城山キリスト教会説教
二〇二六年三月八日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一二章一二節〜一九節
 ヨハネの福音書連続説教43
  「ホサナ!」
 
 12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。
19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」(新改訳第三版)
 
 前回、私たちは有名なナルドの香油の出来事を読みました。
 イエス様が「過越の祭りの六日前」に、ベタニヤ村にいかれたときの出来事です。そこにはイエス様によって死から蘇らされたラザロ、姉妹であるマルタとマリヤ、そして、イエス様を慕う大勢の人が集まっていました。彼らはイエス様をお迎えして晩餐会を開きました。きっと賑やかで楽しいときだったでしょう。
 その晩餐会の最中に、マリヤがとても高価な「ナルドの香油」の壺を割ってイエス様に注いだのです。大量の香油でしたから香りが部屋中に満ちていきました。その場にいる人々も驚いたはずです。
 そのとき、イエス様の弟子の一人であるイスカリオテ・ユダが口を開きました「なんともったいない。それだけの香油を売れば三百デナリにもなるではないか。そのお金があれば沢山の貧しい人々に施しができたのに…」そういってマリヤを諫めたのです。その場にいた他の弟子たちもユダの言葉に同調し皆でマリヤを責めはじめました。
 すると、イエス様がこう言われました。
 「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」(ヨハネの福音書12章7節)
 イエス様は、マリヤが香油を注いでくれたその行為を「わたしの葬りの日のために」と言われました。この時、イエス様はまだ生きてらっしゃいますから、弟子たちも、その場にいた人々も不思議に感じたことでしょう。しかし、イエス様はこれからご自分が十字架にかかられる、その時が迫っていることを知っておられました。そして、ご自分の十字架と復活の時を指して、「マリヤは葬りの準備として香油を注いでくれたのです。」と喜んでマリヤの行為を受けとめてくださったのです。
 
 さあ、今日の箇所に入っていきますが12節、13節にはこうあります。
 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12章12節、13節)
 
 「その翌日」とありますが、マリヤが香油を注いだ晩餐会が開かれたのは安息日(土曜日)でしたから、日曜日のことです。この時は過越の祭りの直前で国中から大勢の人がエルサレムに集まっていました。これまで、イエス様はイスラエル全土を歩いて多くの人を癒され、素晴らしいみわざをなさいました。この少し前には、死んだラザロを生き返らせてくださいました。イエス様のうわさは急速に広がり大勢の人が押し寄せてついてきていました。
 そんなイエス様が、ついにエルサレムに近づいてこられたのですから、ガリラヤ地方からイエス様につい来た人に既に祭りのためにエルサレムに滞在していた人も加わり、「あのイエスがやってきたぞ」と大勢の群衆となって「しゅろの木の枝」をとって大歓声でイエス様を出迎えたのです。
 「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12章13節)
 最近、冬期オリンピックがありましたね。金メダリストが帰国し空港で大歓迎される映像を見ました。きっとそれ以上の歓迎だったでしょうね。
 このイエス様がエルサレムに入られた出来事は四つの福音書すべてに記録されています。ですから、とても有名であるとともに、私たちに大切なことを教えている箇所でもあるのです。
 
