城山キリスト教会説教
二〇二五年八月一七日          豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書八章三九節〜五九節
 ヨハネの福音書連続説教32
  「アブラハムが生まれる前から」
 
39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。
40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」
42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
 48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
50 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。
51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない』と言うのです。
53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。
55 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。
56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。(新改訳第三版)
 
 今日はヨハネの福音書8章の最後です。
 ここにはイエス様とユダヤ宗教指導者(パリサイ人、律法学者)たちとのやりとりが書かれているのですが、なんだか何度読んでも「いったいなんのことをいっているのか」と思うほど理解が難しい箇所ですね。
 これまでの流れを少し振り返ると、イエス様は「仮庵の祭り」のとき、エルサレムに上って人々が驚くようなことを言われました。7章には、「わたしを信じる者は、聖書がいっているとおり、その人の心の奥底からいける水の川が流れ出るようになる」とあります。仮庵の祭りは水を求める雨乞いのときでもありました。イエス様は「あなたがたは水を求めているのですか、わたしを信じなさい。そうすれば生ける水の川があなたがたの奥底から流れでるようになる」とおっしゃったのです。 また、仮庵の祭りの時、神殿には大きな燭台が建てられ、その火が煌々と神殿とエルサレムの町全体を照らしました。しかし、お祭が終わればその光も消えていくわけです。その時にイエス様は「わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことなく、命の光をもつのだ」と大胆に宣言なさったのです。
 しかし、イエス様のことばを聞いたユダヤ人たちは、「イエスよ、お前は何をいっているのだ。誇大妄想もはなはだしい」と敵意むき出しで「お前は誰だ!」「何様のつもりだ!」と問い詰めたのです。すると、イエス様はことばのはしばしで、「『わたしはある』という存在だ」、つまり、「わたしは永遠の存在者なのだ」ということをお話なさるのです。
 さらに、前回の箇所で、イエス様は「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうの弟子なのだ」といわれましたね。「イエス・キリストにとどまる」それは、めぐみとまことに満ちたイエス様のことばをきき、それを受け入れ、その約束にうなずきながら人生を生きていくことです。イエス様は、そのとき「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」と言われました。
 しかし、イエス様が「真理はあなたがたを自由にする」といわれたことばを聞いたユダヤ人たちは、「冗談じゃない。もともと俺たちは自由だ!誰の奴隷になったこともない!神様に祝福されたアブラハムの子孫だ!」と反論したのです。
 
1 「アブラハムのわざ」
 
 今日はその続きです。イエス様は、「俺たちはアブラハムの子孫だ!」という彼らにこう言われました。
「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。」(ヨハネ8章39節〜40節)
 「アブラハムのわざ」とは何でしょうか。それは創世記18章で、アブラハムがマムレという場所の樫の木のそばで、主なる神様を心から歓迎しお迎えした出来事を指しています。
 ある暑い日のことでした。アブラハムが木の陰に座っていると、主なる神様が御使いと共に来られたのです。アブラハムは「この方々はただ者ではない」と感じ地にひれ伏して心から歓迎してもてなしました。その時、主なる神様は「来年の今頃、あなたに子どもが生まれるだろう。あなたによって、地のすべての国々は祝福される」と約束なさったのです。これは、ユダヤ人なら誰でも知っている有名な出来事でした。
 つまり、イエス様が、「アブラハムのわざをおこないなさい」といわれた意味は、「昔、先祖アブラハムは心から主なる神様を歓迎しました。でも、あなた方はアブラハムの子孫だといながら、神から遣わされたわたしを歓迎しようとしない」ということです。さらに、続く8章40節から47節でイエス様は「それどころが、あなたがたは敵意むき出しで、わたしを殺そうとしている。あなたがたの父はアブラハムではなく、むしろ、偽りの父である悪魔だ。」といわれたのです。
 こんなことを言われたら、プライドの高い彼らはもう頭にきて、怒りは頂点に達し、さらに激しいことばでイエス様に反論するのです。その内容とイエス様のお答えが、8章最後の段落(48節から58節)に書かれています。
 
