城山キリスト教会説教
二〇二五年一一月一六日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一〇章二二節〜三〇節
 ヨハネの福音書連続説教37
  「あなたはキリストか?」
 
 22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。
26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
30 わたしと父とは一つです。」(新改訳第三版)
 
 皆さん、おはようございます。ヨハネの福音書を読み進めています。前回は10章前半を読み、そこでイエス様がお語りになった「良い羊飼い」のたとえから学びました。今日は10章の後半を読みます。
 さて、ヨハネ福音書の特徴の一つなのですが、ヨハネは、ユダヤ人の色々な祭りを取り上げながら、その祭りと重ね合わせながら、イエス様がなされた「わざ」や「ことば」を紹介しています。
 たとえば、6章では「過越の祭り」について書かれていました。そのお祭りの時期に、イエス様が「五つのパンと二匹の魚」を用いて、五千人以上の人々を養われたことが紹介されています。
 そもそも、「過越の祭り」がどんな祭だったでしょうか。昔、イスラエルの先祖たちがエジプトで奴隷状態だったとき、主なる神様がモーセを指導者としてお立てになり、イスラエルの民をエジプトから救い出してくださいました。その出来事を記念するのが「過ぎ越しの祭り」です。祭りの始めに、子羊を屠り、人々は1週間、種を入れないパンを食べて過ごしました。その時、イエス様は五千人にパンを分け与え「わたしはいのちのパンです」と言われたのです。
 また、7章では、「仮庵の祭り」について書かれていました。「仮庵の祭り」は、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を旅する間、主なる神様が彼らを守り、導き、養ってくださったことを記念するお祭りでした。人々は、荒野でのテント生活を覚えて、木の枝で作った「仮庵」で一週間過ごしました。また、神様が荒野で水を与えてくださったことを記念して、毎朝、祭司が「ギホンの泉」から水を汲み、神殿まで運んで祭壇の脇にそそぐという儀式も行いました。さらに、荒野で神様が、夜は「火の柱」で導いてくださったことを覚える為に、神殿に大きな燭台を建てて炎をともしました。ですから、「仮庵の祭り」は「水の祭り」でもあり、「光を灯す祭り」でもあったわけです。その時、イエス様が、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書がいっているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」「わたしは、世の光です。」と宣言されたのです。
 このように、ヨハネの福音書では、それぞれの祭りで記念された「主なる神様のみわざ」と、「イエス様のみわざ」には重なりがあることを、「旧約聖書で示された神様の約束」が「イエス・キリスト」によって完全に成就されたということを、伝えているのです。
 それを意識しながら読むと、「なるほど、旧約聖書と新約聖書は、ちゃんとつながりがあって、一つなのだ。聖書の神様は真実なお方だ」ということを、深く知ることができるのです。
 さあ、今日の箇所にも、別の「祭り」がでてきますね。「宮きよめの祭り」です。
 
1 宮きよめの祭り
 
「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。」(ヨハネ10章22節)
 
 実は、このお祭りは、先ほど紹介した祭りとは違い、旧約聖書には出て来ません。どこに由来する祭りかというと、旧約聖書から新約聖書の中間の時代(約400年間)です。
 紀元前二世紀の前半、ユダヤの国はセレウコス朝シリアの支配下に置かれていました。シリアの王はユダヤ教を激しく弾圧しました。特に、アンティオコス・エピファネスという王は、エルサレム神殿を略奪して金をはぎとり、神殿の器も持ち去って、それを使って王が酒を飲んだのです。神殿にいつも灯されていた燭台の火も消してしまいました。さらに彼はギリシャの神々を神殿に持ち込んだのです。神殿の中に、異教の神ゼウス像を置き、神殿にある部屋を売春宿にしました。律法の書は焼き払われ、安息日や捧げ物など一切禁じ、命令に背く者は、処刑しました。
 そのようなアンティオコスの圧制に対して立ち上がったのが、ユダヤの祭司の家系「マカベヤ」という人です。彼は民を率いて反乱を起こしました。3年間にもおよぶ激しい戦いの末、勝利したのです。エルサレム神殿を奪回し、異教の像を叩き壊しました。神殿の器も一新され、消えていた燭台にも再び光が灯され、「宮きよめ」を行ったのです。紀元前164年12月25日のことです。そして、この歴史の出来事を記念して、毎年、「宮きよめの祭り」が行われるようになったのです。
 さて、その祭りのとき、イエス様は神殿にある「ソロモンの廊」を歩いておられました。
 「時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。」(ヨハネ10章23節)
 エルサレムの神殿には周囲をぐるりと囲む回廊がありました。「ソロモンの廊」は東側の回廊です。回廊には屋根があり、外側が壁で、内側が吹き抜けになっていました。冬の時期、エルサレムは東風が吹いてとても寒かったのですが、「ソロモンの廊」は東に壁があったので、人々が風をしのぐために自然とこの場所に集まってきたのです。
 そして、そこを歩いておられたイエス様を、ユダヤ人たちがぐるりと取り囲んで、質問したのです。
 
