城山キリスト教会説教
二〇二五年八月三日           豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書八章三〇節〜三八節
 ヨハネの福音書連続説教31
  「真理はあなたを自由にする」
 
30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
 31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。
38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです。」(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書の8章を読んでいます。しばらく間が開きましたので、これまでの流れを振り返ります。
 7章から8章にかけて、イエス様はユダヤ三大祭りの一つ「仮庵の祭り」に参加されました。そして、イエス様は祭の終わりに、多くのユダヤ人たちがいるエルサレム神殿の婦人の庭でこう宣言されたのです。
 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8章12節)
 昔、主なる神様は、荒野を旅するイスラエルの民を昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれました。そのように、今、イエス様が光としてこの世の闇を照らし、全ての人を導いてくださるというメッセージでした。
 でも、それを聞いたパリサイ人たちや律法の専門家たちは、
「イエスよ、お前は、大嘘つきの誇大妄想の人間だ」「そんなことを言う、おまえはいったい誰だ」と質問してきたわけです。その問いに対して、イエス様は、神様の御名を現すことばで「『わたしはある』という存在だ」つまり、「わたしは、永遠の存在者、この世界を造られた、主なる神様と同じなのだ」とお答えになったのです。
 さて、今日の箇所の最初、8章30節には、そのようなイエス様のことばを聞いていた人々の反応が書いてあります。
 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。(ヨハネ8章30節)
 神殿にいたユダヤ人の中で、イエス様を信じた人が沢山いたというのです。
 皆さん。ヨハネの福音書には「イエスを信じる」とか「イエスを信じた」ということばが度々でてきますが、その時々で次のような違った意味で使われています。
 一つは、私たちが今、イエス様を信じているように、「イエス様を自分の救い主として信じ受けいれること」。これまでの生き方を悔い改めて(方向転換をして)、イエス様と共にいきていくことです。
 もう一つは、イエス様を見て「すごい方だ、不思議なことをする方、素晴らしい方だと認める」のですが、自分の人生の救い主としては受け入れていないという、そういう信じ方です。
 この8章30節の「多くの者が信じた」は、後者だと考えられます。なぜなら、ここでの「信じた」ということばは、継続的ではなく、一時的な行動をあらわすときに使われるものだからです。また、このあと8章を読み進めていくと、「信じた人々」が「イエスは、すごいことを言う人だ。確かに言葉に説得力があるな」と反応しているのですが、心からイエス様を信じ受け入れるという姿でないことがわかってきます。
 ですから、今日の箇所で、イエス様は、そのような人々に、「イエス様を信じ、イエス様のほんとうの弟子とされる」とはどういうことなのかを語られているのです。
 
 今日はそのことを、イエス様がおっしゃった二つのことばを中心に考えていきましょう。
 
1 「わたしのことばにとどまる」
 
 8章31節にはこう書かれています。
 「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ8章31節)
 ここで「わたしの弟子」とありますが、聖書は私たちイエス様を信じる者を、「キリスト者」とか、「キリストの弟子」と呼んでいます。では、私が「ほんとうにイエス様の弟子である」ことを何によって知るでしょうか。それは、イエス様の「ことばにとどまっている」ことだというのです。イエス様の弟子であることの「証明」は「とどまる」ことなのです。
 
 (1)とどまること
 
 「とどまる」は「保つ」という意味のことばです。聖書の他の箇所では「家に住む」「そこにいる」というときにも使われます。
 ですから、イエス様の弟子であることの証明は、「何かを立派に行う」とか「修行して特別なわざを身につける」とか、「規則をしっかりと守っている」から「弟子」なのではなくて、ただイエス様のことばに「とどまる」、「心に保つ」ことなのです。
 では、イエス様のことばはどのようなものでしょうか。ヨハネの1章14節で、イエス様は「恵みとまことに満ちておられた」とありましたね。ですから、イエス様のことばは「めぐみとまことに満ちていることば」です。弟子は、そこからぶれなければいいのです。徹底的にイエス様の溢れる恵みにイエス様の真実にとどまるのです。
 私たちは、ときどき自分の姿を見たら、「これでもクリスチャンなのか」「弟子としてふさわしくない」と思うことがあるかもしれません。でも、「イエス様、あなたは恵み豊かなお方です。真実なお方です。あなたのことばにとどまって、そこからぶれずに生きていこうと思います」そう日々告白して歩んでいるなら、「イエス様の本当の弟子」なのです。
 この先、ヨハネの福音書15章でも学びますが、イエス様は「わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15章10節)と言われました。「あれをしなさい」「これをしなさい」ではなく、「わたしの愛を受け取って、その中にとどまり、わたしの真実なことばに、あなたの人生の基礎をおきなさい。それが私の弟子なのですよ」と語ってくださっているのです。
 そう聞くとなんだか嬉しくなってきませんか。そして、「そんな恵みとまことに満ちたイエス様のことばは、どんなものなのか、読んでみよう、きいてみよう」と思いますよね。弟子としてぶれないために、イエス様に留まるために、イエス様のことばをきき、心に蓄えることにつながります。
 
