城山キリスト教会説教
二〇二五年七月十三日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書八章二一節〜二九節
 ヨハネの福音書連続説教30
  「あなたはだれですか」
 
 21 イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言うが、自殺するつもりなのか。」
23 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。
26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」
27 彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。
28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。」(新改訳第三版)
 
 先週に引き続き、ヨハネの福音書の8章を読んでいます。
 前回は、イエス様が「仮庵の祭り」の終わりに、エルサレム神殿の「献金箱のあった」場所、「婦人の庭」で、お語りになったことばを学びました。当時のエルサレム神殿は、ユダヤ人の男性、女性、異邦人と入ることのできる場所が決まっていました。「婦人の庭」はユダヤ人の男女ともに入って祈りを捧げることができる場所でした。この時は、祭りが終わったばかりですので大勢の人がいたことでしょう。
 また、「婦人の庭」には、祭りの期間、四本の大きな黄金の燭台が建てられ火がともされました。夜になると、その光が神殿とエルサレムの街全体も照らしたと言われています。その光は、昔、イスラエルの民が荒野で旅をしたとき、神様が昼は雲の柱で、夜は火の柱で導いてくださったことを表していたのです。
 でも、この時は祭が終わっていましたら、その燭台の輝く光は消えていたのです。そんな中で、イエス様が宣言なさったのです。
 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8章12節)
 つまり、昔、主なる神様がイスラエルの民を光で導かれたように、今、イエス様が光としてこの世を照らし、私たちの人生を導いてくださるというメッセージでした。
 しかし、残念ながら、当時のパリサイ人たちや宗教指導者たちは、「こいつは、大嘘つきだ、誇大妄想の人間だ」そう考え拒絶したのです。そして、何とかイエス様を貶めようとして、様々な質問を投げかけたのです。
 今日は、その続きです。前回同様に、少し内容が難しい箇所でもあるのですが、イエス様が語られた、幾つかのことばに焦点を当てながら、ご一緒に考えていきましょう。
 
1 「わたしは去って行きます」
 
 イエス様は21節でこういわれました。
 「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。」(ヨハネ8章21節)
 ヨハネの7章で、イエス様は似たことを言われましたね。
 「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ7章33節、34節)」
 ここには、やがてわたしはあなたがの元から去っていく、だから「今、わたしがあなたがと一緒にいるこのときに、わたしのことばを信じて欲しい」そのようなイエス様の思いがこめられていました。
 今日の箇所でも、イエス様は繰り返しおっしゃるのです。「やがて、わたしが去って行く時がくる。その時になって、わたしを探そうとしても遅いのです」と。
 もちろん、聖書は全体を通して、誰でも、いつでもイエス様を信じることができる、そして、イエス様は私たちと共にいて人生を導いてくださると約束しています。でも、同時に聖書は、もしイエス様の素晴らしさを知ったのなら、「いずれまた後で」、「また次の機会に」と言って先延ばしにしないでほしい、「今」イエス様に応答することを勧めているのです。
 昔、イスラエルの民がエジプトから脱出して荒野を旅しました。荒野ですから生きるのが困難な場所です。でも、神様は、毎日毎日、彼らに天からのパンを与え養ってくださいました。また、喉が渇いた時には水を与えてくださいました。昼は雲の柱で、夜は火の柱で導いてくださいました。いつも、神様が共にいて恵みを与えてくださったのです。
 でも、彼らは心が頑なで神様の約束のことばを信じようとせず逆らってばかりいました。結果的に四十年もの間、荒野をさまよい続けなければならなかったのです。
 そのことについて、ヘブル人への手紙3章7節から11節にこう書かれています。
 「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。・・・彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。」(ヘブル3章7節〜11節)
 ここには、「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」とありますね。「神様のことばであるイエス様が来てくださった。まことのいのちのパンであり、生ける水を与えることができ、世の光であるイエス様がおられる。そのイエス様の語りかけを聞くならば、心をかたくなにしてはならない。」ということです。
 今日の礼拝の招きのことばにあるように、イエス様は「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)とおっしゃるお方です。そのお方が、今も聖書を通して、この礼拝で、賛美の中で、祈りの中で、また様々な出来事ことを通しても、私たちに語りかけ続けてくださっています。私たちはその語りかけに対して、「いつかまた聞くことにしましょう」と、先延ばしするのではなく、「今」、「今日」という時に応答する一人一人でありたいですね。
 
