城山キリスト教会説教
二〇二六年一月一一日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一一章一節〜一六節
 ヨハネの福音書連続説教39
  「主に愛されている者」
 
 1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(新改訳第三版)
 
 私たちは日々の生活の中で「待つ」ということがありますね。皆さんは「待つ」ことが得意でしょうか。私は苦手です。でも、もし仮に誰かが私のために手作りのビーフシチューを作ってくれていて、牛肉がホロホロになるくらい美味しく仕上げるために時間をかけてコトコトと調理してくれていとするなら、きっといつも以上に「待つ」ことができます。「誰かが私のことを大切に思ってくれている」そして、「良いもの与えたい」と考えて時間をかけてくれているなら、私たちの「待つ」ことに対する捉え方は変わってきます。
 聖書は、主なる神様が私たちを愛してくださり大切に思ってくださっていると語ります。そして、時に私たちに「待つ」ということを教えてくださっている箇所もあります。今日の箇所もその一つと言えます。
 ヨハネの福音書11章には、病気で死んでしまったラザロという人をイエス様がよみがえらせてくださった出来事が記されています。今日は前半部分(1節から15節まで)を読んでいただきました。今回は二回に分けて「ラザロのよみがえり」を学びますが、今日の箇所でイエス様は、「急いで来てください」と願うラザロの家族であるマルタとマリヤを「待たされ」ました。それは、イエス様が彼らを愛しておられて、彼らの思いを越えた、イエス様の「時」に、イエス様の「みわざ」をなされるためでした。イエス様は、彼らを「愛しておられた」、そして、彼らを「待たされた」のです。今日はそのことをご一緒に見ていきましょう。
 
1 ラザロと姉妹とイエス様
 
 ラザロには、マルタとマリヤという名の姉妹がいました。福音書によると、彼ら家族はイエス様ととても親しい間柄だったようです。彼らは、ベタニヤというエルサレムからそう遠くない(2.8キロ)場所にある小さな村に住んでいました。イエス様はエルサレムに行かれる際には、よく彼らの家に滞在されました。
 ルカの福音書10章には、マルタとマリヤがイエス様をお迎えした出来事が記されていますね。姉のマルタは準備におわれ、妹マリヤはイエス様の足下に座って話を聞いていました。その様子を見たマルタはマリヤに腹を立て、イエス様に不満をぶつけました。「イエス様。私だけがこんなに働いているのに、何ともお思いにならないのですか。手伝いをするように妹におっしゃってください。」(ルカ10章40節)。普通は家にお客様を迎えたとき、その人に対してこんな内輪の文句を言いませんね。でも、マルタは自分の不満をイエス様に率直に言うことができています。それほど親しい関係性だったことがわかります。
 妹のマリヤも、この先のヨハネ12章に登場します。彼女はイエス様にナルドの香油を注ぎました。イエス様のためなら高価なものをささげることをいとわないほど、慕っていたのです。
 また、マルコの福音書には、イエス様が十字架までの最後の一週間、昼間はエルサレム神殿で過ごし、夜はベタニヤに戻って行かれたと書かれています。おそらくイエス様は彼らの家に滞在されたのでしょう。イエス様にとっても、ベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロの家は数少ないほっとできる場所だったようです。
 そんなある日のことです。ラザロが危篤状態になりました。この時、イエス様はユダヤの宗教指導者から「あいつは神を冒涜している」「なきものにしてやる」と命を狙われていました。だから、イエス様はこの地方を離れベタニヤから歩いて一日ほど離れた場所に滞在されていたのです。
 マルタとマリヤは、イエス様のもとに使いを送りこう伝えました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(ヨハネ11章3節)「イエス様、あなたはラザロを愛してくださっています。彼が死にそうなのです。」
 この「愛しておられる者」という言葉は、この後、11章11節でイエス様がラザロをさして「わたしたちの友」と呼ばれるのですが、その「友(フィロス)」と同じ言葉から派生した語です。さらに、「愛しておられる者」、「友」という言葉は、後のキリスト教会においてクリスチャン一人一人を表す表現として使われるようになるのです。
 例えば、ヨハネ手紙第三の15節にこう書いてあります。「平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。」(第3ヨハネ15節)ここで、ヨハネは、自分の教会員と手紙の宛先の教会員同士を「友人」と呼び合っているのですが、この「友人」という言葉が「愛しておられる者」と同じ言葉なのです。ですから、「主が愛しておられる者」というのは、ラザロだけではなくて、後のクリスチャンたち、そして、今、教会に集う私たち一人一人にもあてはまる言葉なのです。
 今、私たちはイエス様を信じていますね。ということは、みんな「主に愛されている者」です。イエス様は私たちを「友」と呼び、愛してくださっています。そして、マルタとマリヤの声を聞いてくださったように、私たちの祈りの声もきいてくださいます。だから、私たちは自分の問題をそのままイエス様にお伝えすることができます。「イエス様、あなたが愛しておられる私はこういう状態です。」と、何でもイエス様に祈ることができるのです。
 
