城山キリスト教会説教
二〇二五年七月六日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書八章一二節〜二〇節
 ヨハネの福音書連続説教29
  「わたしは世の光」
 
12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
13 そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」
14 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。
15 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。
17 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。
18 わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書の8章を読んでいます。今日の箇所は、イエス様がお語りになった有名なことばから始まっています。
 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節)
 そして、今日の箇所の最後、20節にはイエス様がどこでこれを語られたのかが書かれていますね。
 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。(ヨハネの福音書8章20節)
 わざわざエルサレム神殿の「献金箱のある所」でとあります。
 イラストを見ていただいて分かるように、当時、エルサレム神殿は、ユダヤ人の男性、女性、異邦人とそれぞれに入ることが出来る場所がきまっていました。ここが異邦人の庭(外庭とも呼ばれます)です。ここが婦人の庭で、男性はこの門(美しの門)の中まで入ることができます。「献金箱のある所」は、「婦人の庭」と呼ばれる場所、つまり、ユダヤ人女性がここまでは入ることができるという場所にあったのです。「婦人の庭」には、回廊(廊下)があったのですが、そこに十三本のラッパのような形をした献金箱がありました。上部が広く下部が細くなっているトランペット型をしていて、金属で出来ていましたので人々が献金を投げ入れると、コインの音がチャリンと響くように設計されていました。
 今日の箇所に、わざわざ「献金箱のあるところ」と書かれているのは、つまり、ユダヤ人であれば男女ともに行き来できた場所、大勢の人々が集まるにぎやかな場所で、イエス様が、「わたしは世の光です!」と堂々と宣言されたということなのです。
 
1 イエス様の宣言の背景
 
 この時、「仮庵の祭り」が、もう終わっていました。
 「仮庵の祭り」では、いくつかの特別なことが行われていましたね。一つは、仮庵で生活するということです。これは、荒野でのテント生活を記念するためでした。また、毎朝、祭司を先頭にした行列がギホンの泉で水を汲み、その水を神殿の祭壇脇に注ぎました。神様が荒野で水を与えてくださったことを覚え、これからも水を与えてくださるように願う儀式でした。そして、もう一つ特別なことがあったのです。それは、祭りの初日の夜に、先ほどの「婦人の庭」にある四本の大きな黄金の燭台に祭司が梯子で登って火をつけたのです。その光は、大理石と金で造られた神殿全体を明るく照らしました。ある書物には、エルサレムの街全体をも照らしたと記録されています。その光が何を表していたかというと、昔、神様が荒野の旅でイスラエルの民を、昼は雲の柱で、夜は火の柱(その光)で照らし導いてくださったことを覚えるためのものだったのです。
 でも、皆さん。イエス様が今日のことばをお語りになったことのときは、すでに祭りは終わっていました。ですから、輝く燭台の火は、もう消えていたのです。きっと人々は、「あー、今年も祭りが終わった。燭台の光も消えたな・・・」そんな雰囲気を感じていたことでしょう。その時にイエス様が大声でおっしゃったのです。
 「わたしは、世の光です。」つまり、「神様は、昔、先祖たちを、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださいました。そのように、今、わたしが、光として暗闇を照らし、あなたがたの人生を導くのです。」と宣言されたのです。
 皆さん。今日、まず留めていただきたいことは、旧約聖書において、「イスラエルがエジプトの奴隷生活から解放され、神様に導かれながら荒野を旅し、約束の地に入ることができた」という出来事は、今、イエス様を信じる私たちが罪の束縛から解放され、神様の守りの中で人生の旅をし、やがて天の御国に導かれるという「救い」を示す「雛形」なのです。
 確かに、イスラエルの民の「荒野の生活」は、私たちの人生を象徴的にあらわしていると言えますね。私たちは、飢え、渇き、人生に迷うことがあります。しかし、主なる神様は、いつも私たちと共にいて、その時、その時、必要を備えてくださって、渇きをいやし、先の見えない道を照らしてくださるお方です。その神様のみわざを実現してくださったのがイエス様です。ですから、今日の箇所でイエス様がおっしゃった「わたしこそ、世の光なのだ!」という宣言は私たちにも語られているのです。それでは、イエス様の宣言の内容を見ていきましょう。
 
