城山キリスト教会説教
二〇二五年九月二一日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書九章一三節〜四一節
ヨハネの福音書連続説教34
「今は見える」
13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。
24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(新改訳第三版)
ヨハネの福音書9章を読んでいます。
前回の箇所は、イエス様が「生まれつき目が見えなかった人」の目を開いてくださった出来事でした。その直前、イエス様はユダヤ人たちから石を投げられて殺されそうになっていましたね。命の危険が迫っているにもかかわらず、イエス様は立ち止まって道の途中にいた目の見えない人をご覧になったのです。
そばにいた弟子たちがこう言いました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9章2節)するとイエス様は弟子たちのことばをたしなめるようにして言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9章3節)
弟子たちは、彼の目が見えないことに対して、「過去」に目を向けて、何らかの「罪」が原因なのではないかと考えました。しかし、イエス様は、彼の過去ではなく、「罪」のせいでもなく、「これから、神のわざがこの人にあらわされるのだ」といわれたのです。
私たちにも、いろいろな不幸と思われること、困難と思われることがありますね。そして、その原因を探ります。「過去にあんなことをしたからでではないか」「罪を犯したからではないか」そうやって、自分の「今」を「過去」からみてしまう傾向があります。でも、イエス様は私たちの「今」を、辛く困難なことさえも、そこに「これから神のわざが現されるのです」と、希望の目で、私たちの「今」を見つめてくださるのです。
さて、今日は前回の続きですが、「生まれつきの目の不自由な人」は、イエス様に目よって目が開かれて見えるようになりました。本人は驚いたでしょう。周りの人たちは、もっとびっくりしたでしょうね。そして、癒された本人に「どのようにして、お前はみえるようなったんだ」と聞いたのです。すると、本人は「イエスという方が泥を作って私の目に塗り、『シロアムの池で洗え』と言われたのです。そうしたら見えるようになったのです。でも、今、その方がどこにいるのか、私は知りません」と答えるだけでした。すると、人々は、その人を「パリサイ人」のところに連れて行ったのです。
1 パリサイ人のところへ
彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。(ヨハネ9章13節)
パリサイ人は、当時のユダヤ宗教指導者の一大勢力で、厳しく戒め(戒律)を守っている信徒集団でした。彼らは、戒めを守るということに関しては忠実なのですが、どこか「神様の心」を忘れてしまっていて、戒め(戒律)だけを守ることに懸命になっていた人たちでした。そのパリサイ人のところに癒された人が連れてこられたのです。
パリサイ人は言いました。「お前の目はどのようして見えるようになったのだ」盲人は言いました。
「あの(イエスという)方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」(ヨハネ9章15節)
するとパリサイ人たちは一つのことを指摘しました。
「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」(ヨハネ9章16節)
「けしからん!そいつは安息日の規定を守っていない!違反している!」という反応です。なんとも冷たいことばですね。生まれたときからずっと見えなかった人が見えるようになったのです。喜んでもいいじゃないですか。彼らは、盲人の目が治ったことよりも、それが起こったのが「安息日」であることを問題視したのです。
当時、安息日の規定には細かいリストがありました。一切の仕事をしてはいけないということになっていたのです。パリサイ人はその規定を守らない人たちを厳しく批判したのです。ですから、安息日はことばとして「安息」ですが、実際、当時の人々にとっては「窮屈」な「束縛の日」になっていたのです。
ちなにみ、彼らの考えによると、この時のイエス様の行為は「安息日」にしてはいけないことを少なくとも4つ行っていると言えました。一つは、「命の危険がない者に対して医療行為をした。」二つ目は、「つばきをした」これもだめでした。三つ目は、「泥を造った」これも左官屋の仕事です。四つ目は、「泥を塗った」これも壁塗りの仕事ですから労働です。ほとんど言いがかりのようなことを、パリサイ人たちは本気で指摘したのです。
