城山キリスト教会説教
二〇二六年一月二五日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一一章一七節〜四五節
 ヨハネの福音書連続説教40
  「死を打ち破るお方」
 
 17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。
29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
 30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。
31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
 38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
 45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
                    (新改訳第三版)
 
 皆さん。私たち人間には「喜怒哀楽」というものがありますね。嬉しいことがあると「喜び」ます。腹が立つと「怒り」ます。辛いことがあると「悲しみ」、楽しいときには「楽しむ」。これらは人としての自然な感情です。聖書を読むとイエス様も感情表現が豊かです。特に今日の箇所でイエス様は「憤り」「涙し」「大声で叫」んでおられます。何に対して「憤り」「涙し」「叫ばれた」のでしょうか。ラザロがよみがえった出来事の続きを、ご一緒に見ていきましょう。
 前回の流れを振り返ります。ラザロにはマルタとマリヤと言う姉妹がいました。彼らはベタニヤというエルサレムから3キロほど離れた村に住んでいました。イエス様はよく彼らの家に滞在され、とても親しい間柄でした。
 ある時、ラザロが病気で危篤状態になったのです。マルタとマリヤは急いでイエス様のもとに遣いを送り、「あなたの愛する者が病気です。」と伝えました。この「あなたの愛する者」という呼び方は、後のキリスト教会においてイエス様を信じるクリスチャン一人一人を指す表現として使われるようになりました。イエス様はラザロもマルタもマリヤも愛しておられました。そして、同じように、今イエス様を信じている私たち一人ひとりのことも「愛する者」と呼んでくださいます。
 しかし、この時、イエス様は「愛する者ラザロ」が危篤という知らせを聞いてもすぐに出発されませんでした。なお「二日その場所にとどまられた」のです。「一刻も早く来て欲しい」というマルタとマリヤの思いを越えた、イエス様の「御思い」とイエス様「時」があったからです。
 前回、私たちは、そこから、イエス様が私たち一人ひとりを愛してくださっていることを確認するとともに、私たちの考える方法や時を越えた、イエス様の「とき」があるということ、そして、イエス様は私たちの思いを越えた最善をなしてくださるということを学びました。
 さあ、今日は、いよいよイエス様がラザロのもとに到着し彼をよみがえらせてくださった出来事です。
 
1 ベタニヤに到着されたイエス様
 
 イエス様がベタニヤの村に到着された時、残念ながら「ラザロは死んで墓に葬られて、四日もたっていた」(ヨハネ11章17節)とあります。
 当時のユダヤの習慣では、人が亡くなるとなるべくはやく墓に葬りました。ある文献によると、当時、次のような考えがあったそうです。
 「死者の魂は三日、遺体の上を漂って元の体に戻ろうとする。でも、遺体が腐敗しはじめる四日目ごろからは、もう魂が体に戻ることをあきらめて去って行く。」
 つまり、イエス様がベタニヤに到着されたときに「四日もたっていた」ということは、当時のユダヤの理解では「もうラザロの魂は体にもどることがない」「人間的に考えて100%望みがない」という状況だったということがわかります。そのようなタイミングでイエス様は到着されたのです。
 その時、「大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた」(ヨハネ11章19節)ました。
 当時のお葬式は、一週間、人々は嘆き悲しんで過ごしました。ラザロを慕う大勢の人が集まって嘆き悲しみ、マルタとマリヤを慰めていたのです。
 皆さん、私たちにとっても悲しい時にそばにいてくれる存在は本当に慰めですね。一緒に涙を流してくれる人々が、そばにいるということは、人にとって大きな支えです。この時のマルタとマリヤの周りにもそのような仲間が大勢いたのです。
 そこへ、「イエス様がベタニヤに到着された」という知らせが入ってきました。マルタは大急ぎでイエス様のところに行きました。
 