2 イエス様の宣言の内容
 
 ここでイエス様は、大きく三つのことを言われました。
 
(1)「わたしは、世の光である」
 
 「世」とは、この世界、また、そこに生きる私たち一人一人を指します。ヨハネ1章9節に「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(ヨハネ1章9節)とあるように、イエス様はこの世に生きる私たちを照らす光なるお方だというのです。
 光は人が生きる為になくてはならないものです。光がないと何も見えません。適切な温度も保たれません。酸素もつくられません。光がないと何も生きることができないように、私たちにも、人生を照らす光が必要です。
 でも、同時に光は今まで見えなかった汚いもの、自分が見たくないもの、人に見られたくないものも照らし出しますね。例えば、冷蔵庫の裏側やベッドの下をライトで照らしたら何が見えますか。暗闇には、ゴミがたまりますね。
 光は生きていくために必要であると共に、人の闇を照らし汚いものを暴露します。ですから、光に対する反応として、そこから去ってしまうことがあるのです。皆が皆、喜んで光を受け入れるわけではないのです。
 前回の姦淫の現場で捕らえた女性の出来事を思い出してください。彼女を引きずり出した宗教指導者たち、石を投げつけようと、その場にいた人々にイエス様がおっしゃいました。「あなたがたの中で、罪のない者が最初に石をなげなさい」そのことばを聞いた時に何がおこりましたか。みんな、去って行ったのです。なぜでしょうか。光なるイエス様のことばで自分の心の闇が照らされたからです。ヨハネの福音書3章20節に「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」と書かれている通り、この時、みんな自分の見たくない心が照らされ光に背を向けてしまったのです。
 でも、本当はイエス様のもとから立ちり、光に背を向ける必要はなかったのです。なぜなら、イエス様は私たちに汚い部分を見せて終わりではないからです。そこに解決を与えてくださるお方なのです。第一ヨハネ1章7節にこうあります。
 もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら(光にてらされ続けるなら)…御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1章7節)
 「イエスの血」つまり、この後、イエス様がついてくださる十字架のみわざによって、すべての罪が取り除かれるからです。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1章5節)とある通り、イエス様という光に照らされたなら、私たちの闇は、そこにある汚れは一瞬で消えさるからです。だから、光なるお方に背を向ける必要はないのです。
 
(2)「いのちの光を持つ」
 
 さらに、イエス様は「いのちの光を持つ」と言われました。光は暗闇を照らすと、同時に、いのちを与えるものなのです。
例えば、花や植物の鉢植えを窓がない部屋においていたらどうなるでしょうか。せっかくの鉢植えがしなびてしまいますね。そのままだと枯れてしまいます。でも、そのことに気がついて日当たりの良い場所に移したらどうなるでしょう。しばらくすると回復します。光は、いのちを回復させるからです。
 今日の交読の箇所、詩篇27篇1節には、「主は私の光 私の救い。…主は私のいのちの砦。」(詩篇27篇1節)とありました。ここで詩篇の作者は、「光」と「いのち」を同じものとして告白しています。「主なる神様は私の光」、「いのちの砦」、つまり、「わたしにいのちをあたえ、いのちを保ち、いのちを回復させるお方」だと告白しているのです。
 その「いのち」は、単にこの肉体の命、呼吸をして、心臓が動いてという命だけでなく、ヨハネの福音書で何度も語られているように「神様とともに生きるいのち」です。この世界の全てと、私たち人を愛をもってお造りなった神様との関係が回復されて、「ああ神様が私を愛してくださっている」「いつも共にいて、私を守ってくださる」そのような神様の愛と安心の中で生かされる「いのち」です。
 だから、イエス様が「わたしは光である」とおっしゃる時、それは、「わたしはあなたに、神様とともに『いのち』を与える、保ち続ける、存在なのだ」という宣言なのです。
 
(3)「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがない」
 
 更に、イエス様は「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがない」と言われました。「わたしに従う者」、つまり、イエス様に信頼して生きるなら、この世の闇の中を歩む事はないということです。
 みなさん。「闇の中を歩むことはない」とはどういう事でしょうか。罪を犯さなくなり、悪い考えをもたなくなるということでしょうか。そうではありません。「光に照らされ続ける」ということです。
 イエス様と共に人生を生きることは、光に照らされ続けて生かされていくことです。だから、たとえ自分の状態がどんな状態であったとしても、常に光の中を生きるということなのです。私たちには、クリスチャンになっても、悩みもあるし、愚かなことをすることだってあります。自分の内にはさまざまな汚いものがあります。ときには自分で覆い隠してしまう、そのような性質もありますね。
 でも、私たちのそうした覆われたものが、光に照らされて、照らされて、照らされながら生きていくのです。聖書のみことばによって、自分自の「この部分にも光が当てられて、あの部分が照らされて」時には「自分はなんてどうしようもない人間だ」と思うことだってあります。自分で心に小部屋を作って「光を通さない!」そんな態度をとってしまう複雑な自分もいますね。
 でも、それは光に照らされる結果なのです。自分の中に暗闇はあっても、光に照らされているからこそ、それに気付くことができているのです。だから、光なるイエス様と歩むということは、こちらの状況如何にかかわらず、常に照らされ続けることです。そして、光に照らされたらもう闇ではないのです。
 パウロは第二コリント3章18節でこういました。
 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3章18節)
 私たちは、「主の栄光を反映させながら」歩むことができるのです、イエス様の光に照らされているからこそ、おのずと私たちも栄光から栄光へと変えられてつつ歩んでゆくことができるのです。それは御霊なる主の働きによるのです。そのような生涯に、もうすでに入れていただいているのです。
 