2 「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」
 
 さて、イエス様が「わたしは去って行く」と言われたとき、パリサイ人たちは思ったでしょう。「自分から去ってくれて大助かりだ。せいせいした。さっさとエルサレムから出て行け」と喜んだはずです。でも、イエス様が「あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます」と言われたのを聞いてきっと腹がたったに違いありません。
 そんな彼らに、イエス様は「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」と言われました。それを聞いた彼らパリサイ人たちはこう考えたのです。
 「イエスは、自殺するつもりなのか」(ヨハネ8章22節)
 なぜ、彼らがこう考えたかというと、当時のユダヤの社会では、「自ら命を絶つとすると、ゲヘナの最も暗い悲惨なところに落ちていく」と考えられていたのです。
 「ゲヘナ」は、「ヒノムの谷」という動物や罪人の死体の焼却場のことで、火が燃え続ける忌まわしい場所、つまり「地獄」と同義語でした。つまり、彼らはイエス様が「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない」といわれたので、あざけり半分に「我々は天国に行くけれど、イエスは我々が決して行けない場所、つまり、ゲヘナ(地獄)に行ってしまうのだろう」とバカにして言ったわけです。
 すると、そんな彼らにイエス様が続けてこうおっしゃいました。
 「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」
 ここで、イエス様が言われた「罪の中で死ぬ」とはどういうことでしょうか。聖書が語る「罪」というのは、私たちが考える犯罪、法律違反のことだけではありません。「罪」には「的外れ」という意味があります。「あるべき状態からずれている」、「正常な立場から外れている」、「迷っている」、「失われている」という意味です。
 聖書が示している人が本来あるべき状態とは、この世界を造り人を愛をもって造られた、主なる神様との正しい関係です。その神様との関係が壊れている状態を聖書は「罪」と呼んでいます。
 そして、「罪」状態が続くと、どうなるかというと、聖書は「死」に至ると語ります。それは、単なる肉体の死だけでなく神様との関係が永遠に失われるという意味での「死」です。
 イエス様は、「あなた方は、神様との関係がずれた状態にいる。このままでは、永遠の死へと向かうことになる。そのずれを直すために、わたしを信じる必要があるのだ」と言われたのです。
 しかし、それを聞いた彼らはますます憤慨して言いました。
 「あなたはだれですか」(ヨハネ8章25節)
 腹が立って腹が立って「俺たちに偉そうなことを言うお前は何者だ!そんなことを言う資格があるのか」という意味ですね。
 
3 「あなたはだれですか?(イエスとはだれか?)」
 
 しかし、皆さん。イエス様に対する「あなたはだれですか?」という問いは、人にとって最も大切な質問なのです。
 「イエスは、だれなのか」「わたしにとってどんな存在なのか」という問に対する、まさにその答えをヨハネはこの福音書で伝えようとしているのです。また、福音書だけでなく聖書全体がそれを伝えています。そして、もし、そのことがわかったなら「今日、心を頑なにしてはいけない」と聖書は語りかけているのです。
 
