城山キリスト教会説教
二〇二六年二月八日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一一章四六節〜五七節
ヨハネの福音書連続説教41
「ひとりの人が民の代わりに」
46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。
47 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。
48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。
「あなたがたは全然何もわかっていない。
50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
53 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。
54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。
55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。
56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」
57 さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。(新改訳第三版)
前回は、イエス様がベタニヤの村で、死んでしまったラザロを墓からよみがえらせてくださった出来事を読みました。その最後、11章45節はこう締めくくられましたね。
そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(ヨハネ11章45節)
ラザロがよみがえるという素晴らしい出来事を目撃した大勢の人が、イエス様を信じたのです。でも、今日の箇所の冒頭46節にはこうあります。 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。(ヨハネ11章46節)どうやら、この時、イエス様に敵対していたパリサイ人たちの指示で、その様子を見張っていた人がいたようです。彼らは「イエスがまた騒動を起こしました。民を惑わしています。」とパリサイ人たちに報告したのです。これまでも、イエス様に対して、好意的な反応と否定的な反応がありました。イエス様を受け入れる人と、イエス様に敵対する人、両方いました。どんなに素晴らしい晴らしい奇蹟を体験しても、全ての人がイエス様への信仰に導かれるのではないということがわかりますね。ある人々はイエス様を信頼し、ある人々はイエス様に反発するということがあります。ラザロの出来事の後もそうでした。「多くの人がイエス様を信じる」と同時に「ある人たちは、その出来事を否定的に捕らえ報告した」のです。
今日の箇所は、報告を受けたエルサレムの宗教指導者たちの反応です。ご一緒に見ていきましょう。
1 議会(サンヘドリン)の招集
そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。」(ヨハネの福音書11章47節)
イエス様がなさったことを聞いた彼らは緊急で議会を招集しました。「パリサイ人」は「律法学者たち」のことです。「祭司長」は原文では複数形で書かれていますので「祭司長たち」です。当時「パリサイ人」と「祭司長たち」は対立し普段は仲が悪かったのです。しかし、イエス様に対しては共通の敵対心をもっていたので、「敵の敵は味方」というわけで、一緒に「議会」を開いて、どうすればよいか対策を練ったのです。
このとき開かれた「議会」は、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)と呼ばれます。祭司、律法学者、民の長老などから選ばれた70人で構成されました。国会議員のような存在です。政治的、宗教的なリーダーでエリートたちです。彼らは、イエス様に脅威を感じ「恐れ」を持ったのです。どのような「恐れ」だったのでしょうか。
(1)「民の心が離れる恐れ」
一つは「民の心が自分たちから離れてしまう」という恐れです。48節にはこうありますね。
「もし、あの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。」(ヨハネ11章48節)
「このままイエスをほっておいたら、民が私たちから離れていってしまう!」という思いです。本来、祭司長、律法学者、長老は、民を自分たちにではなく、神様のもとに導く役割を託された人たちですね。祭司は「礼拝に仕える人」です。律法学者は「聖書から神のみこころを学び、民を教え導く人」です。長老は人々の生活の問題やトラブルを愛をもって解決する「民の指導者」です。しかし、この時の彼らはそれとはほど遠い姿でした。人々を愛を持って正しく導いて欲しいと願っておられる神様のみ心から遠く離れてしまっている姿です。彼らは、神様に遣わされ、人を愛し、養い、導いておられるイエス様を決して認めようとはしませんでした。「あのイエスのせいで、民が私たちから離れ、自分たちの地位が脅かされてしまう。」と恐れたのです。
(2) 「ローマへの恐れ」
さらに、彼らは「ローマに対する恐れ」も抱いていました。48節で、彼らはこうも言っています。
「ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」(ヨハネ11章48節)
