城山キリスト教会説教
二〇二五年九月七日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書九章一節〜一二節
ヨハネの福音書連続説教33
「神のわざが現れるため」
1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9 ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。(新改訳第三版)
今日からヨハネの福音書9章に入ります。
これまで読んできた7章と8章で、イエス様は仮庵の祭りに参加されてエルサレム神殿でいろいろな教えを語られました。
それに対してユダヤ宗教指導者(パリサイ人、律法学者たち)は腹を立てて反論し、その激しさが増していきました。前回読んだ8章の最後では、「イエスよ、お前はとんでもないことを語っている!異端者だ!悪霊につかれている!」とまで言ってののしったのです。それに対してイエス様は、彼らが尊敬するアブラハムの名をあげてこう言われましたね。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8章58節)
新改訳2017では、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」と訳されています。つまり、イエス様は、ご自分が永遠の昔から存在する「ある」という者、「主なる神」と同じであると宣言されたのです。
それを聞いたユダヤ人たちの怒りは頂点に達しました。「とんでもない!神への冒涜だ!石打ちだ!」「彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。」(ヨハネ8章59節)のです。石打ちの刑で本気でイエス様を殺そうとしたのです。
ですから、イエス様は弟子たちと共にその場から逃れざるえませんでした。「イエス様、急いでここから逃げましょう。一旦、エルサレムから出た方がいいかもしれません。」弟子たちに促されて、イエス様はエルサレムの南の門の方へと向かわれました。
今日の出来事は、その道の途中に起こりました。そこには、「生まれつきの盲人」(目の不自由な人)がいました。なんとイエス様は、ご自分の命に危機が迫っているにもかかわらず、立ち止まって、そこにいた「生まれつきの盲人を見られた」(ヨハネ9章1節)のです。
聖書は、わざわざこの人のことを「生まれつき」と記しています。ただ、目が見ないのではなくて、生まれた時からずっと、一度も見たことがなかったのです。
皆さん。私たちは、毎日の生活の中で色々なものを選びとって生きていますね。たとえば、今日も皆さんが朝起きて「今日は日曜日だ、9時から礼拝にいこう」と選び取って、電車にのり、車にのり、歩いて、この場所にこられたわけです。そうやって、私たちは人生の中でさまざま選択をして生きています。
しかし、自分ではどうしても選ぶことができないものがあります。それは何かと言うと、「自分がどのように生まれてくる」か、「自分の生まれ」に関しては誰も選ぶことができません。いつの時代に、どの場所に、どんな家庭に生まれるのか。健康に生まれる人もいれば、生まれたときから病を抱えている人もいます。自分にとって嬉しいことなら問題ありませんが、不幸と思えることだった場合はつらいですね。そこには不公平感があります。でも、選べないから。生まれつきだから、受け入れるしかありません。
皆さん。今日の箇所に出てくる、この人は「生まれつき」自分にとって「不幸と思うもの」「人から不幸だと思われるもの」を背負わされて生きてきたのです。彼は思ったでしょう。「なぜ、俺はこんな状態で生まれたんだろう。」と。
8節には、彼が「物乞い」をしながら生活していたとあります。当時、目の不自由な人はそれ以外に生きるすべがなかったのです。つまり「社会の底辺」に置かれていたのです。
それに加えて、当日の人々は「目の不自由な人」いわゆる人から見て不幸だと思える人に対して、どういう風にいったかというと、「ああ、きっと誰かが悪いことをしたからだ。」「両親か、先祖か、この人自身か」「その罪の結果を背負っているのだ」「不幸の原因は罪の結果なのだ」といって非難や軽蔑の目をむけていたのです。
そして、なんと、イエス様のそばにいた弟子たちですら、毎日イエス様の話をきいていた彼らですらこういったのです。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9章2節)
弟子たちの声は「目の不自由な人」にも聞こえたでしょう「ああ、また、同じようなことをいう人がいる」と思ったのではないでしょうか。
皆さん、私たちもそのぞれの人生の中で、「苦しみ」や「不幸」とよべるものを経験することがありますね。そして、その原因を一生懸命に考え探ろうとします。原因が分からないと気持ちが悪いですから。そして、多くの場合、原因は過去にあるのではないかと考えます。でも、過去に遡って考えてもわからないことの方が多いですから、いきつくところは「ああ、きっと、自分が何か悪いことしたからだ。だから、こんな風になってしまったにちがいない」と自分を責めるわけです。また、それが生まれつきの場合は、「自分よりも前のことだから、やはり、親の因果が子に報い…、両親や先祖が悪かったのでは…」と考えてしまうのです。今でもそういう声をよく聞きます。「あなたの過去が、あなたの先祖が・・・」そのように言う宗教がいっぱいあります。
