城山キリスト教会説教
二〇二五年一〇月一二日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一〇章一節〜一〇節
 ヨハネの福音書連続説教35
  「羊の門」
 
 1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
 7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書10章1節から21節には、イエス様がお話になった有名な「良い羊飼い」のたとえが記されています。イエス様はこのたとえの中で、ご自分のことを「わたしは羊の門です」と言われていますね。また、「わたしは良い牧者です」とも言われました。今回は、二週連続の説教ですので、今日はまず、イエス様がおっしゃった「わたしは羊の門です」ということについてご一緒に学びます。そして、来週は「わたしは良い牧者」ということばを取り上げます。
 
 さて、これまでの流れを振り返りますが、前回9章でイエス様は「生まれつきの盲人」を癒してくださいました。それを知った周囲の人々は驚いて、癒された本人に聞きました。「どのようにして、お前は見えるようなったんだ?」すると、本人は「イエスという方が来られて、泥を作って私の目に塗り、『行って、シロアムの池で洗え』と言われたのです。そうしたら見えるようになったのです。」と答えました。すると、人々は、その人を宗教指導者(パリサイ派の人たち)のところに連れて行ったのです。しかし、パリサイ派の人たちは、彼の目がイエス様によって癒されたことを信じませんでした。むしろ、それが起こったのが安息日だということに腹を立ててイエス様を非難しました。さらに、彼らは癒された本人をユダヤの会堂から追放してしまったのです。当時、パリサイ人は、「自分たちこそ聖書を知っている。戒めを守り、神に従って生きている。」と自負していました。しかし、彼らは人々を裁き、苦しめ、排除するという、神様の御心からはほど遠い姿だったのです。
 そんな彼らに、イエス様は9章の最後でこうおっしゃいました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9章41節)つまり、「あなたがたは『自分は見えている』『神に従っている』と言っているが、神に遣わされ、神のみわざを行っている、このわたしを拒絶しているではないですか。その罪は重いのです。」と語られたのです。
 今日の箇所はその続きです。イエス様はパリサイ派の人々や周囲にいたユダヤ人にとって身近な題材を用いて大切なことを伝えようとされているのです。
 
1 「羊飼い」と「盗人・強盗」
 
 10章1節から5節で、イエス様は「羊飼い」と「盗人・強盗」を対比して語られています。
 「盗人・強盗」は、羊の「門」から入らないで他の所を乗り越えてくる存在です。一方「羊飼い」は、「門」から堂々と入り、自分の羊の名を呼び導いていく。そして、「羊」は「羊飼い」の声を聞き分けてついていく。このイエス様の「たとえ」は、当時のパレスチナの「羊」や「羊飼い」の姿を知ると、さらに良く理解することができます。
 
2 「羊」と「羊飼い」
 
 今、私たちは、自分の生活の中で実際に羊や羊飼いの姿を見ることは少ないですね。「羊飼い」ときくと、どこかの野原で羊の様子をぼんやりと眺めているような、のどかなイメージを持たれるかもしれません。でも、実際は、昔も、今も、羊飼いは大変な仕事です。
 ちなみに私が神学生の時、東京基督教大学のキャンパス内に羊が飼われていたのです。聖書を学ぶ神学生への実物教育の為だったのか、またはキャンパスの草刈りの手間を省くためだったのかもしれません。とにかく、羊が飼われていて、神学生がアルバイトで世話をしていました。「羊飼い」のバイトは、朝早くから羊を小屋から出してお世話をするのです。羊は真っ白でかわいいイメージがあるかもしれませんが、実際はかなり汚れていますし、わがままだし、以外に速く走るのです。そんな羊の世話をする「羊飼いバイト」は大変そうでした。
 
 (1)羊について
 
 羊は、家畜の中でもとても弱いと言われています。自分の力だけでは生きていけません。外敵に襲われても牙やひづめなど、自分の身を守るものを持っていません。また、羊は、自分で草や水を探し出すことができないのです。パレスチナ地方は水が少なく乾燥した場所が多いですから、羊のために牧草地や水飲み場を見つけるは大変な仕事でした。あらに、羊は、視力が弱くすぐに迷子になってしまうそうです。岩がごつごつした荒れ地では、羊が行方不明になる危険が常にありました。もし、一匹でも羊がいなくなったら、羊飼いは危険な場所を探し回らなければなりません。羊を狙う強盗や獣もいましたから、羊飼いは常に緊張感をもって見張りをし、羊が襲われたときには身をていして戦わなければならないわけです。
 しかも、「羊飼い」は、一匹一匹の羊に名前をつけていて、それぞれの羊をよく知っていたのです。面白いことに、羊も自分の羊飼いの声が分かったというのです。ジョージ・アダム・スミスという人が、パレスチナ地方を旅行したとき、こんな光景をみたそうです。ひとつの井戸の所に三、四人の羊飼いがそれぞれの羊の群れを連れてやって来ました。彼らは井戸から水を汲み、羊たちに飲ませるのですが、いつのまにか群れがごちゃ混ぜになって、どの羊がどの群れだか全くわからなくなってしまいました。しばらくすると、それぞれの羊飼いが独特の「声」をあげて羊たちに合図したのです。すると、その声をきいた羊は見事に元通りの群れに分かれていったのです。羊飼いがいつも羊と一緒にいて声をかけるので、羊はその声を聞き分けることができるわけですね。
 