 (2)きき、蓄えること
 
 パウロは、ローマ人への手紙10章17節でこういいました。
 信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10章17節)
 「とどまる」ことは「聞く」ことから始まるのです。私たちは、こうやって、毎週、礼拝で聖書を読み、説教をきいています。自宅やそれぞれの場所で一人でも聖書を読みます。また誰かと一緒に読むこともありますね。
 聖書を読み、イエス様のことばを聞いて、心に蓄えると、そこに何があるでしょうか。イエス様の愛が、イエス様の赦しが、癒やしが、励ましがあります。
 どんなに「自分はだめなんじゃないか」「これでいいのだろうか」と、いろいろな声が聞こえてきても、大丈夫です。イエス様の声を、恵みのことばを、聖書を通して聞き続けたら良いのです。
 さらに、そのようなことば「聞いた」ら、意味を知りたくなりますね。その内容を理解すること、「学び」へと繋がっていきます。
 
 (3)学ぶこと
 
 マタイの福音書11章28節で、イエス様はおっしゃいました。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11章28節)
 イエス様は、「わたしから学びなさい」と言われています。なぜでしょう。「たましいに安らぎ」がくるからです。
 私たちは、居心地の悪いところには、ずっと留まることはできませんね。でも、イエス様というお方は「安らぎ」を与えてくださるお方です。イエス様のことばを聞いて、その意味を知っていったら、必ずそこに「安息」があります。私たちがもっとも安心出来る場所なのです。だから、そこに「とどまり」たくなるし、もっと「ききたい」し、さらに「学びたくなる」のです。
 それは「知的に理解する」ことだけではありません。やってみたくなる、そのように生きてみたくなるのです。そもそも、「学ぶ」は「まねる」から来ています。実際に誰かの「まねをして学ぶ」のです。習い事やスポーツでも、上達への近道は、「この人みたいになりたい」と思える存在がいて、その人の真似することです。落語や歌舞伎なども師匠がいて真似をして学びます。
 そして、皆さん。私たちにはイエス様という最高のお手本がおられます。しかも、イエス様は「柔和で優しい」師匠です。パワハラなんかほど遠いお方です。なんと、私たちと同じ立場にまでおりてきてくださり、私たちが人生で経験する、喜びも悲しみも苦しみも、すべて経験し、完全な人生の手本となってくださったのです。
 第一ペテロ2章2節には、こう書いてあります。
 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第1ペテロ2章2節)
 イエス様ご自身が、模範となって手本を示してくださったのです。愛に生きることを、赦しを与えることを、誠実さを、謙遜を、実際に見せてくだったのです。ですから、私たちはイエス様を「まねて」生きていく、キリストの弟子はそういう歩みへと招かれているのです。
 でも、そう聞くと、「イエス様をまねるなんて、私には無理です」と思います。確かにそうです。「イエス様のようになりたい、生きたい」と願うことは素晴らしいことなのですが、でも、自分の力や努力でイエス様のように生きようとしても残念ながら挫折します。
 安心してください。イエス様は、私たちが何度挫折しても、「お前はなんて出来の悪い弟子だ!破門だ!」と見捨てることはなさいません。聖書の中でイエス様は何とおっしゃっていますか。「わたしはあなたを離れずあなたを捨てない」「見よ、わたしは世の終わりまであなたとともにいる」とあるように、私たちの師匠であるイエス様は、私たちが失敗しても、赦し、慰め励まし、お手本を示し続けてくださるのです。
 さらに、第1コリント3章18節には、こう書かれています。
 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第2コリント3章18節)
 私たちが、イエス様を見つめて生きていくとき、私たちの内におられる聖霊なる神様によって、少しずつイエス様の姿に似せられていくのです。それは、私たちの努力や頑張りではなくて、助け主なる聖霊が私たちの思いや行動ともに働いてくださり、少しずつ少しずつ変えていってくださるのです。
 そして、そのような人生には何があるのでしょう。イエス様は、そこに「自由」があると言われました。
 