彼らは、イエス様が素晴らしい「神のわざ」を行われたのに信じようとせず、「何か裏があるんじゃないのか」と考えました。そして、癒された本人に尋問を続けるのです。「本当にあいつが泥を塗って洗っただけで見えるようになったのか?」彼は答えます。「本当です。あの方は神様から遣わされた預言者だと思います。」本人は自分の身に起こったことを説明するしかありません。それしか答えようがありませんから。
すると、次にパリサイ人たちは「もしかしたら、生まれつき目が見えなかったというけど、実は見えてたんじゃないか」と考えて両親を呼び出したのです。
「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」(ヨハネ9章19節)
すると、この両親は何といったでしょうか。
「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」(ヨハネ9章20節、21節)
なんとも冷たいことばですね。両親にしてみれば生まれた時から見えなかった息子が見えるようになったのですよ、こんなに嬉しいことはありませんよね。喜ぶべきことです。しかし、両親の答えは、「私たちは今回のことに無関係です。あれに聞いて下さい。」そういう態度でした。実は、それには理由がありました。こう書いてありますね。
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。(ヨハネ9章22節、23節)
「会堂」は、当時のユダヤ社会において大切な場所でした。単に礼拝をする場所というだけでなく、ユダヤ人たちが集まる大切なコミュニティの場所だったのです。だから、そこから追放されるというのは、ユダヤ社会から追放される、「村八分」のようになってしまうことだったのです。もし、この両親が「息子を癒して下さったイエスというお方は素晴らしい」と発言をしたら、自分たちがユダヤ社会から追放されてしまうと恐れたのです。彼らは「ああ、あれに聞いて下さい」と言うことしかできなかったのです。
でも、皆さん、この癒された人は「生まれつき」ずっと目が見えなかったのです。当然、両親の顔も、周囲の人々の姿も、一度も見たことがありませんでしたね。そして、イエス様によって目が開かれて、彼が最初に見た人々の姿は、どんな人だったでしょうか。「自分のことを信用しない人たち」「神様の心を忘れて戒めを守ることばかりのパリサイ人たち」「会堂から追放されることを恐れて『私には関係ない』と応える両親」だったのです。つらいですね。そして、結局、この盲人は、9章34節にあるように、外に追い出されてしまったのです。
2 パリサイ人と盲人の対比
ところで、皆さん。今日の箇所に出てくる「パリサイ人」と「生まれつき目が見えなかった人」彼らの間には、興味深い対比が見られますね。福音書を書いたヨハネは意識して記していると思います。
まず、パリサイ人たちですが、彼らは「自分は知識がある」「神様を知っている」「見えている」と思い込んでいました。28節では、「私たちはモーセの弟子だ。私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。」(ヨハネ9章28節、29節)と言っています。以前、8章では「アブラハムの子孫だ」と言い、ここでは「モーセの弟子だ」つまり、「私たちは、神がモーセを通して与えてくださった律法を詳しく知っている。その律法に従って正しい生活をしているのだ。神のことを一番よく知っている、誰からも教えられる必要がない。」そういう態度です。そして、自分と違う意見があるならば、耳を傾けるどころか非難して追い出してしまう人たちでした。まさに、「私たちは、知っている、見えている」という姿ですね。
しかし、彼らの知らないことが一つありました。それは、29節にこうあります。
「あの者(イエス)については、どこから来たのか知らないのだ」(ヨハネ9章29節)
彼らは、聖書の内容をよく知っていました。けれども、そこにある「神様の心」を見失ってしまっていたのです。だから、聖書が約束している「救い主」イエス様が、今、自分たちの目の前にいるのに認めることができなかったのです。つまり、「救い主」が見えていなかったのです。
そんなパリサイ人たちに、イエス様は、41節でこう言われました。
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9章41節)
これは、どういう意味かと言うと、「もし、あなたがたが、聖書も、神のことも、まったく知らない人々だったなら、私を信じることができなくてもしかたがないでしょう。」「でも、実際には、あなたがたには神について多くの知識が与えられている。そして、聖書を知っていると自負している。それにもかかわらず、そこに約束された救い主が来ても、それを認めることができないなら、あなたがたの罪は重いのです。」「あなたがたは『見える』と言っているが、『見えていない』のです。」そのようにイエス様は指摘なさっているのです。
でも、皆さん、これは、今でも起こりうることですね。「聖書や神のことをよく知っている」と思っているけれども、「実はわかっていない」という姿です。人を教えながら、自分自身が謙虚に教えられようとしない姿です。特に、指導的立場に置かれている人や、もちろん、教会のリーダーや牧師も気を付けなければならいことですね。
