城山キリスト教会説教
二〇二五年一〇月一九日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一〇章一一節〜二一節
 ヨハネの福音書連続説教36
  「わたしは良い牧者」
 
11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
 19 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。
20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」(新改訳第三版)
 
 先週に引き続きヨハネの福音書10章でイエス様がお語りになった「良い羊飼い」のたとえから学んでいきます。イエス様はこのたとえの中で、ご自分について二つのことをおっしゃいました。一つは「わたしは羊の門」、もうひとつは「わたしは良い牧者」です。
 先週は、一つ目の「羊の門」についてご一緒に考えました。 イエス様が言われた「羊の門」に、どのような意味があったかというと、二つありましたね。一つは、羊飼いが、羊の世話をするために「羊のところへ入っていくための門」です。
 本当の「羊飼い」は、ちゃんと「門」を通って羊の群に近づきます。もし門を通らずに他の場所を乗り越えて入るなら、それは「盗人」や「強盗」です。それが誰のことかをさしていたかというと、この時、イエス様に反発していた「パリサイ人たち」でした。彼らは自分たちこそ人々を正しく導く「羊飼い」のような存在であると思っていました。でも、実際は数々の戒めや掟を作って人を縛り、苦しめ、それを守ることが出来ない人を裁いていました。そして、神様から遣わされ、神様のみわざを行っている「救い主」、イエス様を決して認めようとしなかったのです。イエス様は、そんな彼らに「本当の羊飼いとして人々に近づこうとする者は、『わたしという門』を通って入らなければならない。」と言われたのです。つまり、「あなた方は、自分が民を導く牧者だと思っているがそうではない。わたしを否定し拒絶するなら、人々に害を及ぼす盗人であり強盗だ」とご指摘なさったのです。神の子、救い主であるイエス様を否定して、自分勝手に人々を牧してはいけないと言う大切なメッセージです。
 そして、「羊の門」のもう一つの意味は「救いに至る門」ということです。
 イエス様は「だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。」とおっしゃいました。「だれでも」です。牧師も信徒も、みんな、イエス・キリストを「救い主」として信じることで「救い」が与えられるということです。さらにイエス様は、その救いがどのようなものか、羊の生活にたとえてこうおっしゃいました。「また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10章9節)つまり、「安心して生きることができる」ということです。イエス・キリストを信じることによって与えられる「救い」には、さまざな恵みがありますが、その一つは「やすらぎ」です。「安息」があるのです。
 イエス様はそのような意味を込めて、「わたしは羊の門です」とおっしゃいました。そして、今、私たちイエス様を信じる者は、イエス様という門を通って「救い」が与えられている一人一人です。羊が羊飼いによって守られ日々養われているように、私たちも主なる神様の守りの中で生かされている一人一人です。前回はそのことを学びました。
 さて今日は、イエス様が言われたもう一つのことば、「わたしは良い牧者です」について、考えていきましょう。
 
1 「わたしは良い牧者です」
 
 羊は、とても弱くて自分の力だけでは生きていけない家畜です。羊飼いがいなければ、とっくに絶滅していたと言われるほどです。羊は、自分の身を守る鋭い爪や牙がありませんし、食べ物や水も自分で探し出すことができません。羊は視力が弱くすぐに迷子になってしまいます。
 ですから、羊飼いはいつも緊張感をもって羊を守り、牧草地や水飲み場を確保し、羊が安心して生活できるように世話をしました。しかも、羊飼いは群全体に気を配りながらも、一匹一匹の羊に名前をつけるほどに、羊のことをよく知っていたのです。そういう羊飼いがいるからこそ、羊は安心して生活できるのです。
 そして、素晴らしいことに、聖書は私たちを「羊」にたとえ、主なる神様が「羊飼い」として、私たちを見守り、導いてくださると教えていますね。
 例えば、今日の交読した詩篇23篇は有名です。
 「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。」(詩篇23篇1節2節)
 イザヤ書40章11節にも、愛に満ちた主なる神様の姿がこう表現されています。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ40章11節)
 羊飼いが子羊を抱き寄せるように、父なる神様が私たちに愛を持って接してくださる姿です。
 エゼキエル書34章にも「羊飼い」が出て来ます。少し長いので抜粋してお読みします。
 「わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは良い牧場で彼らを養いわたしが彼らをいこわせる。わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」(エゼキエル34章11節〜16節抜粋)
 ここには何が書いてあるかというと、将来、来られる「救い主」の姿が「良い羊飼い」として預言されているのです。旧約聖書の中には「救い主」をさすことばとして、「人の子」や「油注がれた者」など、沢山あるのですが、実は「良い羊飼い」も「救い主」をさすことばの一つです。
 だから、彼らユダヤ人(パリサイ人)にとって、イエス様が言われた「わたしは良い羊飼いです。」ということばは、現代の私たちが感じる以上に、大きな衝撃だったのです。旧約聖書を読み、その約束を待ち望んでいた彼らにとって、「羊飼いなるお方」は「メシヤ」、「救い主」を意味したからです。その方による「養い」は、民を集めて守り、時の権力者であるローマ政府から解放し、もう一度、ダビデやソロモンの時のようなイスラエル王国の繁栄をもたらすことを意味していたのです。彼らにとっての「良い羊飼い」は、そういう「救い主」を意味していたからです。
 だから、今日の箇所でイエス様が「わたしは、良い牧者です」と言われたとき、当時の人々は、「いったいこいつは何をいっているのだ」「とんでもないこという奴だ」思ったでしょう。だから、彼らは、イエス様がたとえによって語られた意味を理解し受け入れようとはしなかたのです。
 それでは、「良い羊飼い」つまり、「救い主」は、どのようなお方だと、イエス様は言われているでしょう。
 
