城山キリスト教会説教
二〇二五年一一月三〇日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一〇章三一節〜四二節
 ヨハネの福音書連続説教38
  「神の子イエス」
 
 31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。
35 もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。
37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
38 しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」
39 そこで、彼らはまたイエスを捕らえようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。
 40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。
41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言った。
42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。(新改訳第三版)
 
 今朝は、ヨハネの福音書10章の後半から最後までを読んでいただきました。
 前回の箇所でイエス様は宮きよめの祭りの時にエルサレムにおられました。この祭りの由来は、旧約聖書と新約聖書の間の時代、紀元前二世紀頃に起こった「宮きよめ」と呼ばれる出来事にあります。
 当時、ユダヤの国はシリヤに支配され宗教的に激しい弾圧をうけました。その時、ユダヤの祭司の家系であるマカベヤという人物が立ち上がり、民を導いて反乱をおこしました。3年に及ぶ激しい戦いの末、シリヤに勝利したのです。マカベヤは神殿に置かれていた異教の像を打ち壊し、汚された器具も一新しました。「宮きよめ」をおこなったのです。それを記念して始まったのが「宮きよめの祭り」です。
 ですから、この祭りの時、ユダヤの人々はイエス様のところに来て確かめたかったのです。「お前は、キリスト(救い主)なのか?」「昔、マカベヤがシリヤからユダヤを解放したように、今、ローマの支配から私たちを解放しようとしているのか。はっきりと態度を示してほしい。」と迫ったのです。
 イエス様は、彼らの問いに、ストレートに「はい」とも「いいえ」と、お答えになりませんでした。「そのことについては、もう話してきましたし、数々のしるしを行ってきました。それなのにあなた方は、わたしを信じようとしない。」と言われました。それは、この時、彼らがもっていた『地上的な、政治的な解放者としての救い主』理解と、イエス様の使命である「人を罪と死の束縛から解放し、神様との関係を回復する」という「救い主」の理解とにズレがあったからです。
 もし、イエス様が彼らに「はい。その通りです。」とお答えになったなら、そこには大きな誤解が生じるからです。イエス様が英雄として担ぎ上げられて混乱が生じる恐れがあったからです。
 そして、イエス様は、10章30節でこう言われました。
 「わたしと父は一つです。」(ヨハネ10章30節)
つまり「父なる神様とわたしは同じなのだ。」と言われたのです。
 それを聞いたユダヤ人たちは激怒しました。「お前は、人間でありながら、自分の神とするのか!神への冒涜だ!」そういって石をとりイエス様に投げつけて殺そうとしたのです。
 今日の箇所は、そのように怒りに満ちた彼らに対するイエス様の弁明です。今朝、私たちは、そこに込められている大切なテーマ「神の子イエスを信じる」ということをご一緒に考えてまいりましょう。
 
 日本では、よく何かの達人や秀でた人やものに対して「神」ということばが使われますね。やさしく素晴らしい対応を「神対応」、スマホの便利なアプリを「神アプリ」、箱根駅伝の第五区、山登りが強い走者を「山の神」と呼びます。私の世代では、有名な格闘家で山本“KID”徳郁という人が「神の子」と呼ばれていました。
 もちろん、聖書がいう「神の子」は、そう意味ではありません。イエス様ご自身が「わたしと父とは一つです」と言われたように、「神の子」は、「神と同じ本質を持つ方」です。そして、「父なる神に対して、子としての立場を取られるお方」という意味です。
 聖書は、世界を創造された主なる神様は「父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神」の三位一体の神だと語っています。そして、三位一体の神は、いつも同じ御思いを持って、愛と調和の中で共にみわざを行われる「唯一の神」です。
 ですから、今日のテーマである「神の子イエス」と信じるというのは、「イエス・キリストが、人となって来られたまことの神である」ということを信じるという、大切なことなのです。
 イエス様はなんと言われているでしょう。10章34節から36節です。
 「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。」(ヨハネ10章34節〜36節)
 少し理解しにくいですね。一回、読んだだけでは「いったいどういう意味だろうか」と思ってしまいますが、最初にイエス様は「あなたがたの律法に」と言われています。これは、旧約聖書全体をさす表現です。イエス様は彼らがよく知っている旧約聖書を引用してお答えになっているのです。いくつかポイントを絞りながらみていきましょう。
 
