城山キリスト教会説教
二〇二六年二月二二日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一二章一節〜一一節
 ヨハネの福音書連続説教42
  「最も高価なものを」
 
 1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
 9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書12章に入りました。前回までを振り返りますが、イエス様はベタニヤに住むラザロを生き返らせてくださいました。そのことは、すぐにエルサレムの宗教指導者たち(祭司長、律法学者、長老)の耳に入り、彼らは対策を練るために緊急の議会を招集しました。「このままイエスを放っておいたら、多くの民がイエスの信奉者となり、その結果、暴動が起こるかもしれない。そうするとローマが軍隊を派遣し、ユダヤの土地を奪い、神殿も破壊し、我々の権威さえも奪われてしまう。」彼らはそのように考えて恐れたのです。
 そんな中で議長役を務めていた大祭司カヤパが次のようにいいました。「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だ。」(ヨハネ11章50節)「イエスなど捕らえて殺してしまえばいいではないか。そうすれば国は救われる。私たちの立場も安泰だ。」という提案です。
 福音書記者ヨハネは、この大祭司カヤパが発した言葉について、彼自身は知らずに神様のご計画を預言したのだと解説しています。それは「ひとりの人」、つまり、イエス・キリストが十字架で死ぬことによって、世界中の(イエス・キリストを信じる)人が、罪の滅びから救われるという預言だったのです。
 もちろん、カヤパはそのことを全く意識していませんでした。そして、議会は彼の思惑通りに進み「イエス殺害計画」が立てられたのです。この時は「過越の祭り」の直前で、国中から大勢の人々が集まる中、「イエスの居場所を知っている者は知らせるように」との命令まで出されていました。
 イエス様は、そういう緊迫した状況の中で、一度は荒野に近いエフライムという町に退いておられましたが、再びエルサレムの近くであるベタニヤに来られたのです。
 
1 ベタニヤでの晩餐会
 
 ヨハネ12章1節、2節にはこうあります。
 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。(ヨハネ12章1節、2節)
 ベタニヤには、ラザロ、マルタ、マリヤの他にもイエス様を慕う人々が大勢いたようです。「イエス様が来られたぞ、みんなで集まって食事をしよう。」「蘇ったラザロも呼んで素晴らしい証をきこう!」そのように願って人々は晩餐会を開きました。ラザロは、みんなの中に座っていました。きっと質問攻めだったでしょうね。姉のマルタはこの時も給仕して人々をもてなしていたようです。そんな中、突然マリヤが驚く行動に出たのです。3節にこうあります。
 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。(ヨハネ12章3節)
 「ナルド」は北インドの山岳地方でとれる「木」で、日本でも甘松香(かんしょうこう)という生薬として知られているそうです。「香油」は「没薬」とも訳されることばで、広く「いい香りのするもの」という意味合いがありました。ある辞書には「オリーブオイルからできた軟膏のようなもの」とも書いてありました。
 おそらく「ナルドの香油」というのは、高価な香料がたっぷりと溶かされたいい香りのする油(軟膏のようなもの)だったのでしょう。マリヤはそれをたっぷりイエス様の足に塗ったのです。この出来事はマタイとマルコの福音書にも記されていますが、マルコの方では頭に注いだとあります。つまり、頭から足まで体全体に香油が滴ったのでしょうね。もちろん、「家は香油のかおりでいっぱいに」なりました。
 その時です。イエス様の弟子の一人が口を開きました。
 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ12章4節〜5節)
 この後、イエス様を裏切るイスカリオテ・ユダです。マルコの福音書を読むと、彼が「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」(マルコ14章4節)といったとあります。「こんな無駄なことをして、もったいないじゃないか。」ということですね。
 ちなみに「イスカリオテ」というのは「ケリヨテ(都会)の人」という意味があります。彼は会計係をまかされていましたから、きっと頭の回転も速く、マリヤの行動をみてすぐに計算したのでしょう。300デナリの香油です。1デナリは当時の労働者の日当で約1年分の賃金に相当します。「それだけお金があれば沢山の貧しい人を助けることができるじゃないか、本当にもったいないをして…」このユダの主張は表面的には正しいかもしれません。でも、実は純粋な思いから来たわけではありませんでした。ユダが抱えていた問題を対処するためだったことがわかります。12章6節です。
 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。(ヨハネ12章6節)
 彼は皆のお金を使い込んでいたのです。「いつも盗んでいた」とありますから、かなりの金額になっていたのかもしれません。だから、マリヤの行動を見た瞬間、「もし、香油を注ぐのでなく壺のままイエス様に手渡せば、お金を扱うのは自分だから、それを売って現金にすれば、使い込んだ分を穴埋めが出来たかもしれなかった…」そんなユダの思惑が「施し」という言葉に包まれて出たのかもしれません。
 しかも、ユダの言葉は他の弟子たちにも影響を与えました。マタイでは、「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。」(マタイ26章8節)とあり、マルコにも、「何人かの者が憤慨して互いに言った。」(マルコ14章4節)と記されています。弟子たちみんながマリヤを非難したのです。
 それまで賑やかだった楽しい食卓に否定的な空気が流れ、皆、沈黙してしまったかもしれません。しかし、その時、イエス様が口を開かれました。
 