2 マルタとマリヤの思い
 
 マルタは、開口一番、イエス様こう言いました。
「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11章21節)
 「イエス様、なぜ、もっと早くきてくださらなかったのですか。あなたがおられて、神様に求めてくださったら、ラザロは死ななかったはずです。」という気持ちですね。もちろん、マルタはイエス様がラザロを愛しておられることも、最善をなしてくださることも信じていました。でも、それは「ラザロの息がまだあるうちに、イエス様が来て下されば大丈夫」という考えでした。でも、「ラザロが死んでしまった今は手遅れ、イエス様がどうすることもできない」と思っていたようです。
 すると、そんなマルタにイエス様はこう言われました。
 「あなたの兄弟はよみがえります。」(ヨハネ11章23節)
 マルタは、すぐにこう言いました。
 「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」(ヨハネ11章24節)
 これは、当時多くのユダヤ人たちがもっていた理解です。「やがて、この世の終わりの日がくるとき、死んだ者が復活する」という信仰を、当時の人たち、そして、マルタも持っていたのです。でも、それは「いつか」であって、「今」ではありませんでした。彼女は、イエス様が実際に死んだ人を、今よみがえらせる力を持っておられるとは考えもしませんでした。
 すると、イエス様はさらに続けて、こう言われました。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11章25ー26節)
 マルタは、答えました。
 「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11章25ー26節)
 素晴らしい告白ですね。「イエス様、あなたは神と等しいお方、聖書が約束している救い主だと、私は信じています。」ヨハネは、福音書を読む全ての人が、このことを信じ告白することを目的として記しました。ですから、このマルタの告白は、素晴らしい告白です。
 でも、この先を読み進めると分かるのですが、マルタはイエス様がラザロの墓をあけなさいといわれたとき、「もう、死んで臭くなっています。」と言っています。つまり、この時、マルタのイエス様のことばに対する理解は、まだどこか漠然としていて、イエス様の意図を十分には理解していなかったようなのです。
 イエス様は、「今」「現在」のことを言われました。でも、マルタは、イエス様のことばが、「今」ではなく「遠い将来」に起こることのように感じていたのです。
 そして、マルタは、家にいたマリヤを呼んで、イエス様のもとに連れてきました。妹のマリヤも、マルタと同じ反応でした。
 「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」(ヨハネ11章32節)
 マルタもマリヤも、「生きているときにイエス様が、おそばにいてくれたら大丈夫だ」というイエス様への信頼を持っていました。また、「いつか終わりの日によみがえる」ということも、「イエス様が神の子キリストである」ことも、漠然とですが信じていました。でも、今の自分の悲しみの現実とは結びつかなかったのです。
 でも、これは正直な反応だと思いませんか。家族が亡くなった悲しみと失望の中で、いきなりイエス様に「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われても、「一体、イエス様は何をおっしゃっているのですか」「なんで早くきてくださらなかったのですか」「生きているうちにきてくださらないと意味がないじゃないですか」と考えるのは自然な反応です。兄弟ラザロが生きかえるなんて、彼女たちの予想を遙かに超えたものだからです。
 しかし、イエス様は、そんな彼女たちをけして責めてはおられません。彼女たちの正直な思いをそのまま受けとめてくださっています。その上で、イエス様は、ご自分語られたことばの通り、行動してくださるのです。
 
3 ラザロの墓へ
 
 イエス様はラザロの墓に向かわれました。そこには、彼らを慕って集まり、涙を流している人々が大勢いました。それをご覧になったイエス様の様子、激しい感情が書かれています。
 
 (1)「霊の憤りを覚えた」
 
 「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(ヨハネ11章33節)というのは、「身震いする、自分自身を震わせる」という激しい感情を表す言葉です。イエス様は激しく憤られたのです。何に対して憤り、心の動揺を感じられたのでしょうか。悲しんで泣いている人々でしょうか。そんなことはありません。イエス様のことばの真意を理解することができないマルタとマリヤに対してでしょうか。それも違います。ここでイエス様が覚えられた憤り、それは人を悲しませ、失望に突き落とす「死」に対してです。「人の罪」によってもたらされた「死」に対してです。
 「死」は、人にはどうすることもできません。人は死に対して無力です。だから、私たちはみんな「死」を恐れますし、なるべく考えないようにします。でも、イエス様は「死」に対して正面から憤られたのです。そこから、イエス様が人を絶望に突き落とす「死」を打ち破るお方、そこから私たちを解放しいのちを与える「救い主」であることがわかります。イエス様は私を愛しておられるからこそ、私たちを失望に突き落とす「死」に対して激しく憤ってくださったのです。
 