2 ユダヤ人の反論とイエス様のお答え
 
 彼らはイエス様に三つの反論をしました。
 
 (1)「あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれている!」
 
 「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」(ヨハネ8章48節)
 当時のユダヤ人はサマリヤ人を非常に軽蔑していました。歴史的な背景があったからです。
 昔、イスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしました。南ユダの中心はエルサレム、北イスラエルの中心はサマリヤでした。北イスラエルはアッシリヤ帝国に滅ぼされます。その時、アッシリヤは北イスラエルの人々の多くを捕虜として連れ去り、代わりに他国の人々を連れてきて住まわせたのです。サマリヤに住むイスラエル人は他民族との混血の民となりました。それに伴って宗教的にも異教の神々が持ち込まれてしまいました。
 それに対して南ユダの人々は「自分たちは宗教的な純粋性を保ち続けた」というプライドがあったわけです。だから、サマリヤ人に対して「あいつらは汚れた民、神様の祝福を受けられない民だ」といって蔑むようになったのです。さらに、人というのは愚かなものですね。「サマリヤ人」ということばが、そうやって使われて行くなかで、何人であっても「あいつはサマリヤ人だ」というとき、それは「異教の神々につく人。俺たちは主流派だけど、奴らは異端者だ!」という意味で使われるようになったのです。ですから、彼らがイエス様に「あなたはサマリヤ人だ」といった意味は、「俺たちは主流派だけど、お前はいかがわしい異端者だ。悪霊につかれている!」と言ってイエス様をさげすんだのです。
 イエス様は何とお答えになったでしょう。
 「わたしは父を敬っています。・・・わたしはわたしの栄誉を求めません。」(ヨハネ8章49節、50節)
 実は、ここには、彼らに対する皮肉が込められているのです。
 福音書を読むと、当時の宗教指導者は「私たちは主流派だ、神を敬っている」と言いながら、いつも「自分が敬われたい。立派な人物だと認められたい」そういう思いをもっていた事がわかります。
 例えば、彼らは、人が集まる会堂や通りの四つ角に立って祈るわけです。人が誰もいないと祈らない。人がくると、「おお、主よ」と、いかにも敬虔そうに祈るのです。貧しい人に施しをするときも、わざわざ人が見ていそうなところでするのです。彼らは宴会の上席や上座が大好きでした。律法を守ることができない人を蔑みました。
 そんな彼らに対してイエス様は、「本当に神を敬っている姿は、あなたがたのように人を蔑み、自分の栄誉を求めるような生き方はしない」と指摘され、「わたしは自分の栄光でなく、神の栄光を求めています」つまり、「異端者でも、悪霊につかれているのでもなく、神様の御心に従っているのです。」とお答えになったのです。
 確かにイエス様はそういうお方ですね。イエス様は祈る時、人に見せるためでなく、一人静かな場所に退かれました。主なる神様に真実な心で祈られたのです。また、イエス様は人々が誰も見向きもしないような孤独の中にいる人のところに足を運んでくださり、愛の御手をもって触れてくださいました。この地上の生涯の最後には、ご自分の命を捨ててまで、私たちに愛を示しつくしてくださったお方です。まさにイエス様は、ご自分の栄誉を求めるのではなく、ただ主なる神様を敬い、神の御心に従われたのです。
 そして、イエス様は続けて言われました。
 「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」(ヨハネ8章51節)
 大切なことばです。でも、私たちはこういうことばを読むと、「イエス様のことばを守るってどういう意味だろう」と考えますよね。「ことばを守る」ときくと、普通どういうことを考えますか。「命令や、規則を守る」という感覚を持ちますね。すると、私たちは思うのです。「いや、私はちゃんと守る事なんてできません」と、否定的な思いがわいてくるわけです。でも、皆さん。是非、知っていただきたいのは、イエス様が言われた「守りなさい」は、何かの「規則を実行する」というのではなくて、「宝物を大切に保管する」という意味なのです。「これは本当に貴重なものだから、大切に守っていく」ということです。
 皆さんは、大切なものをどのように扱いますか。高価ならものなら金庫に保管するかもしれません。新しい楽器を買ったらケースに入れて大切にします。私も中高生の頃、初めて自分で10万円するベースを分割払で買いました。使う度にケースに入れてしまっていました。
 イエス様は、「わたしのことばを人生の宝物として大切にしてほしい。決して手ばなさないように生きていきて欲しい」そう私たちに願っておられるのです。
 そこには何が約束されているかというと、こうありますね。
 「その人は決して死を見ることがありません。」(ヨハネ8章51節)
 例えば、皆さん、死ということを考えるとき、死の特長は二つあって、一つは、肉体の「いのちがなくなる」、呼吸が止まり心臓も動かなくなる、という側面です。そして、もう一つは、人として「応答できない」ということです。こちらからどんなに声をかけても、呼びかけても、返事が返ってきません。死は応答がないという世界です。
 だから、イエス様が言われた「死を見ることがない」というのは、「応答できる」世界に生かされる。誰に応答できるのか、天の父なる神様の呼びかけに応答し、神様との生きた関係の中に生かされるということです。私たちは、聖書を通して神様の呼びかけをきき、礼拝の中で主を賛美し、『天のお父さん』と親しく呼びかけて祈ることができます。そのように応答することのできる「いのち」に生かされ続けるのです。
 でも、この時、ユダヤ人たちはイエス様のことばの真意が理解できません。イエス様が「決して死を見ることがない」と言われたことを聞いて、さらにこう言ったのです。
 