2 イエス様のことば
 
 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。」(ヨハネ12章7節)
 マルコにはこう少し詳しく、「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」(マルコ14章6節)とあります。イエス様は「なんでマリヤをこまらすのですか」と彼女をかばい、「わたしのためにりっぱなこと(良いこと、美しいこと)をしてくれたのです。」と褒めてくださったのです。その理由が続くことばに記されています。
 「マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」(ヨハネ12章7節)
 つまり、イエス様は「マリヤはこれからわたしが十字架で死んで、そして、葬られるときのためにあらかじめ香油をそそいで準備してくれたのだ」とおっしゃったのです。
 確かに、当時、人が葬られるときに香油を注ぐことは埋葬の一つとして一般的に行われていました。でも、この時、イエス様は生きておられますから、まだ早いですね。もちろん、マリヤも自覚していませんでした。ただイエス様に良いものをおささげしたいという願いから出た行動です。
 それでも、イエス様はこれから先に起こることを示されて、「マリヤが注いだ香油は、わたしの死と葬りのためなのです。」と予告なさったのです。しかも、その予告されたイエス様の「葬り」は普通の人の「葬り」とは違いますね。なぜなら、イエス様は死んで葬られて終わりではなく蘇られるからです。
 イエス様は、ラザロを生き返らせてくださったとき、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われました。イエス様にとって「死」と「葬り」は、決して終わりではなく、「よみがえりのいのち」へと繋がるもの、「希望」へと続くものだからです。
 ですから、この時、イエス様が「マリヤは…葬りの日のために」と言われた、その意味は、「マリヤは、わたしがこれから成し遂げる十字架の死、それだけでなく、復活の準備をしてくれたのだ」そのような意味で「彼女はよいことをしてくれた」とイエス様はいわれたのです。
 もちろん、弟子たちは理解できなかったことでしょう。マリヤもそこまでは考えていなかったはずです。しかし、彼女が注いだナルドの香油は、イエス様がこれから成し遂げられる「十字架の死と復活」を示し、イエス様は葬られたまま終わるのではなく、生けるお方であるということを示す出来事として、ここに記録されているのです。
 
 さて、最後に「ナルドの香油」の出来事から教えられる幾つかのことを心に留めたいと思います。
 
3 ナルドの香油の出来事から
 
 最初に覚えたいことは、マリヤが高価な香油をイエス様に注いだ姿です。そこにはイエス様に対する心からの感謝と愛を見ることできます。
 
 (1) マリヤの「イエス様への感謝と愛」
 
 マリヤは、この直前にラザロを蘇らせていただきました。本当に嬉しかったでしょう。また、それ以前にもイエス様の愛情を沢山感じていました。イエス様がベタニヤに来られる度に家族みんなでお迎えし、マリヤはイエス様の足元に座ってみことばに耳を傾けつづけました。そんなマリヤをイエス様はいつも受け入れて喜んでくださいました。福音書からわかることは、マリヤが本当にイエス様のことを敬い慕っていたことです。今日、礼拝で「慕い求めます」という歌を賛美しました。今回、私はこの賛美を歌いながらマリヤの姿が思い浮かびました。もちろん、お会いしたことがないのでどんな顔かはわかりません。でも、マリヤがイエス様の足元でじっとお話に耳を傾け、イエス様の恵みにとどまる姿です。
 そのようにマリヤイエス様の豊かな愛と恵みを受けて、彼女の内側から感謝と愛が溢れナルドの香油を注いだのです。
 もしかしたら、ある方は「いやー、私はそこまでできません」と思われるかもしれません。でも、知っていただきたいのは、マルコ14章を読むと、この時イエス様はマリヤを指してこういわれているのです。
 「彼女は、自分にできることをしたのです。」(マルコ14章8節)
 確かにマリヤは「非常に高価なもの」をイエス様にささげたのですが、それは無理をして、嫌々手放したのではなくて、イエス様の愛と恵みがあまりにも素晴らしいから、それに応答して「自分にできること」が溢れたのです。
 皆さん。クリスチャン生活の中心は、イエス様に心からの感謝をささげることですね。イエス様の豊かな恵み、父なる神様の大きな愛が注がれているから、それを十分にうけて感謝と賛美をささげ礼拝するのです。その私たちの姿をイエス様は本当に喜んでくださっているのです。
 