3 イエス様の宣言に対する反応
 
 さあ、そんなイエス様の宣言を聞いていた、パリサイ人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはいました。
 「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」(ヨハネ8章13節)「裁判のときには、二人以上の証人の証言が必要じゃないか。お前は自分で自分のことを証言している。嘘つきだ!」と非難したのです。すると、イエス様は言われました。
 「わたしは自分がどこから来たか、どこへ行くかを知っている。だから、わたしの証言は真実だ」これは、どういうことかと言うと「普通の人は、自分がどこから来て、どこへ行くのかわからない、あてにならない存在です。だから、自分以外に二人以上の証人が必要なのです。しかし、わたしは違います。わたしは確かな存在だから、自分自身について証言できるのです。」とイエス様は言われたのです。
 確かに、イエス様は、ご自分がどこから来て、どこへ向かっておられるのかを、はっきりご存じでした。父なる神様から遣わされたこと、また、ご自分がなすべき使命と目的を明確に掴んでおられました。そして、その通りに「真実に」生きてくださったのです。だから、その真実なイエス様を証明するために、人の証言は必要ないのです。「自分はどこからきて、どこへいくかわからない。何の為に生きるのかわかない」そのような不確かな存在である人間の証言は必要ない」と、イエス様は語っておられるのです。
 さらにイエス様は、18節でこう言われました。
 「わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」つまり、「あなたがたが、どうしても証言が必要だというなら、父なる神の証言がある」と、イエス様は、言われたのです。「お前は嘘つきだ!」と反応したパリサイ人に、イエス様は「わたし自身が真実な証人である」そして、「父なる神がわたしの証人である」とお応えになったのです
 それを聞いたパリサイ人たちは激怒しました。
 「神を自分の父とするなど、けしからん!もしそうなら、その神を見せてもらいたいものだ」そう憤慨して「あなたの父はどこにいるのか!」と質問したのです。
 すると、イエス様はお応えになりました。
 「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう」(ヨハネ8章19節)
 イエス様は彼らに「あなたたちは、『私たちこそ、誰よりも神を知っている』と自負している。しかし、わたしを知ろうとしない、あなたがたは神を知らないのだ!」と言われたのです。これは、今で言えば、牧師に対して、「あなたは毎週、説教しているけど、聖書のこと全然知らないし、神様のこともわかっていない」というような、強烈な批判です。
 でも、この時、パリサイ人、律法学者たちは、イエス様が言われたように「自分は知っている」と思っていました。でも、実は神様がわからなかったのです。なぜなら、光に照らされていないからです。イエス様に心を閉ざし光が遮られてしまっていたからです。光なるイエス様を受け入れないということは、神様がわからないということなのです。見えると思っているのに見えていないのです。イエス様という光を拒否しているからです。
 皆さん。私たちがどんなに一生懸命に学んでも、何かを一生懸命に行っても、たとえ聖書を全部丸暗記したとしても、イエス様を受け入れなければ、私を照らしてくださる光なるお方を拒否するならば、神様がわからないのです。でも、逆を言えば、もし、イエス様というお方を信じ受け入れるならば、神様がわかってくるのです。
 ヨハネの福音書1章18節に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1章18節)とあるとおりです。「ひとり子の神」である、イエス様によってのみ、私たちは神様をはっきりと知ることができます。その豊かさを、恵みを、愛を、さらにさらに知り続けることができるのです。そのような信仰の歩みの中に私たちは生かされているのです。
 
 今日の箇所でイエス様は、「仮庵の祭り」が終わり、大きな燭台の火が消えたあとに宣言されましたね。
 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節)
 確かに神殿の光は、祭りが終われば消えてしまいます。でも、イエス様という光は決して消えることがなく、私たちの生涯をいつまでも照らし続ける光です。イエス様を信じて生きることは、その光の中を歩んでゆくことなのです。
 でも、繰り返しますが、それは悩みがないとか、苦しみがないとか、自分の中の汚さが全部なくなってしまうということではないのです。自分のそういったものを、これでもかと見せられて、時には落ち込むかもしれない。でも、光があるから、光が注がれているからこそ、そこに癒やしがあるし、解決の糸口があるし、行くべき道がしめされる、そういうイエス様という素晴らし光の中に歩む人生が私たちにあたえられているのです。 その素晴らしい恵みに感謝しつつ、この週も歩んでまいりましょう。最後に「暗闇に光」を賛美してお祈りします。