1 「わたしは言った、おまえたちは神々である」
 
 イエス様は言われました。「(旧約聖書に)『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。」と。
 これは詩篇82篇6節です。そこにはこうあります。
 「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。」(詩篇82篇6節)
 「お前たち」というは、「裁判官」や「指導者たち」です。彼らは神様から託された尊い働きのゆえに「神々」と表現されることがあったのです。「神様の代理として尊い職務についている者」という尊敬を込めた表現でした。
 イエス様は、そのことばを引用されてこう仰っているのです。「当時の裁判官や指導者たちですら、神々と呼ばれたのだから、まして、父なる神様から遣わされた、わたしが自分のことを神の子といってもおかしくないではないか。」だだ、これだと少し、イエス様がことば遊びのような巧みな言い回しで反論している印象をうけるかもしれません。でも、それだけではないのです。ここから詩篇82篇全体にある、さらに深い意味を読み取ることができるのです。
 ちなみに当時の聖書は、今のように「章」や「節」で区切られていませんでした。だから、イエス様、詩篇82篇のことばを引用されたら、それを聞いたユダヤ人は82篇全体を思い浮かべることができました。
 それでは、82篇はどんな内容かというと、要約すると次のような内容です。
 「神様から働きを託された裁判官やさばき司たちがいる。神様は、彼らが『神々』と呼ばれることをゆるされたけれど、彼らは弱い者を虐げ、悪者に手を貸し、不正を行い貧しい者を助けようともしない。神様、立ち上がって正義を行ってください。早くこの名ばかりの『神々』を裁いてください!」
 そして、イエス様の時代にも同じような状況がありました。神様から働きを託された指導者(祭司長や律法学者)の中には、不正を行い、人々を苦しめる人がいました。民が虐げられている状況がありました。「神様、どうか立ち上がって正義を行ってください。正しい裁きを行ってください」という叫びがあったでしょう。
 だから、このときイエス様は、「イエスよ、お前は神を冒涜している!」と責め立てるユダヤ人たち、特に指導者たちに、「あなたたちこそ、神様の心を忘れ、昔の指導者たちと同じような状態に陥っているではないですか。」とご指摘なさっているのです。
 
2 「聖書は廃棄されるものではない」
 
 そして、イエス様は聖書を引用する流れの中で、「聖書は廃棄されるものではないから」ともおっしゃいました。
 イエス様は同じことをマタイ5章でも言われましたね。
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5章17節ー18節)
 イエス様は、「律法や預言者」(つまり、旧約聖書)を破棄するためではなく、成就し、成し遂げるために来て下さったのです。へブル書10章にもこうあります。
 「キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」(へブル10章5節〜7節)
 イエス様が来られたのは聖書に示された神様のみこころを行うためです。「神と等しいお方」、「神の子」が、人にはできないことを完全に成就するために来てくださったのです。
 確かにイエス様はそのようなお方です。弱く迷いやすい私たち一人一人を見出し引き出してくださるお方です。そして、「良い羊飼い」として、いつも守り養って下さるお方です。苦しんでいる人々を癒し、わずかなパンを用いて多くの人を養い、力あることばで病にある人をいやされました。
 まさに詩篇の祈り、「神よ、立ち上がって地をさばいてください。すべてを治め、弱い者を助け、支えてください!」という祈りの答えがイエス様のうちにありますね。イエス様が成されたみわざ、イエス様がのことば、イエス様ご自身が、人々の叫びに対する神様のお答えなのです。
 ですから、この時、イエス様が言われた「聖書は廃棄されるものではない」は、イエス様ご自身による、聖書に対する保証です。主なる神様は真実なお方で、その約束は決して変わることがないと、イエス様が保証してくださっているのです。だから、私たちはその聖書のことばを信頼することができるのです。
 皆さん。この時代さまざまな情報に溢れていますね。いろんな言葉を聞き、その影響をうけて生きています。でも、全ての言葉が信頼できるかというとそうではないですね。何を信じて、どの情報を選び取って生きていけば良いのかが分からなくなるような時代です。
 しかし、聖書は、100%、信頼することができる確かなことばです。そこに自分の全てを、全存在を乗せて生きていくことができるのです。なぜなら、「神の子イエス」が保証してくださっているからです。
 毎週の礼拝で、日々聖書を読む中で、神様ご自身が私たちに語りかけてくださっているのです。そして、私たちはいつもそこから励まされ、力づけられ、慰めと希望を受けながら生きることができるのです。「神の子キリストの保証」がそこにあるのです。
 