2 「あなたはキリストか?」
 
 彼らはイエス様にこう言いました。
 「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」(ヨハネ10章24節)
 これまで、彼らは、イエス様がおこなった数々の不思議なわざを目撃したり、イエス様が権威をもって語られたことばを聞いていました。前回の箇所では、そんなイエス様に対する、彼らの意見が分かれ分裂したとありました。
 この時は、丁度「宮きよめの祭り」ですから、「もし、イエスがキリストなら、昔、シリアから解放したマカベヤのように、イエスがローマの支配を打ち破ってくれるのではないか」という期待があったのです。また、ユダヤ人の中にはイエス様に敵対心をもっていた人もいましたから、「ここで、イエスが自分のことをキリストだと自称すれば、ローマの反逆者として訴えて陥れることができる」そんな思惑もあったのかもしれません。
 いずれにせよ、イエス様に対して、「はっきりとした態度をしめせ!」と迫ったのです。
 
3 イエス様のお答え
 
 イエス様は、何とお応えになったでしょう。4つお答えになっています。
 
 (1)「わたしは話した。しかし、あなたがたは信じない」
 
 イエス様はユダヤ人たちに、「あなたはキリストか?」と聞かれたのだから、「イエス」か「ノー」でお答えになっても良いですよね。でも、イエス様はこう言われました。
 「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。」(ヨハネ10章25節)
 少し回りくどい答えですね。なぜでしょうか。おそらく、ユダヤ人たちが考えていた「キリスト」(救い主)の意味と、イエス様の使命である「キリスト」の意味にズレがあったからです。
 彼らユダヤ人の理解は「ローマからの解放者」です。そういう「キリスト像」を描いている人たちに対して、もし、ここでイエス様が、「はい。わたしはキリストです。」と答えるなら、大きな誤解を生むことになります。
 聖書は、イエス様が「救い主」として来てくださったのは、決して、人々をこの世の権力から解放するためではなく、全ての人間が生まれながらに抱えている「罪」の問題を解決し、「死の束縛」から解放して救うためだと語っています。それが、聖書全体が示している「キリスト」(救い主)の姿です。
 だから、この時、イエス様は「わたしは、あなたがたが考えているような意味での、キリスト救い主ではありません。」「わたしがどのような意味でのキリストであるかは、既に何度も語っています。」「それを証明するために様々のわざも行ってきました。」「でも、あなたがたは、それを信じ受け入れようとしないではないか」という意味で語られたのです。
 
 (2)「わたしの羊に属していない」
 
 そして、二番目にイエス様は、こう言われました。
 「あなたがたが信じないのは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」(ヨハネ10章26節)
 つまり、イエス様は、「お前はキリストなのか?はっきりと態度を示せ」という彼らに対して、「私が何者であるか」よりも、「あなた自身が、どういう存在なのか」ということのほうが大切だと切り返されているのです。
 前回、「良い羊飼い」のたとえで学びましたね。聖書は、私たち人間を羊にたとえています。皆、弱く、一人では生きることができない羊のような存在です。だから、みんな、人生を導く「良い羊飼い」を必要としています。その「良い羊飼い」がイエス様でした。
 しかし、もし、私たちが「いや私は羊なんかではない。自分の面倒は自分で見られる。羊飼いなんて必要ない」というなら、それは「イエス様の羊に属することを、自分から拒否している」ことです。イエス様が言われた「わたしの羊に属していない」という姿です。
 だから、ここでイエス様がおっしゃったのは、「あなたたちは、わたしがキリスト(救い主)であるかどうかを聞いているが、そもそも、自分がキリストを必要としているのですか。その自覚がありますか。」という投げかけと言えます。
 皆さん、私たちがクリスチャンになったときはどうだったでしょう。それぞれに、色々なきっかけで聖書を知り、イエス様を信じましたね。でも、最初から、「イエス様がどのような方で、何故この方が救い主なのか」と、全部自分で理解して、自分で判断して、それから、「よし、それなら信じてやろう」そういう態度で信じたでしょうか。
 むしろ、自分の姿を見せられて、人生の必要に気づかされて、イエス様を信じたのではないでしょうか。「人生の、この疑問、この問題の解決が欲しい」「私はひとりでは、生きていく自信や強さはない」「誰か、もし確かな存在がいるなら、人生を導いてほしい」どこかで、そう感じて、イエス様を信じ受け入れたのではありませんか。私たちが上から目線でイエス様を判断し信じたのではないですよね。
 振り返ってみれば、イエス様の方から、私たちに近づいてくださり、声をかけ、私たちの羊飼いとなってくださったのです。そうであるならば、私たちが拒絶しない限り、私たちはみんな「イエス様の羊に属するもの」なのです。
 