1 「しゅろの木の枝」
 
 今日は、この出来事からいくつかのことに注目して考えたいのですが、まず、一つ目は人々が「しゅろの木の枝」でイエス様を出迎えたということです。ここには人々が抱いていたイエス様への「期待」が表されています。
 「しゅろの木(ナツメヤシ)の枝をふる」という行動は、実は、当時のユダヤの人々にある出来事を思い起こさせました。この時から百数十年前、紀元前2世紀頃のことですが、当時ユダヤはシリヤの属国でした。シリヤの王アンティオコス4世は、ユダヤを激しく迫害しました。さらに彼はエルサレム神殿に異教の神の像を持ち運んで、神殿をめちゃくちゃにしたのです。ユダヤ人にとっては屈辱的な行為でした。そんな中で、祭司の家系のユダ・マカバイという人が立ち上がり、民を導いて戦いました。3年以上もの激戦の末に、見事エルサレム神殿を奪回したのです。(その時から始まったのが、ヨハネの10章で学んだ「宮きよめの祭り」でした。)その出来事はユダヤの人々に大きな喜びをもたらし、人々は「しゅろの木の枝」をふって賛美したのです。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12章13節)これは、詩篇118篇25、26節のことばです。
 ですから「しゅろの木」と「ホサナ!」という賛美で出迎えるというのは、マカバイのように民を救う「解放者」を迎える態度です。「ローマ政府を打ち倒し、ユダヤの国の独立を勝ち取り、私たちをおさめる王としてこられた解放者だ!」そのような期待をもって群集はイエス様を大歓迎したのです。
 皆さん、イエス様の側にいた弟子たちは、たぶん鼻高々で、嬉しかったでしょうね。「私たちの先生も、ついにエルサレムで認められた!」「今まではこんな風に歓迎されたことはなかったけど、ついに先生が王になる時がきたぞ。」
「俺たちは側近だ。」そんな思いをもったかもしれませんね。
 また、群集にとっても、「イエスは、数々の不思議なことを行い、しかも、死人を蘇らすことのできる人なのだから間違いない。ユダヤを救ったマカバイの再来だ!」そのように期待して、民族的、政治的解放者としてイエス様を熱狂的に歓迎したのです。
 対象的だったのは、パリサイ人、宗教指導者たちです。19節には彼らのぼやきが書かれていますね。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」(ヨハネ12章19節)と。彼らの焦り、怒り、イエス様を殺害する熱意が更に加熱されていく様子がうかがえますね。
 
2 「ろばの子に乗って」
 
 そして、二つ目に注目したいのは、そのような熱狂の中でエルサレムに入られたイエス様のお姿です。
 14節に、「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。」(ヨハネ12章14節)とありますが、原文では文頭に「しかし」ということばが書かれています。「人々は熱狂したのだけど、期待したのだけど、しかし、それとは違う姿で、ろばの子に乗って、静かに入られた」ということです。
 皆さん。もし、イエス様がこの時、人々が期待していた「地上の王」や「軍事的な王」として来られたのなら「軍馬」に乗られたでしょう。でも、イエス様は平和を表す「ろばの子」に乗ってエルサレムに入られたのです。しかも、それは、イエス様ご自身が意図されたことです。他の福音書を読むと詳しく書かれていますが、イエス様はこの直前に弟子たちに言われました。「向こうの村に行って、ろばの子を連れてきなさい」「先生、ろばでなく、馬の間違いじゃないですか?」「いや、ろばの子を連れてきなさい。」つまり、イエス様がわざわざ「ろばの子」を選んで乗られたということです。
 ヨハネはそのことを旧約聖書ゼカリヤ書を引用して説明しています。
 それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(ヨハネ12章14節、15節)
 引用元の、ゼカリヤ書9章9節はこうです。
 見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ書9章9節)
 これは、「これから救いを与えるために来られる王は、柔和な方で、ろばの子に乗って、平和の王として来られるのだ」という預言です。つまり、ヨハネは、この時のイエス様のお姿は、ゼカリヤが預言した通りの「救い主」の姿そのものなのだと伝えているのです。
 イエス様は、決して「さあ立ち上がりなさい、武器を取りなさい、打倒ローマだ!」などとはおっしゃいませんでした。イエス様が来られたのは戦いによって政治的な勝利をもたらすためではなく、平和をもたらすお方としてこられたということです。
 熱狂する群衆たちを前に、イエス様は「子ろば」に乗られることによって、「私は平和をもたらすために来たのだ」そのことを行動でしめされたのです。
 
3 エルサレムに入られた目的
 
 そして、今日3つめに考えたいことはイエス様がこのような形でエルサレムに入られた目的です。それを考えるための前提として、ヨハネが16節で次のように伝えていることに注目したいのです。
 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。(ヨハネ12章16節)
 弟子たちは、このときイエス様の行動の目的がわからなかったとあります。弟子たちはイエス様に対する誇らしい気持ちや群集の期待と同じような思いは持っていました。しかし、イエス様が、このようにエルサレムに入られる目的はよくわかっていなかったのです。
 「こんなにも人々は熱狂してご自身を大歓迎しているのに、イエス様はなぜ群衆たちを引きつれて立ち上がらないのだろう。」「これだけの人気と力があれば、打倒ローマも夢じゃない。」弟子のトマスなどはエルサレムに向かうとき「われわれもイエス様と一緒に死のうではないか!」とまで言っていたほどです。だから、弟子たちはイエス様の行動と態度が理解できなかったし、もしかしたら不満さえ感じていたかもしれません。
 そんな弟子たちが、イエス様がろばの子にのってエルサレムに入られたことの意味を理解できたのはいつでしょう。ヨハネは、「イエスが栄光を受けられてから」だと言っています。「イエスが栄光を受けられる」、これはヨハネの福音書で何度もでてくる表現で「十字架と復活」を指します。イエス様が私たちの罪の為に十字架についてくださり三日目に復活されるときです。それが「イエス様の栄光」の中身です。
 つまり、今日の出来事の本当の意味というのは、イエス様の「十字架と復活」を通して考えるときにはっきりとわかるのです。
 