3 「わたしが神の子であることを信じなさい」
 
 今日から、クリスマスを待ち望むアドベント(待降節)に入りました。クリスマスは、神と等しいお方であるイエス様が、私たちと同じ人となって来てくださった出来事です。
 イエス様が、「神なるお方」だから、人のすべての罪を背負って十字架にかかり、罪を完全にあがなうことができるのです。イエス様が「神なるお方」だから、死からよみがえり、イエス様を信じる者に、永遠のいのちを与えることがでるのです。
 イエス様はそのメッセージを「わたしのわざ」を見て信じなさいと言われるのです。37節、38節です。
 「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。」(ヨハネ10章37節、38節)
 つまり、「イエス様が神の子であるということは、イエス様がなさったみわざによって信じることができる」、十分な証拠があるということです。
 そのみわざの目撃証言者であるヨハネが、3年半の間、イエス様と共に過ごし、自分の目でみて、実際に経験したことを紹介しているのです。2章では、「カナの婚礼で水をぶどう酒に」変えられました。(ヨハネ 2:1-11)4章では、「遠く離れた場所にいた王の役人の息子を癒され」ました。(ヨハネ 4:46-54)5章では、「ベテスダの池で38年間病に伏していた人」を癒されました。(ヨハネ 5:1-15)6章では、「わずかなパンと魚で五千人以上の人を養われました」(ヨハネ 6:1-14)同じ、6章では「湖の上を歩かれ」(ヨハネ 6:16-21)自然界をも支配されました。9章では、「生まれつき盲目の人の癒し」をされました。(ヨハネ 9:1-7)
 これら、一つ一つのみわざは決して人にはできないものです。イエス様が「神の子である」ことの証拠です。ヨハネは「私はそれを見たのです!」と、この福音書を通して、今朝も、私たちに伝えているのです。
 そして、同時に福音書はイエス様を「人の子」とも呼んでいますね。私たちと同じ人として来てくださった。そこに私たちと神様との接点が生まれるのです。
 イエス様は、「神の子」なのに、私たちと同じ「人の子」になってくださった。だから、イエス様は私たちを心底理解してくださるし、苦しみも喜びも知っておられるし、どんなときも励まし、人生を支えてくださるのです。そして、私たちもまた、聖書を通して、そのイエス様を理解し知ることができるのです。
 イエス様は、私たちを完全に理解してくださる、「人の子」であると同時に、私たちの思いを遙かに超えた、神様のご計画の中に生かしてくださる「神の子」なのです。
 実は、ヨハネが福音書を書いた時代。教会には既にそのことを否定する間違った教えが入り込みつつありました。だから、ヨハネは何度も繰り返してその大切さを語っているのです。そして、彼が書いた手紙の中でもこう書いています。
 「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(第一ヨハネ4章15節)
 「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第一ヨハネ5章5節)
 皆さん。イエス様が「ただの人にすぎない」と考えるか、それとも「神の子」として認めるか、それは私たちの人生にとって、とても重要なことです。
 なぜなら、ここにあるように、「イエス様、あなたは神の子です」と告白する人のうちに、神なるイエス様がいてくださるからです。また私たちも神なるイエス様のうちにいれられているのです。
 それが意味するのはなんでしょうか。聖書に示された神様の約束、罪の赦しが、永遠のいのちが、豊かな愛が、私たちの中に実現していくということです。
 神の約束を成就し、神の御心を完全に全うしてくださったイエス様が私たちのうちにおられる。だから、イエス様を信じる私たちの内に聖書の約束が豊かに実現していくのです。
 「イヤイヤ、先生、そんなに熱く語られても、そんな風に感じないですよ」と思われるかもしれません。でも、私たちが感じる時も、感じないときでも、イエス様は、昨日も、今日も、いつまでも変わらないお方です。いつも、私たちの思いと共に、私たちの生活の中で、生きて働いてくださっているのです。そのお方が、「わたしがあなたとともにいる」「あなたを決して捨てない」と語ってくださるのです。どんなときも、私たちを守り人生を導いてくださっているのです。
 ヨハネは、このメッセージを感動をもって今朝も私たちに伝えているのです。
 しかし、今日の10章の最後を読むと、ユダヤ人たちはますます反発し、イエス様をとらえようとしました。だから、イエス様は、エルサレムから離れざるえませんでした。以前、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた場所に戻られるのです。 でも、そこでも沢山の人がイエス様のもとに集まりイエス様を信じたのです。
 「神の子イエス」に対して、一方では憎たらしくて石を投げつけたい反応がある。しかし、一方では、このお方がわたしとともにいてくださるという感動が生まれる。
 「いや、クリスチャン生活、いつも、いつも、そんな感動ないですよ」と、思うかも知れない。それでも、私たちの歩みは、このイエス様がともにいてくださる歩みです。
 こうやって毎週主を礼拝する中で、賛美の中で、豊かな喜びを感じることができる。私たちの祈りを、願いを、イエス様が聞いてくださる。そういう者とされて日々を歩むことができるのです。その愛と恵みの中に、自分自身をゆだねながらこの週も歩んで参りましょう。