2 「真理はあなたを自由にする」
 
 イエス様を信じる者の生き方は、誰かに強いられたり、束縛される生き方ではない、私が私として生きることができる、自由なのです。
 一方、この時、イエス様の周りにいたユダヤ人たち、特に宗教指導者たちはどうだったでしょうか。
 彼らは、「私たちは神のことばにとどまっている」「モーセの律法を守って、あれをして、これを守って、神のみこころに生きている」と思っていました。でも、イエス様は、「その方向ではない」ということを教えられます。自分の力で律法を守って、戒めを守って生きる、それを突き詰めるとどうなるか。必ず出来ない自分にぶつかる、「不自由」になるからです。
 8章32節で、イエス様は、わたしのことばにとどまるなら、「あなたたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8章32節)と言われました。すると、それを聴いたユダヤ人たちはこう反論したのです。
 「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」(ヨハネ8章33節)
 「そもそも、私たちは奴隷ではない。誰かに束縛されてもいない。自由な神の民『アブラハムの子孫』だ」いうわけです。彼らは自分たちが「アブラハムの子孫」であることに誇りをもっていました。創世記にあるように、神様が先祖アブラハムを選び、「あなたもあなたの子孫も祝福される」と約束なさったからです。だから、「その子孫である私たちは『神に愛され、神の祝福を受けることができる民』なのだ!誰の奴隷でもない!自由だ!」とイエス様にいったのです。
 でも、聖書を読むと実際はそうでなかったことがすぐにわかります。彼らは、昔、エジプトで奴隷でした。バビロンの時代には国が滅ぼされ捕虜の民となって連れて行かれてしまいました。イエス様の時代にはローマの属国です。決して「自由な民」ではなかったのです。宗教的には、主なる神様だけを心から礼拝するのではなく、沢山の異教の神々を礼拝するようになっていました。内面的に「偽りの神々の奴隷状態」だったのです。だから、もし彼らが正直に自分たちの状態を見つめたのなら、自由ではなく「奴隷のように束縛された姿」だったのです。でも、彼らはそのような自分の姿が見えていなかったのです。
 ですから、イエス様は、続けてこう言われました。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8章34節)
 「あなたがたは、アブラハムの子孫だと言っているけれど、自分自身をよく振り返ってみなさい。外面的にも何度も自由を失い、さらに内面においても、神様に背を向けて罪の中にいるではないか。自由のない罪の奴隷状態です。」と、ご指摘なさったのです。
 つまり、この時、イエス様がいわれた「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8章30節)の「自由」というのは「罪からの自由、罪からの解放」を意味していることがわかります。
 聖書は、人は皆、罪の束縛の中にいるのだと教えています。ローマ人への手紙の7章でパウロはこう書いています。
 「私には、自分のしていることがわかりません。・・・ 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」
 ここでパウロが言っているように、私たちは皆、自分の心の中を正直にのぞくなら、自分の内に罪が住んでいて、その罪が不自由にしているという現実に気づかされます。
 前回も、お話したように聖書が言う「罪」は「的外れ」という意味です。本来あるべき場所からずれてしまっている状態です。それは、この世界を造り、私たちを愛をもって造ってくださった、主なる神様との関係がズレてしまっている状態です。そのズレは、私たちの人生に不自由さをもたらします。「本当の神様がわからない」「神様の愛や恵みを受けることができない」「生きる目的もわからない」そういう状態です。「罪」は、私たちを「不自由」にするのです。
 しかし、イエス様は私たちを束縛している罪を解決するために来てくださいました。ヨハネ14章6節で、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14章6節)と言われたように、イエス様ご自身が真理なるお方です。私たちを束縛している「罪」から解放し「自由」にしてくださるのです。
 皆さん。「自由」は誰かに縛られたり、何かに強制される状態ではなく、「私が、私として、安心して、生きていくことができる」ということです。イエス様はそれを私たちに与えてくださったのです。
 今日の招きのことば、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5章1節)とあるとおり、イエス様の十字架のみわざによって、私たちのすべての罪が完全に解決されて、壊れていた神様との関係が回復され、愛と平安の中に生かされるのです。自分が自分として、一番、安心することができる場所で生かされるのです。
 私たちは、そのイエス様の約束からぶれなければ良いのです。真理であるイエス様、自由を与えてくださるイエス様、めぐみとまことに満ちたイエス様を信頼し、そのお方の約束のことばに徹底的にとどまっていればよいのです。そこに、自由があります。安息があります。癒しがあります。
 その素晴らしい恵みの中に、すでに私たちが生かされていることを喜びつつ、感謝をもってこの週も歩んでいきましょう。
 最後に「主の愛が今」を賛美しましょう。