 (2)「涙を流された」
 
 そして、イエス様は悲しんでいる人と一緒に「涙を流された」(ヨハネ11章35節)とあります。イエス様は泣く者と一緒に泣いてくださる方です。私たちの悲しみや弱さに同情できない方ではありません。共に涙を流してくださいます。先ほど、いっしょに涙を流してくれる存在がどれほど大きいかと話しました。もしかしたら「私にはそんな人いない」と思われる人がいるかもしれません。たとえ、そうでもイエス様がおられます。イエス様がいっしょに泣いて下さるのです。
 しかも、素晴らしいことに、聖書には神様が、その涙を拭ってくださるとも書いてあります。イザヤ書25章8節には、「神である主はすべての顔から涙をぬぐい」(イザヤ25章8節)とあります。さらに、ヨハネの黙示録21章4節には、神ご自身が「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(黙示録21章4節)と書かれています。だから、私たちは、天の父なる神様の愛の中で、ともに涙を流してくださるイエス様の前で、信じる者のうちに住んでくださる聖霊なる神様の慰めの中で、安心して泣いていいのです。
 
 (3) 「大声で叫ばれた」
 
 イエス様は墓の前に立たれました。墓をふさいでいる石をとりのけるようにお命じになり、神様に祈られ、大声で叫ばれました。
 「ラザロよ。出て来なさい。」(ヨハネ11章43節)
 すると、ラザロが「手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。」(ヨハネ11章44節)と書いてあります。死後四日もたって、普通なら腐敗が始まっている、そんな彼が埋葬されたままの姿でよみがえって墓から出て来たのです。普通では考えられない奇蹟が起こりました。マルタとマリヤもびっくりして、喜んだことでしょう。「イエス様がおっしゃった通りだ!」本当によみがえらせてくださった。周囲にいた大勢の人も驚いて、そして、この出来事を通して、イエス様を信じたのです。
 イエス様は、語られたことばの通り、死んだラザロを復活させてくださいました。そして、この奇蹟(しるし)によって、イエス様が「神の子」「救い主」であることがはっきりと示されたのです。この奇蹟は、ヨハネがこの福音書の中で紹介している七つのしるしの最後です
 イエス様は、マルタに言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11章25節)このことばが真実であり、イエス様は、「死に打ち勝つことの出来るお方、いのちを与えるお方」であるということが、ここで明確に表されたのです。ヨハネは「私はそれを見た!目撃者です!だから、信じてください!」と伝えているのです。
 そして、この後、イエス様はいよいよ十字架に向かって進んでいかれます。ご自分のいのちをかけて十字架に架かり、ご自身も死から復活されることによって、イエス様を信じるすべての人が、やがて復活して永遠の命が与えられるという約束が確かなものとされていくのです。
 
 皆さん。前回と今回でラザロの復活の出来事を見ました。もちろん、今、私たちはラザロのように死んですぐに生き返るわけではありません。この時、よみがえったラザロもこのあと永遠に生き続けたわけではありませんでした。この地上の死を経験しました。同じように、私たちもみんないつか心臓がとまり、呼吸は絶え、人生の終わりを迎えます。
 でも、そこで終わりではありません。聖書は約束しています。イエス・キリストを信じる者は、たとえこの肉体のいのちが終わっても、やがて復活し、天の御国に入れられ、神様と共に生きるという永遠のいのちが与えられると。その「永遠のいのちの」約束は、「遠い将来」だけではなく、今の私たちにも希望を与えるものです。なぜなら、今も生きておられるイエス様が信じる私たちとともにいてくださるからです。
 私は、今回、「ラザロの復活の出来事」を読みながら改めて思いました。「イエス様は死を解決してくださった。誰にも解決できない問題である死をイエス様が解決してくださったのなら、イエス様に解決できない問題はないということだ。ということは、私が日々抱えている様々な問題にも、イエス様は解決を与えてくださるお方だ。私を愛し、大切に思い、イエス様の時に、イエス様の方法で最善をなしてくださるのだ」と。そう考えると、「イエス様に、このこともあのこともお任せして信頼していこう」そういう思いがわき上がってきたのです。
 私たちには、時には「自分ではもう無理だ」「イエス様は、ここまで解決してくださるかも知れないけれども、ここからは難しいだろう」そのように思ってしまうこともあるかも知れません。でも、イエス様は人にとって究極の問題である「死」を打ち破ってくださったお方です。だから、イエス様の御手が届かないところはない、イエス様の光が照らされない場所はないのです。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と語られたイエス様は、今日も、私たちのただ中にいてくだささいます。その幸いを覚えながらこの一週間も歩んでいきましょう。