に聖霊住んでくださると約束しているのです。ですから、私たちは神の宮(神殿)とされているのです。
 そして、39節の後半には、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊(聖霊)はまだ注がれていなかったからである」と書いてありますが、この「栄光を受ける」というのは「十字架と復活のとき」です。イエス様が十字架上で死んで、葬られ、三日目によみがえる「時」です。よみがえられたイエス様は弟子たちに現れて、こう約束なさいました。
 「わたしは、まもなく天に昇りますが、わたしの代わりにもう一人の助け主である聖霊を送ります。その聖霊は、いつもあなた方とともにいて、あなたがたに永遠のいのちを与え、助け導き、すべてのことを教えてくれます」
 使徒の働きを読むと、このイエス様のことばの通り、弟子たちに聖霊が注がれました。彼らは聖霊の力によって、まるで川の水が溢れ流れ出るように、イエス様の救いを、イエス様の福音を、世界中に宣べ伝えていったのです。
 そして、その福音を聞いて信じた一人一人にも聖霊が与えられ、その人々を通して、イエス様が伝えられ、2000年の時と場所を経て、今、私たち一人一人にも同じ福音が届けられたのです。そして、私たちにも同じ聖霊が与えられているのです。
 その聖霊は、まさに「生ける水の川」のように、私たちにいのちを与え、神様の愛を注ぎ、イエス様の恵みを豊かに味わせてくださるのです。
 そして、その川の流れは、私たちの内にとどまることなく、私たちの周りにも川のよう流れ出ていくのです。でも、それは決して私たちの努力ではなく、私たちの状態によるのもはなく、聖霊なる神様ご自身が、私たちを通して豊かに働いてくださるのです。神様の愛をイエス様の恵みを流してくださっているのです。
 だから、私たちはただ「イエス様ありがとうございます。」そう告白し、内におられる聖霊の流れに安心して身をゆだねて、歩んでゆけば良いのです。
 イエス様は、大声で言われました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 私たちの内におられる聖霊は、豊かに流れる川のように、私たちの淀んだものを流してくださるお方です。いつも新鮮な潤いを、新しい命をあたえてくださいます。そのお方にどっぷりと浸って、大いに賛美し祈り、主を礼拝しながら、歩んでゆきましょう。