2 イエス様の対応
 
 (1)神の栄光のために
 
 さて、そのようなマルタとマリヤからの切実な知らせを聞いたイエス様は、こうおっしゃいました。
 「この病気は死で終わるものでなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(ヨハネ11章4節)
 ここでイエス様は「神様の栄光のため」と言われています。以前、ヨハネ9章で「生まれつき目の見えない人」を癒された時にも、イエス様は同じことを言われました。そのとき、弟子たちはイエス様にこう言いました。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9章2節)これは、当時のユダヤ人の普通の考え方でした。病気の原因は本人が犯した罪、もしくは、家族の罪が影響していると考えられていました。だから、弟子たちは「こうなったのは誰のせいですか」と、彼の過去に目をとめ原因を探したのです。
 でも、イエス様はこうおっしゃいました。
 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9章3節)
 イエス様は彼の過去ではなく未来に目を向け、これから先、この人に神様のみわざがなされると語られたのです。そして、そのことばの通りにイエス様は彼の目を癒してくださいました。神様の栄光が現されたのです。
 ラザロに対してもイエス様は同じように言われたのです。「この病は死で終わらない、このことを通して神様の栄光が現される」と。そして、(次回、読む箇所ですが)この後、実際に死んでしまったラザロを生き返らせてくださり、神の栄光が現されるのです。
 皆さん。私たちも自分の過去に縛られやすい存在ですね。何か困難が起こると「あの時のあれが問題だったのでは」「これが悪かったのでは」と、過去に目を向け原因を探ります。もちろん、反省することは大切なのですが、必要以上に過去と現在を結びつけて縛られてしまうことがあります。イエス様は、決して「おまえの罪のせいだ。過去のあの出来事のせいだ。」まして、「先祖のたたりだ。」などとは言われません。イエス様を信じ「主に愛されている私たち」に、「神のわざが現わされる」と語ってくださり、実際に「みわざ」を成してくださるお方です。
 でも、「そう言われても、祈っても、祈っても、問題が解決されないですよ。」「主は本当に私を愛してくださっているのだろうか。」と思う時がありますね。だからこそ、今日の箇所は、私たちにもう一つ大切なことを伝えています。それは、私たちの思いを越えたイエス様の「時」があるということです。
 