 (2)「お前は、アブラハムより偉いのか!」
 
 「昔の預言者も、先祖アブラハムも、死んでしまったではないか。それなのにお前は『わたしのことばを守れば死なない』という、アブラハムよりも偉大だというのか!」と詰め寄ったのです。すると、イエス様がさらに驚くようなことおっしゃいました。
 「アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」(ヨハネ8章56節)
 アブラハムはイエス様よりも約千八百年も前の人ですから、当然、イエス様が救い主としてこられたのを見たわけではありません。時代が違いますから。でも、イエス様は「彼はそれを見て喜んだ」といわれたのです。どういうことでしょうか。
 それについて、ヘブル人への手紙の11章でこう説明されています。
 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11章13節)
 つまり、アブラハムを含む、信仰に生きた人々は、生きている間には実際に救い主を見ることはなかったけれども、皆、主を信頼して生きる生涯の中で、やがて来られる救い主を待ち望み、それを心の目で(信仰の目で)見て、喜んで生きたということなのです。そして、「その彼らアブラハムたちが待ち望んだ救い主こそ、わたしなのだ」と、イエス様は言われたのです。
 すると、それを聞いたユダヤ人たちは、イエス様がまるで実際にアブラハムにあったかのようなことをいうので、さらに怒っていいました。
 
 (3) 「五十歳になっていないのにアブラハムを見たのか」
 
「ちょっと待ちなさい。おかしいじゃないか、お前はまだ50歳ににもなっていないのにアブラハムを見たのか!」と。なぜ、彼らがわざわざ「五十歳」という年齢を言ったのというと、当時の聖職者の「定年退職」の年齢だったからです。民数記にはレビ人が30歳から正式に奉仕を開始し50歳で定年退職すると書かれています。この時のイエス様は、30歳を少し過ぎた年齢ですから、当時の社会ではまだ新米の若造です。だから彼らは「お前は、まだ駆け出しじゃないか。なのにアブラハムがお前を見たなどとよくも言えたものだ!」イエス様を見下して言ったのです。
 すると、イエス様が最後にこうおっしゃったのです。58節。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(ヨハネ8章58節)
 これは、8章の総まとめのような大切な宣言です。
 「お前はいったい誰だ」という質問に対する、イエス様の最終的なお答えは、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」でした。新改訳2017では「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです。」と訳されています。
 イエス様は、「お前は何様だ!50歳にもならない若造ではないか!」といった彼らに、「いいえ、そうではありません。」「わたしは、『わたしはある』という者、永遠の存在者で、アブラハムが生まれる前からずっと存在していたのです!」とおっしゃいました。イエス様は、この世界が造られた時にも、アブラハムの時代にも、モーセの時代にも、数々の預言者たちの時代にも、どの時代においても、「わたしはある」という存在、「永遠の存在者なのだ」と宣言されたのです。
 皆さん。この宣言は、私たちにとって何を意味しているでしょうか。
 新約聖書、ヘブル人への手紙13章8節にはこうあります。
 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13章8節)
 私たちは、そうではありませんね。限りある時間の中に生きています。過去を自分の力でどうすることもできません。将来に何が起こるかもわかりません。だから、私たちは過去を振り返って後悔もするし、明日のことを考えて不安にもなります。
 しかし、イエス様は、過去においても「わたしはある」という存在、未来においても「わたしはある」というお方、そして、今も私たちと共にいてくださる変わることのないお方です。
 そのお方が、「私はあなたとともにいる」「あなたを捨てて孤児にはしない」と約束してくださっている。そして、聖書全体を通して、「わたしはあなたが生まれる前からあなたを知っている」「あなたの人生の全てを益とする」と、語ってくださっているのです。
 ですから、私たちは、イエス様の恵みのことばを、真実なことばを、宝物のように大切に大切に心に保ちながら、この週も歩んでいきましょう。
 最後に、永遠の昔から私たちを愛し、いつもともにいて、守り支えてくださるイエス様を覚えながら、「強くあれ、雄々しくあれ」を賛美しましょう。