当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありましたから、民がイエス様を「解放者」として担ぎ上げてローマに対して暴動でも起こしたらどうでしょうか。たちまちにローマ軍が乗り込んできます。ローマは土地を奪い、エルサレム神殿を壊し、ユダヤ議会も解散させられてしまうでしょう。そうすると国を失うと同時に自分の立場も奪われてしまうのです。彼らはそれを恐れたのです。自分の地位、名誉、権力、富、それらを守りたいという自己保身からくる恐れです。
でも、皆さん。これは当時だけでなく、いつの時代でも、国が違っても、立場が違っても、見え隠れする人間の姿ですね。人は、自分の利益や権利や立場を守りたいという自己中心的な思い持ち、自分に不利な言動をする人を恐れ、そういう人たちを排除したいという思いを持ってしまう傾向があるのではないでしょうか。
だから、パウロも国を治めるリーダーたちの為に祈りなさいと勧めていますね。
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。…そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。(第1テモテ2章1節〜3節)
今日は衆議院選挙があります。私たちも神様の前に正しく政治が行われるように国のリーダーたちの為に祈りたいと思います。
2 大祭司カヤパの言葉
さて、緊急招集された最高議会が進む中で、ある人物が口を開きました。
しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った(ヨハネ11章49節)
議長をしていた、大祭司カヤパです。彼は、紀元18年から36年まで18年間、大祭司の役目を勤めました。これは当時としては長い任期でした。彼は上手くローマに取り入って権力の座に居座っていた人物で、非常に政治的で冷徹な男だったと言われています。
古代歴史家のヨセフォスは、カヤパについてこう言っています。「カヤパは典型的なサドカイ派の人物で、彼らサドカイ派はぶっきらぼうで雑な会話する…」と。
カヤパは、かなり乱暴な議事の進め方をしたようです。普段は対立している律法学者と、祭司長たちが、イエス様を巡って、やれ「民衆が暴動を起こす!」「ローマ軍が来たら大変だ!」「国が危うい!」「俺たちの権利はどうなる!」と、ザワつく会話中で、議長カヤパが偉そうに語りだすのです。
「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」(ヨハネの福音書11章49、50節)
確かに偉そうですね。民のエリートや優秀な人たちが集まっている最高議会で、全員を見下した発言です。「お前ら何もわかっちゃない!」と。そして、こう続けたのです。「このままだと、国も神殿も(私たちの立場も)奪われてしまう。だから、イエスを殺すほかないだろう。それが一番『得』ではなか!」
カヤパはイエス様に実際あったことはなかったでしょう。イエス様の人格にも触れず、語られたことばも聞かず、みわざも見ていなかったでしょう。カヤパにとっては、「イエスが正しいか、正しくないか」など、全く関係ありません。ただ、自分にとって「得か、損か」それだけが彼の判断基準です。実際のイエス様を知ろうとせず、確かめることもせず、自分にとってプラスかマイナスかのみで、「イエス?あんなやつ、殺すしかないだろう。それが一番、得じゃないか。」と言い放ったのです。
そして、議会は大祭司カヤパの提案の通りに進み一つの結論がだされました。53節です。
そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。(ヨハネ11章53節)
これまでヨハネの福音書を読み進めてきて、イエス様に対する多くの反発がありました。イエス様は石打ちになりそうなときもありました。でも、それらは一部のユダヤ人によるものでしたし、限定的で突発的なものだったと言えます。しかし、ここから深刻さのレベルが上がったのです。国の最高権力によって、具体的に「イエス殺害計画」が立てられ、行動に移されていくのです。
そして、「イエス殺害計画」は、すぐさま人々の間に知れ渡りました。丁度「過越の祭り」の時期でしたから、多くのユダヤ人がエルサレム神殿に巡礼にきていました。集まった人々の話題の中心はイエス様でした。「おい、どう思う?あのイエスは過越の祭りにくると思うか?」「来るわけないでしょう。」「お偉いさん方に目の敵にされ命を狙われているのだから」。実際、この時、「イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令」(指名手配)が出されました。つまり、もし、イエス様がエルサレムにお入りになれば、いよいよ逮捕と死刑が現実のものとなるといえる危険な状態だったわけです。
このように、イエス様を具体的に十字架の死に追いやっていったのは、指導者たちの「恐れ」、自分たちの利益を守る「自己保身」「自己中心」「自分勝手」な姿だったのです。ラザロ復活という素晴らしい出来事の直後に、人間のドロドロとした愚かさがあぶり出されているのです。
イエス様はそのことをすべてご存じの上で、それでも尚、ご自分の使命である「十字架」に向かって、まっすぐに一歩一歩進んでいかれるのです。
3 「ひとりの人が民の代わりに」
さて、福音書を書いたヨハネは、今日の箇所で大祭司カヤパが「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、得だ!」と語ったあとに解説をいれています。テレビ番組で言えばナレーションのようなものですね。次のように説明しています。
ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。 (ヨハネの福音書11章51節、52節)