でも、私たちはどんなに考えても過去に戻ることはできませんから、行き着くところは出口のないグルグルとした悩みの中に捕らわれてしまうのです。
1 イエス様の見方
でも、皆さん。イエス様は、どのように彼をご覧になって、何とおっしゃったでしょうか。イエス様は、弟子たちのことばを制するようにしてこう言われました。3節です。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9章3節)
これを聞いた盲人はびっくりしたでしょう。今まで、そんなこと聞いたこともなかった。「だいたい、私の人生に神のわざが現れるなんて考えたことがない」「神様からはほど遠い。神に見捨てられた存在だ」と思っていたと思います。だって、人からは散々いわれたのですよ。「あなたの目が見えないのは、何か罪を犯したからでしょう。」「親が、先祖が、わるいことしたからでしょう。」彼の心には「ああ神様は私の人生に背をむけている」「人には世話になるし、社会的には底辺だし、こんな私は神のわざが現れる人生とは無縁だ」そういう思いが植え付けられていたのです。しかし、イエス様はそんな彼の前で足を止めて、彼を見つめて、「いや、そうではない。あなたの人生に神のわざが現れる」ためといわれたのです。
皆さん。感謝じゃないですか。イエス様の見方というのは、私たち人の見方とは違うのです。過去に遡って「こうだから、ああだから、だから今こうなった」という見方で今をみるのでなくて。「苦しみや不幸」「なんでこんなことが」「不公平だ」と思われる、その現実を未来に向かって、ここに「神のわざがあらわされるのだ」と言われるのです。
私たちにも、生まれつきのもの、自分で選択できない、さまざまなことがあります。いくら気をつけていても病気になることがあるし、真面目に誠実にいきていても苦しみや困難もあります。しかし、イエス様は、そんな私たちの人生をまだ見ぬ未来に希望をもって見つめてくださるお方です。過去に原因を探るのでなく、これから、あなたの人生の中で神様がなしてくださる「神のわざ」がある。人から見たら不幸と言われるかもしれない。自分もそう思うかもしれない。でも、主はそれすらも「神のわざ」をあらわすものと変えてくださる。それがイエス様の私たちをみつめる見方なのです。
パウロは言いました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8章28節)
このことばにあるように、「ああ、確かに、神様はすべてのことを益としてくださる。私の人生に神様のわざをなしてくださる。」と、私たちは頷きながら生きてくことができるのです。でも、それは、決して問題がなくなるとか、私たち思う時に、すぐに解決されるということではないかもしれません。病が完全にいやされるということではないかもしれません。しかし、主は、そのことさえも益としてくださると約束されているのです。そのような「神様ご自身のわざ」を、私たちの人生に現わしてくださるのです。
2 「神のわざ」を行う
そして、イエス様は、4節でこうおっしゃいました。
「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません」(ヨハネ9章4節)
「神のわざがあらわされる」、そのような人生が私たちに与えられているからこそ、私たちがなすべきことは「わたしを遣わしたお方」、つまり「神様のわざを行う」ということだというのです。
これはどういう意味でしょうか。
もちろん、私たちは人間ですから、神様がなさるようなわざ、何か特別なことを行うということではありませんね。どういうことかというと、以前学んだヨハネ6章の言葉をもう一度思い出していただきたいのです。こう書かれています。
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6章29節)
私たちがなすべき、「神のわざ」それは、「神が遣わした者(イエス様)を信じる」こと、イエス様を私たちが信頼し生きることです。私たちが過去に捕らわれて、出口のないあきらめと、むなしさの中で生きるのではなく、今、現実の中にあっても、「イエス様あなたを信頼します」、「神様が最善をなしてくださるという、そのことばを信頼して生きていきます。」それが「神のわざ」を行っていきることだというのです。
何か特別なことをするのではない、立派なことをしなければいけないのではない。私たちを愛し、私たちのために、いのちを捨ててくださるほどの大きな愛をしめしてくださった、イエス様を信頼し、そのお方とともに生きていくこと。それが「神のわざ」です。
そして、そのことを具体的に示すサンプルとして、イエス様とこの盲人とのやりとりが続くわけです。
3 シロアムの池に
イエス様は「目の不自由な人」にとても奇妙なことをなさいました。何とつばで泥を作って、その泥をこの盲人の目に塗られたのです。
「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。」(ヨハネ9章6節)
昔、こどもがまだ幼かった頃によく公園の砂場で遊びました。必ずと言っていいほど水で泥団子を作って遊びました。でも、間違っても子どもの目に泥を塗るなんてしませんよね。
確かに、当時、つばの中に癒しの力があるとも考えられていたようです。でも、つばでこねた泥を目に塗るのは、さすがにおかしな行動でした。この盲人にしてみれば、突然、目に泥を塗られて「いったいなんだ」と戸惑ったでしょう。
