城山キリスト教会説教
二〇二五年六月二二日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書八章一節〜一一節
 ヨハネの福音書連続説教28
  「あなたを罪にさだめない」
 
 1 イエスはオリーブ山に行かれた。
2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(新改訳第三版)
 
 今日はヨハネの福音書の8章に入りました。
 前回私たちは、仮庵の祭りの時にイエス様が語られた言葉を聞いて、人々がどのような反応をしたかということについて学びました。
 群衆の中には、「イエスは、あのモーセのような偉大な預言者ではないか」という人や「この方こそキリストではないか」と言う人々もいました。しかし、自分たちこそ聖書を一番よく知っていると思い込んで高慢になっていた祭司長やパリサイ人たちは、「イエスが預言者やキリストであるはずがない」と決めつけていました。今日の箇所には、そんな彼らが聖書を利用してイエス様を陥れようとする出来事が記されています。
 ところで、今日の箇所、7章53節から8章11節までは、括弧にはいっていますね。新改訳聖書をお持ちの方は欄外に注がついていて「古い写本のほとんどがこの部分を欠いている」とあります。どういうことかというと、昔は印刷技術がなかったので、聖書も人が書き写して残されてきました。その写本の初期のものには、この出来事が記されていないということなのです。つまり、後からつけ加えられたということです。
 でも、誤解しないでいただきたいのは、だからといって、これが作り話であるとか、信頼性が疑問視されているわけではないのです。この出来事が実際にあったことは、弟子たちの間でよく知られていましたし、別の文書にも記録されて、初期の教会の中で伝わっていました。そして、後にヨハネの福音書に加えられることで、イエス様がどれほど愛と哀れみに富んでおられるのか、特に、イエス様がおこなわれる「さばき」がどのようなものであるのかが示されているからなのです。
 それでは、ご一緒にみていきましょう。
 
<エルサレム神殿で>
 
 イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。(ヨハネ8章1節、2節)
 
 7章で、イエス様は「仮庵の祭り」に参加しておられましたね。この出来事がその時だったのか、別の時だったのかはさだかではありません。いずれにせよ、イエス様はエルサレムに来られた時は、夜は郊外のオリーブ山で過ごされました。そして、日中は神殿に通っておられました。
 朝早く、イエス様が神殿にいくと、沢山の人がイエス様の周りに集まって教えを聞いていました。イエス様は「すわって教え始められた」とありますが、実はこのスタイルは、当時のユダヤ教指導者の正式な教え方でした。当然、その様子をみた律法学者たちやパリサイ人たちの心は穏やかではありません。「ガリラヤのナザレからやって来た大工が、まるで正式なユダヤの教師のように振る舞って、何を勝手なことを!」「あんな大勢を集め惑わしているではないか!」嫉妬と憎しみに駆られた彼らはある行動を起こすのです。
 
<ひとりの女を>
 
 律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。(ヨハネ8章3節、4節)
 
 彼らはイエス様のもとにひとりの女を連れてきたのです。「姦淫の場で捕らえられたひとりの女」とありますが、この女性は既に結婚していて、別の男性と関係をもったのでしょうか。それもと、女性は独身で既婚者と関係をもったのかか、詳しいことは書かれていません。いずれにせよ、今でいえば不倫、しかも、その最中に捕らえられました。
 当時のユダヤ社会には、特に大きな罪と考えられているものが三つありました。一つは、「偶像礼拝」です。この世界と人を造られた「まことの神様」と私たち、人との関係を壊すものです。もう一つは「殺人」です。人と人との関係を壊す行為です。そして、三つ目が「姦淫」です。これは夫婦の関係を壊してしまいます。つまり、聖書は「関係」を破壊するものを厳しくいましめているのです。その原則は今も変わることはありません。
 旧約聖書の申命記22章には、姦淫の罪について厳しく書かれています。
 夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。(申命記22章22節)
 でも、皆さん。注意して読んでいただきたいのは、ここには男女「ふたりとも死ななければならない」と書いてあるのです。しかし、この時、イエス様のところに連れてこられたのは「ひとりの女」だけです。もう一人の当事者である男性がいないのはおかしいですよね。
 また、当時のユダヤ社会では、死刑を宣告するには「姦淫の現場を二人以上の証人が目撃していなければならない」という厳しい条件があったのです。
 考えてみてください。密会の現場を、現行犯で、しかも、2人以上で目撃するなんて、実際にはほとんど起こりえないことです。ですから、当時、姦淫の罪で死刑になることはほとんどなかったと言われていいます。
 でも、皆さん。この時は、バッチリ二人以上の目撃証人がいました。しかも、裁かれるべき当事者の一人である男性はいなくて、女性だけが一人引きずりだされました。そこからも、律法学者やパリサイ人たちが、仕組んだ罠だったと考えられます。
 この女性はどんな気持ちだったでしょう。たとえ罠だったとしても、自分にも落ち度はありました。少なからず男性に好意を持っていたでしょう。でも、裏切られ、自分だけが捕らえられ、姦淫の現行犯ですから、おそらく着の身着のままだったでしょう。人々の前にさらされて、どんなに恥ずかしかったか、「私はなぜ、こんなことをしてしまったのだろう」と後悔したでしょう。
 しかし、そんな彼女の気持ちはお構いなしに、この場にいた宗教指導者たちは「ただイエスを陥れたい」と、彼女を引きずり出して意気揚々とイエス様に言いました。
 
