城山キリスト教会説教
二〇二五年六月八日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書七章四〇節〜五三節
 ヨハネの福音書連続説教27
  「イエスはキリスト」
 
40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ」と言い、
41 またある者は、「この方はキリストだ」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。
44 その中にはイエスを捕らえたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
 45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」
53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書7章「仮庵の祭り」での出来事を読んでいます。前回はイエス様が「仮庵の祭り」の最終日に大声で叫ばれた言葉をご一緒に考えました。
 仮庵の祭りにはいくつかの意味がありました。
 一つは、ユダヤの先祖たちがエジプトを出て荒野を旅する間、神様が守り導いてくださったことを覚え感謝をささげる祭りでした。また、秋の収穫を感謝する祭りでもありました。さらに、前回ご紹介したように、水の祭りとも言われ、日々の生活や作物のために「水を求める儀式」が行われました。
 どのような儀式だったかというと、祭りの一週間、毎朝、祭司を先頭にした行列がエルサレムの南東にあるギホンの泉まで下っていきます。そこで、祭司が黄金の水差しで泉の水を汲み、行列は神殿に上って祭壇の回りを一周します。祭壇の西の隅には銀のじょうごのような形の場所があり、そこに水をそそぎ込むのです。その水が地下に沈んで淵にまで達し、その淵が動いて、天から雨が降ると考えられていたのです。
 そして、「祭の終わりの大いなる日」と呼ばれる最終日には、祭壇の回りを七回まわることになっていました。そのようなとき、人々の盛り上がり最高潮に達したときに、イエス様は立って群衆に向かって大声でこう語られたのです。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章37節、38節)
 つまり、イエス様は、こう言われたわけです。「皆さんは、熱心に渇きを満たす水を求めてこのエルサレムにきています。でも、皆さんにお伝えしましょう。どんな人も、渇いていなら、わたしのもとに来て飲みなさい。あなたの心の奥底から生ける水の川が流れ出てくるようになるのです。」
 そして、続く39節には「生ける水」について次のよう解説されています。
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。(ヨハネの福音書7章39節)
 皆さん。イエス様が与えてくださる「生ける水」は、私たちイエス様を信じる者の内に宿ってくださっている御霊(聖霊なる神)のことです。
 イエス様は十字架と復活の後、弟子たちに現れて、こう約束してくださいました。
 「わたしは、まもなく天に昇りますが、わたしの代わりにもう一人の助け主である聖霊を送ります。その聖霊は、いつもあなた方とともにいて、助け導き、すべてのことを教えてくれます。」
 この約束の通り、イエス様の復活から50日後、弟子たちに聖霊が注がれました。そして、弟子たちは聖霊に押し出されて、イエス様の十字架と復活を世界中に宣べ伝えていったのです。使徒の働き2章に書かれている「ペンテコステ」の出来事です。
 今日は、教会暦では「ペンテコステ」聖霊降臨日です。イエス様の約束の通り、聖霊が来て下さったことを覚え、感謝する日です。皆さん。聖書に書かれている通りに聖霊がきてくださったから、怯えていた弟子たちが力強く福音を宣べ伝えました。それを聞いて信じた人に聖霊が与えられ、その人を通して福音が宣べ伝えられ、その福音が伝えられ、伝えられて、伝えられ、そして、二千年以上の時と場所を経て、私たち一人一人にも届けられました。そして、私たちもイエス様を主と信じ告白しましたね。ですから、今私たちの内にも同じ聖霊が宿ってくださっているのです。聖霊は、いつでも、この礼拝の中でも、私たちに新鮮な潤いを与えてくださいます。父なる神様の愛とイエス様の恵みを味合わせてくださるのです。そのような「生ける水の川」の流れの中に、私たちは今日も生かされて礼拝をささげているのです。
 
 さて、今日の箇所に入っていきますが、イエス様のことばを聞いた人たちの中には「こいつは何いっているのだ」と思った人もいたでしょう。でも、イエス様に対する肯定的な反応もいくつかありました。
 
1 イエス様への肯定的な反応
 
(1)「あの方は、確かにあの預言者なのだ」
 
 40節にあるように、群衆のうちのある者たちは「イエスは、あの預言者だ」と言ったのです。
 「あの預言者」とは誰のことでしょうか。今の私たちはピンと来ませんが、当時のユダヤ人はすぐにわかりました。旧約聖書の申命記18章18節に、神様がモーセにお語りになった次のような言葉が記されています。
 「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」(申命記18章18節)
 ここでは、「あなたのようなひとりの預言者」とあります。モーセはイスラエルにとって最も偉大な預言者です。ユダヤ人たちは、そのようなモーセのような預言者を待ち望んできました。つまり、「イエスこそ、モーセのような偉大な預言者に違いない」と思ったということなのです。
 