ヨハネは、カヤパの自分勝手な言葉は、「彼が自分から言ったのではなくて…預言したのである。」と記しています。つまり、「神様が、大祭司という役割の故に、彼を通して語られたのだ」と解説しているのです。旧約聖書の時代から、大祭司には神様と人との仲介をする役割がありました。大祭司が語る言葉の中には、神様からの預言が示されている場合があったわけです。神様に誠実に仕える大祭司なら自覚を持って語ることができたでしょう。しかし、この時のカヤパは、ただ自分の利益を守るために「イエスを殺そう」と言いました。しかし、神様は、その言葉をも用いて、神様のご計画を示してくださったのです。イエス様の十字架について語っておられるのです。
それでは、カヤパが自分で知らずに語ったイエス様の十字架についての預言はどんなものでしょう。
(1) 「全ての人のため」
一つは、十字架は全ての人々のためということです。カヤパは言いました。「ひとりの人(イエス)が民の代わりに死ねばいい」と。それは、自分たちユダヤ人のためです。「そしたら、暴動も起こることもないし、ローマ軍に襲われることもない、自分たちの国が守られる」からです。でも、神様の御思いは、「ひとりの人(イエス様)が民の代わりに死」のうとしておられるのは、ユダヤの民だけでなく、「散らされている神の子たち」、つまり、世界中のあらゆる民族から起こされる、「イエス様を信じる者たち全て」が救われるためだと告げられたのです。イエス・キリストの十字架は、一部の人の為だけでなく、世界中全ての人のためです。そのためにイエス様はいのちを捧げてくださいました。
(2) 「滅びから救うため」
そして、二つ目は、十字架は「滅びから救うため」のものです。カヤパや指導者たちは「恐れ」ました。その「恐れ」は「民の心が離れ、暴動がおきて、ローマに攻められる」「ユダヤの国が滅ぼされる」ことです。でも、神様が聖書を通して語っておられる、人にとって最大の「恐れ」は、永遠の「滅び」です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3章16節)とありますが、ここで言われている「滅び」は、聖書では、「失われた状態」、「迷っている状態」という意味があります。別のことばで「罪」といいます。」この天地と私たちを、愛をもってお造りになった主なる神様から離れて迷っているような状態です。神様がわからなくなって、生きる価値や目的を見失っている状態です。神様に信頼し、応答し、愛のなかを生きる「いのち」を失っている状態です。 イエス様は、その「滅び」の状態から、「罪」から、すべての人を救い出すためにこの地上に来てくださって十字架に架かられたのです。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)とある通りです。「ひとりの人(イエス・キリスト)が、民の代わりに(十字架で)死なれる」ことによって、全ての人が「滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ことができるのです。イエス様を信じる私たちは、今そのいのちが与えた一人ひとりです。
(3) 「一つに集めるため」
そして、イエス様の十字架は「信じる者を一つに集めるため」とあります。イエス様を信じて救いを受け取った一人一人が、イエス様によって集められて一つになるというのです。
イエス様は、以前、ヨハネ10章16節でこういわれました。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」イエス様を信じる一人ひとりが、羊飼いであるイエス様によって「一つの群れ」とされているということです。
皆さん。私たちは皆違いがあります。教会を見回しても誰一人同じ人はいません。クリスチャンになったからって、みんなが同じようになるわけではありませんし、その必要もありません。でも、同じイエス様を信じているから、違いはあってもイエス様によって「一つの群れ」とされているのです。それが教会です。教会は人の好みや、誰かの圧力や、厳しい規則で繋がっているのではなくて、ただイエス様がご自身のいのちを捧げてくださったことによって、その大きな愛によって繋ぎ合わされた一人ひとりです。
私たちは、今日も一緒に礼拝を捧げ、聖書のみことばから、同じイエス様の声に耳をかたむけています。イエス様という一人のお方に賛美をささげました。心を合わせて祈りました。イエス様の十字架によって繋がれた「一つの群れ」の姿です。
時には、いろんな事情で教会に行けない時があるかもしれません。だからといって、「ああ、自分は『群れ』から離されてしまったのではないか」と思われるかも知れません。でも、そんなことはありません。イエス様によって繋がっているから一人ではないのです。
もちろん実際に教会に集まれたら素晴らしいことです。でも、たとえ集まれないときでも、「イエス様、あなたは私とともにいてくださるのですね。そして、あなたによって繋がれた一つの群れとされているのですね。私はその一員なのですね。」と、告白しながら歩んでゆけばいいのです。
そう考えるとき、こうやって共に集まって礼拝できることも素晴らしいですし、たとえそうでない時があったとしても、共に祈り合い、支え合うことのできる「教会の仲間」が与えられていることは本当に素晴らしいことです。イエス様は、私たちがそのように安心してクリスチャンライフを送ることができるためにも、あの十字架で尊い命を捧げてくださったのです。
今日の礼拝の始めに「招きのことば」で読みました。
ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3章28節)
今日、改めてイエス様の十字架の意味を握りましょう。イエス様は「全ての民の身代わりになって」十字架で死んでくださいました。それは、私を「滅び」から「救い」、「永遠のいのち」を与えてくださるためです。そして、私たちを「一つの群れ」とするためです。その恵みを感謝しつつ、この一週間も歩んでいきましょう。