<宗教指導者たちの問い>
 
 「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは石打ち(死刑)にせよと言っていますが、あなたはどう思いますか」(ヨハネ8章4節、5節)
 
 実は、この質問はイエス様が、どう答えたとしても、陥れることができるものでした。
 もし、イエス様がモーセの律法の通り、「石打ちにしなさい」と答えたら、彼らはこう言ったでしょう。 「お前は、愛とあわれみを説いて『私は罪人を招くためにきた』と言っているくせに、この罪を犯した女を裁いて死刑にしろと命じた。言っていることとやっていることが違うじゃないか。」そう非難することができるのです。
 では、もし、イエス様が「石打ちにしてはならない」と答えた場合はどうでしょう。その場合は「お前は律法を守らないつもりか。そんな奴が救い主であるはずがない」と、いってイエス様を貶めることができます。
 つまり、イエス様がどう答えたとしても良かったのです。とにかく彼らはイエス様のことばを引き出したかったのです。それが、どちらの答えでも陥れることができると思っていたのです。
 
<イエス様の対応>
 
 さあ、イエス様はどうされたでしょう。8章6節にはこうあります。
 イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。(ヨハネ8章6節)
 イエス様は一体何を書いておられたのでしょうね。ある人は、「十戒」じゃないかとか、「罪のリスト」じゃないかとか、いろいろと考えられてきました。でも、聖書に書かれていないのでわかりません。
 言えることは、イエス様が彼らを無視されたということです。イエス様はずっと黙っておられたのです。沈黙することで問題の本質に迫られたのです。
 どれくらいの時間がたったでしょう。パリサイ人たちはイライラしていたことでしょう。「どうなんだ!答えろ!」と何度も何度も問い続けました。そして、ついにイエス様が立ち上がって、こうおっしゃったのです。
 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8章7節)
 「もちろん、罪は裁かれなければならない。でも、彼女を裁くことができるのは誰ですか。それは、罪がないものだけです!」このイエス様のことばを聞くまで、パリサイ人や律法学者の心はイエス様に対する憎しみでいっぱいでした。
 「こいつはとんでもない異端者だ!俺たちが排除してやる!」また、姦淫の女のことも裁いていたでしょう。「この女は罪人だ。律法を破った。俺たちは間違っていない!」「自分は正しい、自分には罪がない」と思い込んでいる彼らの心に、イエス様の「罪のない者が石を投げなさい」という言葉が投げかけられたのです。
 
<去って行く人々>
 
 その結果、何が起こったでしょう。
 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。(ヨハネ8章9節)
 年長者から、ひとり、またひとりとその場を立ち去っていったのです。皆さん。年長者からです。人生を長く生きた人からです。みんな「私はこの女性を裁くことはできない」と思ったのです。なぜ、「自分に罪がある」と、イエス様のことばで気づいたからです。
 ローマ3章10節には、「義人はいない。ひとりもいない。」とあります。どんな人も、自分の人生を、自分の内面を、正直にみつめれば「私は罪がありません」と言える人はひとりもいないと、聖書は語るのです。
 この時、イエス様のことばは、その場にいたすべての人の心に刺さりました。そして、一人また一人と去っていったのです。
 でも、みなさん。本当は、ここでイエス様のもとから去ってはいけないのです。なぜなら、もし、罪に気づいたなら、良心の呵責を覚えたなら、それを解決してくださるお方が目の前にいるからです。イエス様が罪の問題を解決してくださるお方だからです。
 イエス様はマタイの福音書でおっしゃいました。
 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。…わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9章12節−13節
 自分が病気だと気づいたら医者のもとにいくように、もし自分の罪に気づいたのなら、良心の呵責を感じたなら、わたしのもとにとどまりなさいということです。この時のイエス様の「沈黙」と「ことば」は、人々に罪を気づかせるのと同時に「それに気づいたのなら、そのまま私のもとにとどまりなさい」という招きのことばでもあったのです。
 皆さん、時々こういう言葉を聞きますね。「教会にいったら、罪、罪と言われるから嫌です。なんだか責められているみたいで苦手です」確かにそう感じる時があるかもしれません。聖書のことばによって、私たちの心を見透かされるような、ドキッとさせられる時があるかもしれません。
 でも、決してそこで終わりではないのです。聖書は、イエス様のことばは、私たちが心の責めを感じて、イエス様のもとから去ってしまうためのものではないのです。そこに真の解決を与えるものなのです。
 