(2)「この方はキリストだ」
 
 二つ目の反応は、41節の「この方はキリストだ」というものでした。「イエスは単なる預言者ではない。私たちを解放してくれる救い主だ」という意見です。もちろん、彼らの救い主の理解は、当時、支配されていたローマからユダヤを解放し、昔のように国を再興してくれる英雄としての「救い主」です。それでも肯定的な反応ですね。
 
(3)「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」
 
 三つ目は、46節に書かれていますが、イエス様を捕らえるために当局者から送られた役人の反応です。彼らは、前々回に出て来ましたね。祭の中盤に神殿で教えを語っておられたイエス様を捕らえようと、祭司長やパリサイ人たちが派遣した役人たちです。でも、イエス様の言葉を聞いた役人たちは「この方は、普通の人ではない。特別な方だ。」と好意的に受けとめたのです。イエス様を捕らえないで、祭司長、パリサイ人たちに報告しました。
 
2 宗教指導者たちの態度
 
 当然、宗教指導者たちは怒りますね。「お前達はいったい何をいっているのだ!」「何が、イエスは、あの預言者だ。キリストだ。そんな訳がないではないか」即座に否定しました。でも、その時、パリサイ人の一人が口を開いたのです。ヨハネの福音書3章に出て来たニコデモです。彼は、夜こっそりイエス様に会いに来た人物です。
 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか」(ヨハネ7章51節)
 つまり、「イエス本人から、ちゃんと聞きもしないで判断を下すということは、それ自体が律法違反でしょう」と言ったわけです。しかし、他のパリサイ人たちは聞く耳を持ちませんでした。彼らは、イエス様に対する好意的な声を全て否定したのです。
 皆さん。このような宗教指導者たちの態度は、どこから来ているのでしょうか。何が原因だったのでしょう。
 
(1)高慢な態度、権威主義
 
 この時、彼らは「律法を知らないこの群衆は、のろわれている」(ヨハネ7章49節)とまで言っています。「私は聖書を知っているが、お前たちにわかるはずがない」というような「高慢な態度」です。「何も分かってないお前たちに、どうして私が教えられないといけないのか」という誤った「権威主義」です。
 でも皆さん、これは、いつの時代でも教会の中にいつのまにか入り込む危険性がありますね。
 たとえば、牧師が「私が一番良く知っている。私に反発するなんてけしからん」そのように言ったり、誰かが牧師に助言しようとしても耳を貸さずに、かえって「あの信徒は高慢だ」と非難をしたり、自分自身に従わせようとするなら、それは間違った態度です。イエス様の心ではありません。
 また、クリスチャン同士であっても「私の方がよく知っている」「私の方が信仰生活が長いから、正しいに決まってる」そのような態度をもってしまうことがあるかもしれません。
 皆さん。イエス様は「わたしは、良い羊飼いです」(ヨハネ10章11節)とおっしゃいました。イエス様は、決して権威で縛るお方ではありません。羊のために命を捨ててくださるほどのお方です。そして、私たちはみんな、良い羊飼いであるイエス様のもとで等しい存在です。特定の誰かだけが特別なのではありません。信じる人は皆、イエス様の羊なのです。それぞれに与えられている役割に違いがあるだけです。
 聖書の中に、一つの良い例が登場します。
 使徒の働き18章に、アレキサンドリア出身のアポロという人です。彼は、旧約聖書をよく知っていました。頭が良く雄弁で各地をまわってイエス様のことを伝えていました。けれども、どうやら、その説教には足りないものがあったのです。アポロは人々に悔い改めの必要を一生懸命に説教するのですが、悔い改めた後の信仰生活について、つまり、「イエス様を信じる者には聖霊が住んでくださり、いつも共にいて助けてくださる」という、そのような「安心の中で生きることができる」ということについて、はっきりと語ることができていなかったようです。
 あるとき、プリスキラとアクラというクリスチャン夫妻がアポロの説教を聞いたのです。そして、彼を招いて「神の道をもっと正確に説明した」というのです。考えてみてください。一方は、アレキサンドリアという学問の都の出身で、頭の切れる雄弁なアポロですよ。そんな彼に「テント職人」であったプリスキラとアクラが福音の内容をもっと正確に教えたわけです。
 そのとき、アポロはどうしたでしょうか。なんと、それを素直に受け入れました。そして、その後どうなったか。彼は、もっと力強くイエス・キリストの福音を宣べ伝えるようになり、多くの人たちを励まし、力づける働きをしていったのです。
 このことからも、私たちは、一人一人が聖書を通してイエス様の声を聞き、お互いに教えられる者として歩んでいくことの大切さを知ることができます。
 でも、皆さん。宗教指導者たちも聖書を読んでいたのです。知っていたのです。しかし、聖書の理解に問題があったのです。
 