 (3)わたしは彼らを知っている。
 
 さらに、その大前提として、イエス様は素晴らしいことをおっしゃるのです。
 「わたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10章27節)
 私たちが「よし!がんばって、イエス様について行くぞ!」というのではなく、どこまでもイエス様の方が、「あなたのことを知っているよ」と声をかけてくださるのです。
 前回、アメリカのジョージ・アダム・スミスという人が、パレスチナの井戸で見た光景をお話しましたね。水を飲むために、群れがバラバラになっていた羊たちが、羊飼いが出す独特の声を聞いて、それぞれの群れにもどっていく光景です。それは、まず羊飼いが、羊が生まれた時から、その羊のことを知っていて、羊に声を聞かせ続けてきたからですね。
 そのように、私たちの全てをご存じのイエス様がいてくださるのです。イエス様は、私たちの長所も短所も、強さも弱さも、全てをご存じの上で導いてくださるのですから、私たちはそのお方の前で何も気負う必要はありません。ありのままでついて行くことができるのです。
 
 (4)わたしは永遠のいのちを与える
 
 そして、そのようなイエス様と共に歩む人生には何が約束されているかというと、「永遠のいのち」です。イエス様は、言われました。
 「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10章28節)
 日本語の「いのち」という言葉は、「息のうち」という言葉からきているそうです。「いのち」は、「息があるうち」つまり、私たちの地上の命は限りがあり、いつかは終わりを迎えます。
 でも、聖書は、息がとまっても、心臓が動かなくなっても、地上の命が途絶えても、その死を乗り越えた「決して滅びることがない」いのちがあると語のです。
 イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)と約束されました。イエス様を信じる私たちには、この「永遠のいのち」が与えられるのです。
 そして、その「永遠のいのち」は、死んでからのことだけでなく、「誰もイエス様の手から私たちを奪い去ることはない」とあるように今、この地上で私たちが生活する中で、「イエス様の御手に抱かれ、守られ、導かれる人生」です。私たちが、「今、ここにイエス様がいてくださる」と告白しながら、生きるいのちでもあるのです。
 先週、安武さんが演奏と共にお話してくださいました。その中で、箴言のことば、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章6節)が引用されましたね。この聖書の通り、主なるイエス様が、今、私たちの只中におられることを、安武さんも証してくださいました。
 永遠のいのちは、今、生きておられるイエス様と共にいきるいのちです。それは、「決して誰にも奪われること」がないのです。
 パウロは、ローマ人への手紙8章でこう述べています。
 「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ人への手紙8章38節−39節)
 皆さん、私たちの歩みには、いろいろな困難や試練があります。しかし、何があっても「神様の愛」から「イエス様の恵み」から切り離されることはないのです。私たちは、すべてにまさる偉大な神様の愛の御手で守られているからです。
 今日の礼拝の最初に「招きのことば」を読みました。その申命記7章6節にはこうあります。
 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。(申命記7章6節)
 ここに書いてある通り、神様は、私たちをご自分の宝の民としてくださいました。宝物ですから、決して奪われることのないように、神様の方が大切に私たちを守ってくださるのです。私たちの頑張りや努力でなく、神様の方が、私たちを求め、見つけ出し、宝としてくださいました。
 そして、イエス様も「わたしと父は一つです。」と言われていますから、同じように私たちを宝物のように大切にしてくださっています。その愛と恵みの中に、生かされていることを感謝しつつ、この週もご一緒に歩んでまいりましょう。