<ひとり残った女性>
 
 女はそのままそこにいた。(ヨハネ9章9節)
 
 この時、唯一イエス様のもとにとどまったのは、この女性だけでした。彼女は、人々が去っていく流れにのって自分も立ち去る事ができたはずです。でも、そうしませんでした。イエス様のところにとどまったのです。もしかしたら、惨めで恥ずかしくて、情けなくて、顔もあげられなくて、ただ動けなかっただけのかも知れません。積極的な行動とは言えないかもしれません。
 それでも、彼女は「そのままそこにいた」のです。イエス様のところから動かなかったのです。彼女の行動は小さかったかもしれません。でも、結果的に彼女だけがイエス様の招きに応えることができたのです。彼女だけがイエス様に応答したのです。それは、小さな小さなからし種のようなものかもしれません。でも、それで良いのです。イエス様はその彼女の信仰を喜んでくださるお方です。
 イエス様は彼女に言われました。
 「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」(ヨハネ8章10節)
 彼女は応えました。
 「だれもいません。」(ヨハネ8章11節)
 
<イエス様の赦しの宣言>
 
すると、イエス様は驚くべきことを言われました。
 
 「わたしもあなたを罪に定めない。」(ヨハネ8章11節)
 
 皆さん。本来、聖書が厳しく罰している、姦淫の罪を罰することができるのは誰でしょう。主なる神様だけです。
 詩篇75篇7節に「まことに 神こそさばき主。」(詩篇75篇7節)と書かれている通りです。
 そして、使徒の働き10章で、イエス様の弟子ペテロがこう言っています。「イエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方である」(使徒10章42節)
 つまり、イエス様だけが、本来、彼女を石で打って、彼女の罪を裁くことができるお方です。でも、そのイエス様が「あなたを罪に定めない。」と赦しを宣言してくださったのです。
 皆さん。人が生きる為に、どうしても必要なのは「赦しの宣告」なのです。聖書には「罪から来る報酬は死である」と書かれています。けれども、イエス様は私たちひとりひとりの罪を背負って、私たちの代わりに十字架について、いっさいの罰をうけてくださいました。だからこそ、イエス様は私たちに罪の赦しを宣言することができるのです。
 私たちを罪に定めることのできる唯一の方が、私たちの罪を背負って、自らを罪に定め十字架についてくださったのです。イエス様の赦しは、ご自分のいのちと引き替えにもたらされるのです。
 その赦しをイエス様は、この女性に宣言なさったのです。そして、それは私たちにも宣言され、その赦しが、私たち、信じる者にも与えられたのです。
 そして、イエス様は続けてこう言われました。
 「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8章11節)
 ここで、イエス様は、彼女に「あなたは赦された。だから、ここから新しい人生を歩んで行きなさい」と励ましてくださっているのです。もちろん、この後の人生にも困難があり、葛藤があり、罪の誘惑も襲ってきます。過ちを犯すこともあるでしょう。でも、イエス様は、どんな時も、彼女を(私たちを)赦し、いつも一緒にいて助けてくださるお方です。そのお方が「安心して新しい人生を生きていきなさい」と励ましてくださるのです。
 第二コリント5章17節に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5章17節)とある通り、私たちはイエス様によって赦されて新しくされた者なのです。
 皆さん、最初にお話したように、この箇所はカッコになっていましたね。私は思うのです。なぜ、最初は入ってなかったけど、わざわざ後で加えられたのでしょう。それは、ここにイエス様の愛と哀れみが、イエス様の恵みとまことが豊かに現されているからですね。
 過ちを犯し、石で打ち殺されてようとしている、ひとりの女性の人生が、イエス様と出会って、イエス様に赦されて、新しくされました。イエス様が、「あなたを罪にさだめない。もう自分を傷付け、他人を傷付け、関係を破壊するような生き方はやめなさい」といわれたのです。それがイエス様の心だからです。
 イエス様は、私たちの神様との関係が壊れることを、人と人との関係が破壊されることを、願わないからです。だからといって、決して石を投げつけて、さばくのではなく、「赦し」をもって、私たちの壊れた関係を回復してくださるお方なのです。
 イエス様はそのような恵みとまことに満ちたお方です。そのお方が私たちといつも共にいて、その愛の中に生かされていることを感謝しつつ、この週もあゆんでまいりましょう。
 最後に「主の愛が今」を賛美してお祈りしましょう。