(2)聖書理解の問題(どう読み、どう理解するか)
 
 パリサイ人たちは、イエス様を救い主として認めませんでした。
 彼らの言い分の一つは、「キリスト(救い主)は、ベツレヘムから登場すると聖書に書かれているのだから、ガリラヤ出身のイエスがキリストであるはずがない」というものでした。確かに、旧約聖書のミカ書にこうあります。
 「ベツレヘム・エフラテよ。・・・あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(ミカ5章2節)
 彼らは、ここを根拠に「ガリラヤ出身のイエスがキリストであるはずがない」と言ったのです。しかし、ルカの福音書にあるようにイエス様は預言の通りベツレヘムでお生まれになったのです。でも、当時のヘロデ王の手から逃れるためエジプトへ退かれ、その後、ナザレに戻られました。だから、イエスがナザレ出身と理解している人もいました。でも、ルカが綿密に調べたように「イエス様が救い主かもしれない」という視点で、調べたら分かることだったのです。
 しかも、イザヤ書9章1節には、こう書いてあります。
 「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9章1節)
 これは、辺境の地ガリラヤに救い主という大きな光が照らされる、という預言です。
 つまり、聖書には、「ベツレヘムから救い主が出る」ということだけでなく、「ガリラヤの地に救い主という大きな光が与えられる」ということも記されているのです。イエス様は、その預言のとおりベツレヘムでお生まれになり、その後、ガリラヤのナザレで成長し、ガリラヤ地方で様々なみわざを行われました。どちらの預言もイエス様において成就しているのです。
 しかし、彼ら宗教指導者たちはそれを認めようとしませんでした。むしろ、「ガリラヤから預言者は起こらない。」(ヨハネ7章52節)と決めつけました。でも、実は、あの預言者ヨナもガリラヤ出身なのです。また、預言者ナホムもガリラヤのカペナウム出身でした。ですから、この時、パリサイ人たちが「ガリラヤから預言者は起こらない」と言った意味はどういうことかというと、「昔は出たけれど、今のあのガリラヤを見たら、到底、預言者など出るはずがない」という軽蔑と偏見があったのです。
 彼らは「私は聖書を知っている」と言いながら、自分たちの主張とあわない都合の悪い箇所からは目をそらしていたのです。「ナザレのイエスが、キリストであるはずがない」という前提で聖書を理解していたのです。
 皆さん。聖書を読むことは大切です。でも同時に、聖書の内容をどう理解するかが大切なのです。
 
3 「恵みとまこと」という視点で
 
 それでは、私たちはどのように聖書を理解したら良いのでしょうか。
 ヨハネは福音書のはじめ、1章で、イエス様について「この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1章14節)と言っていますね。そして、終盤20章ではヨハネの福音書を書いた目的をこう述べています。
 「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20章31節)
 つまり、ヨハネは「恵みとまことに満ちた」イエス様を証し、そのお方が信じる者に「いのちを得」させる「神の子キリスト」であることを、読んだ人が信じるようにという視点で福音書を書いているのです。という事は、読む私たちも、「イエス様は神の子キリスト」で「恵みとまことに満ちた方」なのだという視点で読めばいいのです。そして、それは福音書だけでなく聖書全体にも言えることなのです。なぜなら、聖書は全体を通してイエス様を証しているからです。そして、尊い一人子イエス様を与えてくださるほどの「神の愛」が貫かれているからです。
 皆さん。この視点で聖書を理解してゆくことが大切なのです。聖書には確かに難しいと思う箇所や、厳しく感じるような箇所があります。しかし、必ず「イエス様の恵みと真実」があり、「神の愛」があわらされているのです。
 「自分は律法を守ることができない。だからこそ、イエス様が律法を成就してくださり、神様のみこころに生きてくださったのだ」「私たちがいのちを得るように、イエス様が全てのみわざをなして、救いの道を用意してくださったのだ」「そのお方を信じ、信頼して歩んでゆけばよいのだ」そのように、聖書全体をイエス様の恵みとまこと、そのお方に表された「神の愛」という視点で理解し、神様からのメッセージを受け取っていけば良いのです。
 そして、皆さん。素晴らしいことに聖霊はそのことも助けて下さるお方なのです。ヨハネ15章26節で、イエス様はこうおっしゃいました。
 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15章26節)
 この約束の通りに、主を信じる私たちのうちにおられる聖霊が助けてくださって、聖書を通してイエス様の恵みとまことを証してくださる、神様の愛を豊かに味合わせてくださるのです。 その恵みに感謝しつつ、この週も全てを主にお任せしながら歩んでいきましょう。