2 「良い牧者」はどのようなお方か?
 
 (1)「自分の羊を引き出す方」
 
 先週読んだ10章4節で、イエス様は「良い羊飼い」についてこうおっしゃいました。
「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。」(ヨハネ10章4節)
 このイエス様の言葉は、9章でパリサイ人が「目が癒された盲人」を会堂から追放したことを背景にして考えると、意味がより際立ちますね。
 「目が癒された人」は新しい人生を歩み始めました。しかし、パリサイ人たちによってユダヤのコミュニティから追放されてしまったのです。まるで孤独に迷う羊のようです。でも、思い出してください。その後、彼はどうなりましたか。彼が追い出されたことをきいたイエス様が、もう一度、彼に会いに来て下さったのです。
 先ほどの、エゼキエル書に「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。」(エゼキエル34章16節)とあるように、イエス様がまるで「羊飼いのいない羊」のような彼を「見つけ出し、引き出してくださった」のです。
 ですから、ここでイエス様は、彼を追い出したパリサイ人たちに暗にこう言っておられるようですね。「あなた方は、見えるようになった盲人を会堂から追い出した。しかし、わたしは、彼をわたしの羊として引き出したのだ。」と。
 皆さん。目が癒された彼にとって追放されたことは悲しい辛い経験でした。でも、そこで終わりませんでした。イエス様が来て下さったからです。つまり、イエス様との出会いは決して悲しみで終わることはない、イエス様によって、イエス様とともに生きる新しい人生に引き出されたからです。
 私たちも、時々、「イエス様を信じてクリスチャンになったのにどうしてこんなことが起こるのだろう。」「せっかく信じたのに、なぜこんなことが…。」と思うことがあるかもしれません。自分にとって辛く苦しい状況になったと感じる時があるかもしれません。
 でも、たとえそのような中にあっても、イエス様は「あなたはわたしが引き出した羊だ。」「わたしがあなたの人生の先頭に立って歩んでゆく。」「わたしがあなたとともにいて守る。」と言われる羊飼いなるお方です。
 
 (2)「羊のことをよく知っている方」
 
 10章14節でイエス様は言われました。
 「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネ10章14節)
 イエス様は、私たち一人一人のことを、個人的によく知っておられる方です。私たちの性格も、個性も、長所も短所も、強さも弱さも知っておられる。すべてを知った上で「わたしはあなたを決して離れない」といって下さるお方です。
 さらに、イエス様は、15節で「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。」(ヨハネ10章15節)といわれています。凄いことばですね。天の父なる神様が御子イエス様を愛し、親しい関係の中におられるのと同じように、イエス様は私たちを知っておられ、私たちもそんなイエス様を知ることができるのです。
 ですから、私たちは「良い羊飼い」であるイエス様の前で何も気負う必要がありません。格好をつける必要もありません。背伸びしなくても、無理しなくてよいのです。なぜなら、イエス様は私たちのありのままをよく知っておられるからです。私たちは正直な自分であっていいのです。
 そして、イエス様が「羊はその声を聞き分けます」「羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」と言われたように、私たちは、今日も聖書のことばを通して、この礼拝で、賛美の中で、祈りにおいて、イエス様の声を聞き、その声について行くことができます。そこに恵みとやすらぎがあります。
 