 (2)イエス様の「時」に
 
 この時、「ラザロ危篤」の知らせを受けたイエス様はすぐには出発されませんでした。こう書いてあります。
 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。(ヨハネ11章5節−6節)
 皆さん。不思議に思いませんか。「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とあるのですから、普通なら、「だから、イエスは急いで出発した。」とか「イエスはすぐにラザロのところに向かわれた。」と続くのではないでしょうか。でも、この時、イエス様は「なお二日とどまられた」のです。
 イエス様がおられた場所からベタニヤまでは約一日の距離です。使いの者がマルタとマリヤのもとから出発してイエス様のもとに着くまでに一日。そこからイエス様が二日とどまられて三日。出発してベタニヤまで一日。合計で四日も経ってしまうのです。
 もし、自分が待つ立場だったら、この四日間がどんなに長く感じることでしょう。「イエス様、愛しておられるなら、なぜもっと早く来てくださらないのでしょうか。」と言いたくなります。
 私はこの箇所を読んで思い出した人がいます。マルコ福音書5章に登場するヤイロという人です。
 彼にも病気で危篤の娘がいました。「イエス様に何とかして欲しい」と願ってイエス様のもとにやってきました。「イエス様、私の小さい娘が死にかけています。どうか来て下さい」とイエス様の前にひれ伏して願いました。するとイエス様はすぐに家にきてくれることになりました。「これで安心だ」ヤイロはホッとしたでしょう。でも、その途中に予期せぬ事が起きます。突然、12年間、病に苦しんでいた女性が現れて、イエス様に癒されるという出来事がおきたのです。癒された女性は誰にも分からないようにその場を去ろうとしたのですが、なんとイエス様はわざわざ彼女を近くに呼び寄せて話し始めたのです。ヤイロにしてみれば気が気ではありません。「イエス様、一分一秒でも早く娘のところに来て欲しいのです。」そんな気持ちです。しかも、その途中に家から使いの者がやって来て、「お嬢さんはなくなりました。」と言うではありませんか。ヤイロは絶望に突き落とされました。しかし、そんな彼にイエス様は、「恐れないでただ信じていいなさい」(マルコ5章36節)と語られたのです。そして、そのことばの通り、後にイエス様は亡くなった娘をよみがえらせてくださったのです。ヤイロは「待たされ」ました。今来て欲しいという時にイエス様はきてくださいませんでした。しかし、ヤイロは自分ではもうどうすることもできない状況で、イエス様の「時」に、イエス様の「みわざ」を体験したのです。
 私たちにも、祈ってもすぐに問題が解決しないときがあります。自分が願う時や方法にあてはまらないと、「イエス様、何故ですか。どうしてすぐに答えてくださらないのですか。私を愛してくださっていないのですか。」そう考えてしまうことがあるかもしれません。でも、聖書は「主はあなたを愛してくださっている」「その愛は変わらない」と教えています。そして、そのお方の時を「待つ」場合があるとも、教えるのです。もちろん、祈ってすぐに答られるときもあります。感謝です。でも、それだけがイエス様の愛ではないのです。時には、主が「愛しおられるから」こそ「待つ」ということもあるのです。
 その上で、イエス様の時に、イエス様の方法で、最善をさしてくだるのです。問題の最中では、そう思えないかもしれません。でも、聖書は、私たちが失望することがあっても、けして失望で終わらせることがないと約束しています。イエス様のことばとみわざの確かさが、こうやって聖書に記録されて、今も尚、世界中の人が励まされ、私たち一人一人も励ましをうけることできるのです。
 詩篇27篇14節にこうあります。
「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」(詩篇27篇14節)
 旧約聖書ハバクク書2章3節にもこうあります。
「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2章3節)
 どんなに「時」が遅く感じても、私たちを愛してくださっている主の愛は変わりません。「待つ」ことがあっても、主は最善のタイミングで、主の最善のみわざを行ってくださいます。
 
3 ラザロのもとへ
 
 さあ、ラザロ危篤の知らせを受けてから二日たって、イエス様はいよいよ「もう一度ユダヤに行こう」(ヨハネ11章7節)といわれました。
 すると、今度は弟子たちが心配してこう言ったのです。
 「今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」(ヨハネ11章8節)
 しかし、イエス様は、「大丈夫、太陽が上っている昼間に歩けばつまずかないように、神様がいのちをあたえてくださっている間は、どんな迫害があっても大丈夫、心配しなくてもよい。」と答えられました。
 さらに、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」(ヨハネ11章11節)「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(ヨハネ11章14節―15節)そう言われてラザロのもとに向かわれました。
 最終的にイエス様がベタニヤに到着されるのは、ラザロが亡くなってから四日も経ってからでした。つまり、彼が完全に亡くなったということに疑問の余地がなくなります。
 しかし、それによって、この後イエス様が「死んだ人をよみがえらせることのできる方」であることがよりはっきりと示されることになるのです。この続きは(11章後半は)、次回、ご一緒にみることにします。
 最後に、皆さん。今日の箇所にある大切なメッセージを振り返ります。
 
 (1) 私たちは「主に愛されている者」です。
 
 イエス様は、私たちを愛し、最善を成してくださるお方です。だから、自分のありのままをイエス様に祈りお伝えしましょう。今、抱えている問題を、苦しみ、悲しみを、願いをそのまま祈っていきましょう。イエス様は私たちの祈りをしっかりと聞いてくださっています。
 また、祈ってもすぐに答えられないときがあるかもしれません。でも、大丈夫です。
 
 (2) イエス様の「時」があるからです。
 
 「イエスは・・・なお二日とどまられた」ように、私たちも「待つ」ことがあるかもしれません。しかし、主の御計画は私たちが思うよりもずっとずっと大きいのです。「主よ、もうお手上げです。自分ではどうすることもできません。」たとえ、そのような状況の中でも、主の最善のみわざをなしてくださいます。
 「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2章3節)
 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3章11節)
 この約束を告白しつつ、「主に愛されている者」として、この週も歩んで参りましょう。