 (2)羊を飼う囲い
 
 羊を飼う「囲い」には二種類ありました。
 ひとつは、村に常設した共同の囲いです。村の中に中庭のような場所にに囲いを作り、入り口に頑丈な扉をつけて羊を入れて世話をするのです。
 もう一つは、放牧地に作られる一時的な囲いです。暖かい季節になると羊を高原で放牧するのですが、その時、丘の中腹に囲いを作るのです。一時的なものですから壁で囲っただけで戸もついていません。入り口はどうするかというと、夜になると羊飼いが入口に寝そべって羊が勝手に外に出ないようにしました。外敵が侵入しないように、まさに羊飼い自身が「門」の役割をしたのです。
 皆さん、イエス様が語られた「羊の門」や「良い羊飼い」のイメージが膨らんできますね。羊飼いは、羊を大切にし、忍耐強く導き、時には身を呈して羊を守りました。それだけではなく一匹一匹の羊の名前を呼び、よく知っているのです。時には羊の門となって羊を守りました。だから、羊は安心して安全に生活できたのです。
 そして、聖書に「主は私の羊飼い、私には乏しいことがありません。」(詩篇23篇)とあるように、イエス様は私たちの「羊飼いなるお方」です。私たちは、イエス様の「羊」として、そのお方の守りの中で生きる一人一人です。「良い羊飼い」であるイエス様については、次回、詳しく学びましょう。
 このようにイエス様の「たとえ」は、当時の人々にとても馴染み深いものでした。でも、6節にはこう書かれています。
イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。(ヨハネ10章6節)
 パリサイ人たちは、「羊」についても、「羊飼い」や「強盗や盗人」についても知っていました。でも、「いったい、イエスは何が言いたいのか?」「俺たちに何の関係があるのか」と、自分にどうあてはめて考えたらいいのかが分からなかったのです。ですから、イエス様は更に詳しく「羊の門」ということに絞ってお話になりました。
 
3 「羊の門」
 
 イエス様はおっしゃいました。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。」(ヨハネ10章7節)
 この「羊の門」には、大きく二つの意味があると考えられます。一つは、「羊のところへ入るための門」です。
 
 (1)「羊のところへ入るための門」
 
 本当の「羊飼い」は、ちゃんと「門」を通って入り羊に近づきます。もし門から入らないで、ほかの所を乗り越えて羊の所に来るなら、それは「盗人」で「強盗」です。イエス様は、10章8節で「わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です」(10章8節)と言われていますね。どういうことかというと、「羊飼い」は朝早くから羊のところに来て世話をするわけですから、その羊飼いより「前に早く来た」ということは「夜中に来た」「暗闇に紛れてこっそり入ってきた」羊をねらう盗人・強盗のです。
 それが、誰のことかをさしているかというと、もうおわかりですね。このたとえ話を聞いている「パリサイ人たち」です。彼らは、「自分たちこそ人々を指導し、群れを養う羊飼いだ」と思っていました。でも、イエス様は彼らに言われたのです。「本当の羊飼いとして羊に近づこうとする者は、皆、『わたしという門』をくぐって入らなければならないのです。もし、わたしを否定し、わたしという『羊の門』から入らないのなら、それは羊に害を及ぼし、羊を食いものにする盗人で強盗だ」と言われているのです。「あなたたちパリサイ人は、自分は人々を養い導く羊飼いだと思っているが、実際は盗人で強盗だ」というわけです。
 このことは、私たちにとても大切なことを教えています。 「教会」は、イエス様を信じる人々(羊)の集まり、ひとつの「羊の群れ」です。その群れのために、牧者(牧師や伝道者)が遣わされるわけですね。城山教会であれば関根牧師、豊村牧師が遣わされています。
 大切なことは、羊を牧するため、教会の働きに携わる為には、必ずイエス様という「門」を通らなければならないということです。イエス様というお方を無視して、自分勝手に教会の働きをしてはいけないのです。「いやー、先生、そんなイエス様を無視するような牧師がいるのですか?」と思われるかも知れません。残念なことに今も、昔もいたのです。
 ヨハネがこの福音書を書いたときにも、すでにそういう姿がありました。キリスト教会ができて何十年もたっていました。すでに多くの人たちがイエス様を信じて、クリスチャンとして喜びをもって歩んでいました。一方で、クリスチャン(羊)に近づいて、その喜びを奪おうとする人たちもいたのです。
 その特徴は何だったかというと、「イエス様という門を通らない」、つまり、「イエス様を否定する」教えでした。例えば、「イエスが救い主だって?十字架につけられて死んだ人間がどうして救い主なんだ。そんなはずない。」また、「イエスを信じれば救われるだって?救いはそんな簡単ではない。もっと修行して、もっと努力をしなければ駄目だ。」「イエスが死から復活したなんて?そんなことあるばずがない!」そのようにクリスチャンを混乱させ救いの喜びを奪いとる者が沢山現れていたのです。「偽教師」と「狼」とも呼ばれる、イエス様を否定する異端的な教えを語る人々です。
 そのような中で、ヨハネはイエス様が言われたことばを思い起こしながら伝えているのです。「わたし(イエス様)という門を入らない者は盗人であり、強盗です。」と。「神であり、人となってくださったイエス様」を否定する者、「救いは、ただイエス様の十字架と復活のみわざによる」ことを否定する者、それは、イエス様という門を通らない者たちです。羊に害を及ぼし奪い取る「盗人であり、強盗」なのです。
 牧会者、伝道者、教会の働き人は、みんなイエス様というお方を通って羊に近づかなければならないと聖書は私たちに伝えているのです。
 