 (3)「羊のためにいのちを捨てる方」
 
 イエス様は、10章11節で「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と言われました。でも、そう聞くと、このように思う人がいるかもしれません。「羊飼いが命を捨てたら、残った羊の世話をだれがするのか。」「どんなに羊が大切でも、あくまでも羊は自分や家族の生活を支えるための手段じゃないか。自分が死んだら本末転倒じゃないか。」と。
 確かに、羊飼いが羊の為に命を捨てるなど、本末転倒で、普通では有り得ないことです。でも、イエス様はその「有り得ないこと」をしてくださったのです。なぜでしょうか。「救い主」だからです。救い主は、私たちを救う為に何でもしてくださるお方なのです。それこそ、一匹の迷子の羊をどんな危険な場所までも追いかけて探し見つけ出す羊飼いのように、イエス様は私たちを救ってくださるお方です。イエス様はご自分の命さえも惜しまないお方です。それほどまでに私たちを愛してくださっているのです。
 ヨハネ15章13節でイエス様は言われました。
 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)
 つまり、イエス様はいのちを捨てるほどに私たち一人一人を愛していてくださっているのです。良い羊飼いであるイエス様は、ご自分のいのちよりも羊である私たちが大切なのです。それほどまでに愛してくださるお方がイエス様なのです。
 その方が私たちの先頭に立って人生を導いていってくださるのです。何があってもこの方は私の支えとなり、盾となり、守りとなってくださるお方です。だから、私たちは牙を持つ必要はないし爪を持つ必要もない、羊飼いなるイエス様がいつも共にいてくださるからです。
 良い羊飼いは、「自分の羊を引き出す方」です。また、「羊のことをよく知っている方」です。そして、「羊のためにいのちを捨てる方」なのです。そのお方の愛の中に、守りの中に、ただ恵みによって私たちは生かされているのです。
 
3 一つの群、ひとりの牧者
 
 今日の箇所の最後の段落には、ユダヤ人たち(パリサイ人たち)の反応がかかれていますね。
 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。(ヨハネの福音書10章19節)
 イエス様の話を聞いて、ある人は「あれは悪霊につかれて気が狂っている。自分が救い主だなんて、なんておかしなことを言うのか」といいました。またある人は、「そうはいっても、悪霊がどうして盲人の目をあけることができるのか。」そういって議論を繰り返して彼らはバラバラになっていったのです。
 旧約聖書で、「羊飼いなるお方」は、待ち望んできたメシヤ、キリスト、「救い主」だからです。民を養い支え、ローマ政府から解放し、もう一度、国に繁栄をもたらす存在。彼らにとっての「羊飼い」はそういう存在だからです。だから、イエス様の話しを聞いても、素直な心で受け入れることができなかったのです。皮肉なことに「自分たちこそ神の民、一つの羊の群だ!」と自負しながら、彼らは分裂していくのです。
 でも、皆さん。それとは対象的なことをイエス様は今日の箇所でいわれているのです。10章16節です。
 「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」(ヨハネ10章16節)
 「囲いに属さないほかの羊」というのは、ユダヤ人以外、旧約聖書を知らない「異邦人」のことです。イエス様はその一人一人をも導いて、一つとしてくださると言われました。イエス様を信じる者はユダヤ人でも異邦人でも、皆「一つの群れ」とされるというのです。
 バラバラに分裂していくユダヤ人たちとは対象的に、イエス様の声に聞き従う者は、「ひとりの牧者」にしたがう「一つの群れ」とされていくのです。
 確かに、福音書にはイエス様が、まず神様がお選びになったイスラエルの民(ユダヤ人)に遣わされたとあります。まず、イスラエルが神様に立ち返るようにイエス様は遣わされました。しかし、イエス様の「救い」は決してイスラエルのためだけではありません。なぜなら、聖書に一貫して「彼らを通して、全ての民族が祝福される」とあるように、神様の御思いは初めから「全ての民族」「世界中の全ての人々」へと向けられているからです。ただ、そのご計画には、神様の時と順序があったのです。
 「使徒の働き」に記されているように、「救い」はまず、「ユダヤ人」に伝えられ、それから「全ての民族」、世界中へと広がっていきました。そして、イエス様を救い主と信じる人は、皆、イエス・キリストを「良い羊飼いとした一つの群れ」とされているのです。私たちはその群れに入れられている一人ひとりです。
 皆さん。この地上に生きている私たちは、クリスチャンになれば、「私はこの教会に属している」とか「あの教会に属している」と言いますね。どこかの教会に属します。でも、同時にもっと大きな視点から見るならば、すべての教会に属する人々が、主にあって「一つの群れ」とされて「ひとりの牧者」イエス様に導かれているのです。
 パウロは、ガラテヤ人への手紙3章28節でこう言いました。
 「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」
 皆さん、私たちはみな違いのある一人ひとりです。性別も、年齢も、人種も、国籍も、肌の色も違っています。それぞれが育ってきた環境も違います。これまで集ってきた教会が違う人もいます。いろんな信仰的な伝統や教会の文化も違うかも知れません。しかし、そのような違いは大きな問題ではありません。なぜなら、良い羊飼いであるイエス・キリストにあって一つだからです。
 私たちは、みんな「イエス様あなたを私の救い主として信じます」と告白して「羊の門」を通った一人一人です。ひとりの「良い牧者」であるイエス様に引き出され、命がけの愛で愛されているひとり一人です。イエス様の豊かなめぐみといのちの養いの中に生かされている一人一人です。その恵みに感謝しつつ、この週もともに歩んで参りましょう。