皆さん。イエス様は、どうしてこんなことをされたのでしょうか。イエス様ですから、その場ですぐにこの盲人の目を見えるようにすることもできたはずです。それなのにわざわざ彼の目に泥を塗られて、「さあシロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのです。不思議ですね。
でも、聖書には、時々、こうやって神様がチャレンジをされることがありますね。まるで私たちの神様への求めを、本気度をためすかのように。私たちが「イエス様に信頼し、イエス様のことばに従って生きていく」とき、神様が私たちの人生にみわざを現してくださるのですが、その時に少しばかりの勇気が必要なときがあるということですね。
でも、そんなとき、この「目の不自由な人」の姿にはげまされませんか。彼はイエス様に泥を塗られても文句を言いませんでした。塗られた泥を自分で拭き取りませんでした。イエス様に言われた通り、そのことばに従ってシロアムの池に向かったのです。
なぜでしょう。彼はそれまでいつも人々から非難と軽蔑の目で見られていました。自分ではどうしようもできない問題をかかえて、八方塞がりのような「自分はなぜ生まれてきたのか」、「夢も希望ない」そんな思いで暮らしていたことでしょう。
でも、そんな自分にある日、イエス様が近づいてこられて、びっくりすることをいわれた。「この人が盲目なのは、神のわざがこの人に現れるためです」と。これまで、人々から散々「こんな罪深い男には神のわざなんておこらない」そういうことばは何度もきいてきたのです。でも、イエス様だけが「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざが、栄光が、がこの人に現れるためです。」といわれたのです。
そのことばに彼の心に勇気が湧いたでしょう。「この人のことばにかけてみよう。」そして、言われた通り、シロアムの池に行って目を洗うと、なんと目が開かれて見えるようになったのです。生まれて初めて光をみたのです。景色を見たのです。人々を見たのです。
皆さん。「シロアムの池」はエルサレムの南東部にあります。9章7節には括弧がついていて、「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」とわざわざかいてありますね。ここに大切なメッセージがあるからです。象徴的な意味が込められているのです。
神様から「遣わされた者」とは誰ですか。イエス様のことですね。ですから「シロアムの池に行って洗いなさい」というのは、具体的に今の私たちにとってどういうことかといったら、単純明快です。
イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪が洗いきよられるということを信じて生きることです。
今日は聖餐式があります。イエス様が私たちの罪のために十字架について血を流してくださいました。その血潮は私たちの泥のような汚い罪をきれいに流してくださいました。死んで葬られ三日目によみがえられイエス様は私たちに永遠のいのち(神様と共に生きるいのち)を与えてくださいました。そして、今も生きておられるイエス様は世の光として私たちを照らし、私たちの人生の中で神様のみわざを見ることができるようにしてくださるのです。
私たちが、神様から「遣わされた方」であるイエス様のもとにいくときに、私たちの目が開かれて、全てのことを働かせて益としてくださる神様が生きて働いてくださって、私たちの人生を導いてくださる。イエス様はその事実を見えるようにしてくださったのです。
ですから、今、イエス様を信じる私たちは、まさにシロアムの池に行って洗われた一人一人として生かされていますね。私たちの人生に「神のわざ」が既にあらわされているのです。
「いやー、そう言われても、私の人生、そんな風に思えません」「特別なこともありません」と思うかも知れません。でも、今、私たちがこうやってイエス様を信じ、今朝もともに礼拝している、ここに教会がある、そのこと自体がまさに「神のわざ」があらわされているからこそです。
「神のわざ」は、何か立派なことをしなくちゃいけないとか、いつもいつも特別なことがおこるという、そういうことばかりではないのです。あなたが、今、イエス様を信じてここにいる、そのこと自体が「神のわざが現れている」ことなのです。
そして、もちろん、主は私たちに最善をなしてくださるお方ですから、そこには癒しもあります。だから、私たちは癒やしのためにも祈ります。また、様々な問題の解決のために、生活の必要や経済の必要のためにだって祈ります。自分が願うときに、自分の期待通りではないかもしれません。でも、今日の招きのことばで読まれたエレミヤ書29章11節を通して、神様はこう語ってくださいます。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
そうです。神様は「わざわいではなく平安」を、諦めと失望ではなく「将来と希望」を与えてくださるのです。そのような「神のわざ」が、私たちの生涯を通して現されつづけていくのです。
なぜなら、神様は私たちを愛し、その愛のゆえに尊い御子イエス様を遣わしてくださったから、私のために「遣わされた方」であるイエス様が、いつも私たちと共にいてくださるから、そのお方と歩む人生の中に「神のわざ」は、今日も、これからもずっと現わされ続けていくのです。
その恵みを感謝しつつ、この週も共に歩んでいきましょう。