 (1)「わたしは、父なる神と同じ存在」
 
 今日の箇所で、イエス様はその問いに対する答えをはっきり伝えておられるのです。24節で、イエス様は言われました。
 「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ8章24節)
 この「わたしのことを」の直訳は、「わたしが『わたしがある』ということを」となります。だから、新改訳2017では、「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」と少し回りくどいですが丁寧に訳しています。
 そして、「わたしはある」は、新約聖書が書かれたギリシャ語では「エゴー・エイミ」という言葉で、特別な意味を持っていました。それは「わたしは神である」と同じ意味のことばだったのです。
 旧約聖書の出エジプト3章にこんな記事が出てきます。
 神様が、荒野で羊を飼っていたモーセに燃える柴の中から呼びかけて、「あなたは、これからエジプトに行って、イスラエルの民をエジプトから脱出させなさい」とお命じになりました。でも、この時モーセは、エジプトにいるイスラエル人たちが自分の言うことを信用してくれるはずがないと、心配なわけです。神様にこう尋ねました。「私が彼らのところにいって『神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」すると、神様は、ご自分の名前を、「わたしは、『わたしはある』という者である」と教えてくださいました。
 この神様の御名は、「神様が、すべての存在の源であり、永遠の存在者である」ということを示しているのです。そして、この神様の御名「わたしは、『わたしはある』という者である」をギリシャ語に訳したのが「エゴー・エイミ」です。
 ですから、この時イエス様が、「あなたはだれですか?」という問いに対して、「わたしは『あるという者』だ」と言われたのは、つまり、「私は永遠の存在である神と、本質的に同じ存在なのだ」と宣言されているのです。
 
 (2)「わたしは、上げられる(十字架につけられる)」
 
 それを聞いた、パリサイ人たちは益々腹を立てて、反発したでしょう。そんな彼らに、イエス様はもう一つ大切なことを言われたのです。
 「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」(ヨハネ8章28節)
 「人の子を上げる」というのは「十字架につける」という意味です。イエス様は、「わたしは、これから後、あなたがたに十字架につけられる。そのときに初めて、わたしが神と同じ存在であり、神のみこころをおこなっていることがわかるだろう」と言われたのです。
 皆さん。聖書は「イエスがだれなのか」「何をしてくださるのか」「あなたにとってお方がどういうお方なのか」、ということを、これでもかというほどに紹介し、明らかに示しています。でも、それは「イエス様の十字架」によって、初めてはっきりとわかるというのです。
 イエス様が、あの惨たらしい十字架にかけられたときに、イエス様がまことの救い主であることが明らかにされたのだ、と聖書は教えているのです。
 不思議だと思いませんか。聖書には、イエス様の素晴らしい奇蹟が沢山書かれています。嵐をおさめたり、死人をよみがえらせたり、病人を癒したり、その一つ一つのみわざは素晴らしいものです。けれども、イエス様がまことの救い主であることは十字架抜きに知ることはできないというのです。
 今日の箇所で、イエス様は、「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」と言われました。逆を言えば、イエス様を信じれば、私たちは自分の罪の中で死ぬことはなくなるのです。永遠のいのちが与えられるのです。
 なぜでしょうか。イエス様が、私たちのすべての罪を、ご自分の身に背負って、私たちの代わりに、十字架で罪の罰をうけて、死んでくださったからです。それによって私たちは赦しを受け取ることができるのです。ズレていた神様との関係がまっすぐに回復されるのです。
 イエス様は、「あるというお方」、神なるお方、すべてを生み出すことができるお方ですから、その力には限りがありません。神であるイエス様が、私たち同じ人となってくださり、私たちの身代わりに、十字架ですべての罪の罰を受けて、死んでくださったのです。そればかりでなく、イエス様は死んで葬られ、三日目によみがえってくださいました。死を打ち破って、復活され、目には見えませんが、今も生きて私たちのうちにおられるのです。
 ヨハネ20章28節には、その復活されたイエス様にお会いしたとき、弟子のトマスが語った告白がこう記されています。
 「私の主。私の神」(ヨハネ20章28節)
 トマスは十字架と復活によって、「イエス様が、誰なのか」「わたしにとってどんなお方なのか」がわかったのです。そして、「イエス様、あなたは私の主です。私の神です。」と告白することができたのです。
 そして、皆さん。この告白は、今、私たちの告白でもありますね。私たちは、十字架によってイエス様が私の罪を赦してくださる救い主であることを知りました。そして、イエス様が死から蘇ってくださった事実、復活を通して、イエス様が「わたしはある」というお方、「いのちを与える神」であることを知りました。
 だから、私たちも、そのようなイエス様に「あなたは私の主です。私の神です。」と告白し、「イエス様、あなたは私を愛し、私を赦し、どんなときも私とともにいて、人生を守り導いてくださるお方です。」と祈りをもって、この人生をイエス様と共に歩むことができるのです。
 その恵みに感謝しつつ、この週も歩んでまいりましょう。