一方で、「目が見えなかった人」は、どうだったでしょうか。彼は教育を受ける機会は無かったでしょう。聖書の知識もあまりなかったと思います。実際、この時の彼は質問されたことに「私は知りません。私は知りません」と答えることしかできませんでした。とても正直な姿です。
でも、その彼が唯一はっきりといったことがあります。
「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9章25節)
「私はずっと見えなかったのです。そして、今日、イエス様にはじめてお会いしました。どんな人かもよく分かりません。声だけで顔もまだ見ていません。でも、ただ一つだけ私は知っています。見えなかったけれども、今は見えます。それは、イエスというお方が私にしてくださったことです。」彼はそうはっきりと告白できたのです。
皆さん。聖書を読むことは大切です。そこから知識を得ることも素晴らしいです。でも、もっと大切で、素晴らしいのは、「私はイエス様を知っている、イエス様が私にしてくださったことを体験し、知っています。」そう告白するできることですね。この盲目だった人は、神学的な知識はほとんどありませんでした。しかし、イエス様が自分にしてくださったこと、つまり、イエス様に癒され目が開かれて見えるようになったことは知っていますと言えたのです。
だから、彼は律法の専門家であるパリサイ人たちの尋問に対しても答えることができた。
「もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(ヨハネ9章33節)
しかし、残念ながら、そんな彼に対してパリサイ人たちは更に怒っていました。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」(ヨハネ9章34節)そして、彼は外に追い出されてしまったのです。ユダヤのコミュニティから追放されてしまいました。
3 見つけ出してくださる方
でも、皆さん。今日の出来事はそこで終わらないのです。35節には、イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」(ヨハネ9章35節)とあります。パリサイ人たちに追放されてしまった彼でしたが、イエス様はそんな彼のことを聞き見つけ出してくださったのです。ご自分の命の危機の中でも足をとめて、彼を癒してくださっただけでなく、今、会堂から追放され、ひとりぼっちになってしまった彼をイエス様の方から見つけ出してくださったのです。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19章10節)と言われたイエス様が、迷った一匹の羊を捜す羊飼いのように彼を見つけだしてくださいました。そして、彼は、この時初めて、自分の目でイエス様のお姿を見たのです。
イエス様は言われました。「あなたは人の子を信じますか」。「人の子」というのは、聖書で「救い主」を指すことばです。つまり、「あなたは、聖書に約束された救い主を信じますか」ということです。彼は少し戸惑いながら答えました。「その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」(ヨハネ9章36節)すると、イエス様は、「あなたが今見ている私が救い主なのだ」とお答えになったのです。それを聞いた彼は、「主よ。私は信じます。」と告白し、そして彼はイエスを拝した。(ヨハネ9章34節)のです。肉体の目だけでなく、心の目も開かれて、イエス様が救い主であることを知り、そのお方を信じ礼拝したのです。
皆さん。今日の箇所で、「生まれつきの盲人」はいいました。「私はただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」有名な讃美歌「驚くばかりの」の英語の歌詞には、この盲人の言葉が引用されています。"I once was lost, but now I am found; Was blind, but now I see."「私は、以前は失われていたが、今は見い出された。以前は見えなかったけれど、今は見える」という意味です。
私たちにも、わからないことはたくさんあります。でも、知っていることがありますね。それぞれが、イエス様に見つけ出され、イエス様と出会い、そのお方を信じていることです。イエス様を私の「救い主」として人生にお迎えしていることです。
「わからないこともたくさんあります。でも、イエス様と出会い、以前は見えなかったものが、今は見えている!」何が見えるのかと言えば、「イエス様が、私のためにいのちをささげるほどに、私を愛してくださっていることが見える。そして、昨日も今日もいつまでも変わることのないイエス様が、いつも共にいて、助け、励まし、支えてくださる、そのことを私たちは知っています。」その告白の中に、生かされている恵みを感謝しつつ、この週も共に歩んでいきましょう。