 (2)「救いに至る門」
 
 「羊の門」のもう一つ意味は「救いに至る門」です。
 イエス様は、9節で「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。」(ヨハネ10章9節)と言われました。つまり、牧師も、伝道師も、信徒も、誰もがみんな、イエス・キリストをという門を通ることによって、救いをえることができる。教会にはいろんな役割を果たす人がいるけれど、みんなイエス様を通って「救い」が与えられるのだと、聖書は約束しているのです。
 イエス様という「門」を通って入るとは、イエス様を救い主として信じるということですね。その一人一人に対して、イエス様は、次のように素晴らしい約束をなさっています。
 「だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネの福音書10章9節)
 「安らかに出入りする」、つまり、「安心して生活することができる」という意味です。そうです。イエス様という「羊の門」を通って入る「救い」の中には「安心」があるのです。
 皆さんは、どんな時に「安心」を感じますか。「ああ、この人といたら大丈夫だ」そう思える人のそばにいたら安心ですね。「この人は私のことをよく知っている。私の長所も、短所も、すべて知った上で、それでも、私のそばにいて、私を大切にして、守ってくれる、養ってくれる。」そんな存在がそばにいたら確かに安心ですね。
 イエス様はそのような「救い」を与えてくださるお方です。なぜなら、この世界の全てを造り、私たち一人一人を愛してくださっている天の父なる神様との関係を、イエス様が十字架と復活のみわざによって回復してくださったからです。私たちが天の父なる神様とまっすぐな関係をもつために、愛と平安に満ちた親しい関係の中に入るための、イエス様は「門」となってくださったのです。
 もちろん、私たちはクリスチャンになっても、人生の問題や困難がすべてなくなるわけではありませんね。苦しいこともあるし、不安や恐れを感じることもあります。でも、その中にあっても、私を知り、私を愛してくださっている父なる神様に「天のお父さん」呼びかけることができるのです。「ああ、神様、苦しいです。辛いです。助けてください。」と叫ぶことができるのです。そして、聖書のことばを通して、賛美の中で、祈りの中で、この礼拝の中でも、神様が語りかけをきき、神様の慰めを励ましを受けることが出来るのです。私たちはそのような救いに入れられています。イエス様はそのための「門」となってくださったのです。
 詩篇の作者は言いました。「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」(詩篇116篇7節)ここにあるように、私たちはイエス様という門を通って、主なる神様のもとに戻ることができ、神様が与えてくださる「いこい」の中に生かされているのです。
 今日の箇所の最後、10章10節でイエス様はもう一度、繰り返して言われています。
 「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネの福音書10章10節)
 「盗人」がどのような存在か、特長が記されていますね。「盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする」と。つまり、私たちから「大切なもの」を奪い取ろうとする存在です。与えられた大切な神様とともに生きる「いのち」を奪おうとする存在です。
 当時の「パリサイ人」たちは、人々を導き、愛をもって養うのではなく、「この戒めを守らなければならない」「安息日にはこれをしてはいけない。あれをしてはいけない」と戒めでしばり苦しめました。自分たちにはむかう人はおいだしました。
 先ほど触れたようにキリスト教会の歴史においても、「盗人や強盗」のような存在、イエス様を否定し信仰のいのちを奪おうとする存在がいました。
 でも、皆さん。イエス様はそうではありません。「奪う」のではなく、「いのち」を与えてくださるお方です。「殺し、滅ぼす」のでなく、私たちを「生かし、養い、安心」を与えてくださるお方です。
 だから、もし、私たちが日々の生活の中で、何か私たちから「奪い取る」ような声が響いてくるなら、それはイエス様の声ではありません。「お前、それでもクリスチャンか?」「もっと、努力して、もっと頑張らないと、神様はお前を認めてくれないぞ。」そのような、私たちから「安心」を奪い、「恐れ」や「不安」を植え付ける声が聞こえてくるなら、それはイエス様の声ではありません。なぜなら、イエス様は私たちを生かし、いのちを与えてくださるお方だからです。イエス様の声には、「安心」があるから、「やすらぎ」があるから、「愛と恵みが溢れている」からです。
 イエス様は、「わたしは羊の門です」といわれました。私たちは、そのお方を信じ、その門を通った一人一人です。イエス様によって、いつも安らかで豊かな養いを受けり、神様とともに生きるいのちが与えられている、その恵みの中にいかされていることを感謝しつつ、この週も共に歩んでいきましょう。