 (1)「ろばの子にのられた」
 
 先ほど言ったイエス様が「ろばの子」に乗られたという意味もそうです。
 イエス様は「軍事的な王」でなく「平和の王」としてこられました。弟子たちはこの時はわからなかったけれど、イエス様の十字架と復活を通して、イエス様が私たちの罪を赦し、死を打ち破り、赦しといのちと揺るぎない神様との平和を与えてくださる、そういうお方だということを理解しました。「ああ、イエス様がろばの子に乗って来られた。まさに平和の王としてこられた。」「イエス様は私たちと神様との間に立つ中保者として平和をもたらすお方としてきてくださった。」「神と人との平和」、そこから生まれる「人と人との平和」をももたらすお方としてきてくださったのだ。弟子たちはそのことが十字架と復活の後にわかったのです。
 
 (2)「ホサナ!(主よ、救ってください)」
 
 また、この時、群集は「ホザナ!」と叫びました。これは、もととも「主よ、私たちを救ってください!」という意味です。でも、この言葉はいつのまにか文字通りの意味というより、今の日本で言えば「万歳!」というような叫びとして使われるようになっていました。「王が来たバンザーイ!」という歓迎の声です。
 でも、イエス様の十字架と復活を通してみると、人々がイエス様に向かって「ホザナ!主よ救ってください!」と叫んだ、その叫びに応えが与えられている、イエス様が救いを成就してくださったということが見えてくるのです。イエス様は「主よ、私たちを救ってください!」という、全人類の叫びに応えて、十字架と復活、まさに、ご自身がお受けになった栄光によって、救いを与えてくださるお方だということが、弟子たちはわかったのです。
 ヨハネは、ゼカリヤ書を引用してこう言っています。
 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(ヨハネ12章15節)
 引用元のゼカリヤ書9章9節は、「恐れるな」ではなく、「大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる」(ゼカリヤ書9章9節)です。
 でも、ここでヨハネはあえて、「喜べ」を「恐れるな」と言い換えて強調しています。ヨハネが伝えたかったことは何でしょうか。「王なる方が来られた。だから、もはや恐れる必要はない。」「平和の主なる方が来られた。だから、恐れることはない。」「十字架と復活によって、罪と死の力を打ち破ってくださる方が来て下さったから、もはや恐れる必要はない」というメッセージです。
 このエルサレム入城の出来事は、そのことを意味しているのだとヨハネは伝えているのです。
 パウロも第一コリント15章55節でこう記しています。
 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15章55節〜57節)
 イエス様というお方が、罪と死という人間の奥底にある根本的な恐れの問題を解決するためにきてくださった。十字架と復活によって罪と死に勝利するために、イエス様はろばの子に乗ってエルサレムに入られたのです。
 そして、皆さん、今、同じように「恐れるな」とおっしゃる方が、私たち一人一人の人生にもきてくださっていると、聖書を通して主なる神様ご自身が私たちに語りかけてくださっているのです。
 皆さん。今日の出来事で、弟子たちも群集もイエス様が来られた本当の意味を理解できていませんでした。それでもイエス様を喜びお迎えしました。でも、今、私たちは聖書を通して既に「十字架と復活」の事実を知っています。イエス様が私たちの全ての罪を背負って十字架について下さり、死を打ち破って蘇ってくださった。私たちはその方を、ただ信じることによって、罪赦されて、永遠のいのちが与えられる。そのことを私たちは、はっきりと知っています。
 そのイエス様を「ホサナ!」と、心からの賛美をもって私たちの人生にお迎えし、イエス様と共にこの週も歩んで参りましょう。