 (2) 「それは無駄だ」という声に対して
 
 マリヤの行動に対して、それを見た弟子たちは「なんともったいない」「無駄なことを」といいました。でも、聖書を読むと、一見、人の目には「無駄なように見えること」を勧めている箇所があります。
 例えば伝道者の書11章1節には、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になってそれを見いだそう」と書かれています。パンを水の上に投げて喜びそうなのはお堀の鯉くらいですよね。しかし、聖書には「ずっと後の日になってそれを見いだす」と書かれているのです。
 また、使徒20章35節には、「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたのだから、それを忘れずに行いなさい」とあります。普通は逆ですよね。「与えることは損」で「受けた方が得だ」と思います。でも、聖書は「受けるよりも与えるほうがもっと豊かな人生を生きることができる」と教えているのです。
 私たちは、時々、聖書に信頼して、イエス様を信じて生きようとするとき、「なんだか無駄なことなのではないだろうか」「意味がないのではないか」という心の声が聞こえることがあるかもしれません。「祈っても、祈っても、結果が思わしくない」と「祈る」ことすらそう思えてしまうことがあるかもしれません。
 でも、たとえ人の目に(自分さえも)、「無駄な」ように思えてしまうときがあったとしても、イエス様にとってはそうではありません。イエス様がマリヤに「あなたはわたしのために、りっぱな(美しい)ことをしてくれたのです。」と語ってくださったように、イエス様に応答して捧げられる一つ一つの行為を主は喜んで下さいます。
 私たちがこうやって礼拝を通して「イエス様、あなたの愛と恵みをありがとうございます」「今も私と共にいてくださることを感謝します」と、賛美と祈りをささげることを主は本当に喜んで下さっているのです。そして、同時にそれは私たちの喜びでもあり日々の力となります。
 
 (3) 「無駄と思われること」をして下さったイエス様
 
 皆さん。聖書を読むと、イエス様の生涯には一見、人の目には「無駄ではないのかと思われること」がたくさんありますね。イエス様は、ご自分に対して、すぐに手のひらを返してしまうような人々のために愛のみわざを行い、恵みのことばを語ってくださいました。イエス様は、ユダヤ人が普通は近づかないサマリヤを通られて一人の女性を救いに導かれました。エリコの町では取税人で嫌われ者のザアカイの家に行かれました。町の人々から見たら「なんでそんなことを」と思われるような出来事です。
 何よりも、最終的にイエス様は私たち全ての人の罪のために身代わりとなって十字架についてくださいました。罪のないお方が、ご自分に背を向け、唾をはき、罵倒する人々のためにご自分の尊い命を捧げてくださったのです。本来ならありえないことです。なんでそこまでするのかと思われるようなことです。でも、それをしてくださったのがイエス様ご自身です。なぜそこまでしてくださったのでしょうか。パウロはローマ5章でいいました。
 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5章8節)
 神の子キリストが罪人のために死んでくださいました。普通では考えられないこと、有り得ないことをして下さいました。それほどまでに私たちを愛してくださっているからです。
 だから、ヨハネも手紙の中でこう記しています。
 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(第一ヨハネ3章16節)
 イエス様は、ご自分のいのちという「最も高価なもの」をささげてくださいました。それほどに、私たちを愛して下さっています。私たちは、マリヤが注いだ高価なナルドの香油をみるとき、「ああ、こんな風にイエス様に出来たら感謝だな」と思うでしょう。でも、一番心に刻みたいことは、私たちが何かをするよりも、まずイエス様ご自身が、あの十字架で「最も高価なご自分のいのち」を惜しげもなく私たちに注いでくださったということです。
 そのお方の考えられないほどの愛が今日も私たちに注がれているのです。その恵みを覚えつつ、感謝と賛美をもってこの週も歩んで参りましょう。