城山キリスト教会説教
二〇二六年三月二二日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一二章二〇節〜二七節
ヨハネの福音書連続説教44
「一粒の麦」
20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。(新改訳第三版)
前回、私たちは、イエス様が、過ぎ越し祭りの時に、ロバの子に乗って、エルサレムに入られた出来事を読みました。
その時、人々は棕櫚の木の枝を掲げて、大歓声でイエス様を出迎えましたね。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12章12節、13節)
群衆は、「イエスは、ローマの支配からユダヤ民族を開放し、国を再興する人物に違いない!」と、民族的、政治的解放者として歓迎しました。しかし、イエス様は彼らの期待とは違うお姿で、平和の象徴であるロバの子に乗り静かにエルサレムに入られたのです。
1 面会を求めたギリシャ人
今日の箇所には、その時、エルサレムにいたギリシヤ人たちがイエス様に面会を求めてやってきたとあります。
さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。(ヨハネ20章20節、21節)
この「ギリシャ人」たちはどんな人だったのでしょう。「過越しの祭り」にエルサレムに来ていたのですから、ユダヤ教に改宗したギリシャ人でしょう。もしくは、ギリシャ人はヘレニズム文化の担い手で探求心が旺盛な民族でしたから、新たなものを求め旅をしているギリシャ人だったのかもしれません。
いずれにしても、年に一度の「過越し祭り」にエルサレムにいたわけです。この時、エルサレムは大勢の人であふれかえっていました。彼らが入ることができたのは、エルサレム神殿の一番外側にある「異邦人の庭」です。そこには、神殿専用の通貨に両替する両替人、いけにえの動物を売る商売人であふれていました。彼らは法外な手数料や代金を取って儲けていた人たちです。
他の福音書では、イエス様がエルサレムに入られてすぐに「異邦人の庭」に行かれたと記されています。イエス様は不正を行う両替人や商売人たちの台をひっくりかえしてこう言われました。
「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(マルコ11章17節)
ものすごい剣幕で怒るイエス様の姿を異邦人の巡礼者たちも見たのでしょう。探求心旺盛なギリシャ人たちは「イエスという人物は何者だ?何やらすごいことを言う人だぞ。」と、イエス様が大声で叫ぶ話をもっと聞きたいと願ったのでしょう。
彼らはイエス様の弟子ピリポに近づきました。「ピリポ」という名前は、ギリシャ名ですから、おそらくギリシャ語が理解できたのではないかと思います。すると、ピリポはアンデレに相談しました。相談されたアンデレは、「それではイエス様のところに連れていこう。」といって、イエス様のところへ行き「ギリシャ人たちがお会いしたいといっています。」と知らせたのです。
2 イエス様のことば
それを聞いたイエス様は「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」(ヨハネ12章23節)と言われました。
これまでイエス様は、「わたしの時はまだ来ていない」とたびたび語られました。例えば、カナの結婚式で葡萄酒がなくなって心配する母マリヤに向かって、「わたしの時はまだ来ていません。」と言われました。仮庵の祭りの時に、イエス様の弟たちが、「兄さん、あなたが救い主なら、今、エルサレムに行って公に自分を示したらいいじゃないですか」と言ったときにも、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。しかし、ついにイエス様は「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言われたのです。
(1)「人の子が栄光を受けるとき」
「人の子」という表現は聖書にたびたび出てきますが、単に人間の子という意味ではなくて、旧約聖書のダニエル書に出てくる、「来るべきメシヤ」を示しています。ダニエルは神様によって幻を見ました。「人の子のような方が天の雲に乗って来られ、永遠の主権を持って治める王となられる」(ダニエル7章)という幻です。幻の中で、それまで獣のように恐ろしく横暴な王たちが次々に現れて世界を支配するのですが、最後に、神の力によって「人の子」のような柔和なお方が来られる。しかも、その姿は栄光に満ち、素晴らしい王が来てくださるという幻です。
ユダヤ人たちは、そのことをよく知っていましたから、「人の子が栄光を受けるときがきた」と聞けばすぐにピンとくるわけです。「そうか、いよいよ神が約束された『人の子』の姿をした栄光に満ちた王(メシヤ)が来られる!そして、王として栄光の御座に即位し、世界を治めてくださる」というイメージです。
もちろん、弟子たちも「やはり我らが先生、イエス様は期待した通りのお方だ!王として、世界を治めてくださるのだ!」と、思ったことでしょう。しかし、イエス様は、ご自分が「栄光を受けるとき」について、彼らの期待とは全く違うことをいわれます。
(2)「一粒の麦が死ねば、豊かな実を結ぶ」
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12章24節)
これは「いのちは死によってもたらされる」という譬えです。麦の実は、安全な場所で保管されていたら、一粒のままです。実を結びません。いのちは生まれません。でも、もし、一粒の麦が、冷たくて暗い土の中に投げいれられ、埋められたなら、そこから実をむすぶようになる。それと同じように、イエス様は「わたしが死ぬことによって、あなたがたがいのちを得る」と言われたのです。
きっと弟子たちも、周りにいた人も、意味が分からず、「イエス様、いったい何をおっしゃっているのだ?イエス様が死んだら意味がないではないか?」と思ったでしょう。でも、イエス様は、「人の子が栄光を受けるときは、この世の力で戦いに勝利し、わたしが生きて王座に就くことではない。すべての人の身代わりとなって死ぬことによって、豊かないのちが広がっていく、その時がきたのです。」と宣言されたのです。
そして、イエス様が「栄光を受けられるとき」、それは、同時にイエス様が十字架で「苦しみを受けるとき」でもあります。
来週の日曜から受難週に入ります。受難週はイエス様の十字架の苦難の歩みを覚える時です。27節で、イエス様はこう言っておられます。
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。」(ヨハネ12章27節)
これは、イエス様が十字架の苦しみを前にした苦悩の言葉です。他の福音書を読むと、ゲッセマネの園でイエス様が同じように祈られたことが記されています。
イエス様は、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(マタイ26章38節)と言われ、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14章36節)と祈られました。イエス様は、十字架を前にして深く恐れ悶え「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。どうかこの苦しみ杯をとってください。」と心の底から願われたのです。
皆さん。十字架は想像を絶する苦しみです。けれども、イエス様は究極の苦しみを前にして、「できることならとってください」と正直に祈られたその上で、最終的に、「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られたのです。
十字架の道を進むことは、ご自分が栄光を受けること。しかも、その栄光は人々を豊かないのちへと導くこと。だから、それは苦しみだけれども、「父よ、みこころなら、それにしたがいます」という祈りです。今日の箇所にも、「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」とある通りです。
皆さん。イエス様が来て下さった目的は何でしょう。素晴らしいメッセージをすること、人々を癒すこと、まさにそうです。しかし、イエス様の究極の目的は、十字架への道です。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ということばの通り、イエス様の十字架の死は人々に赦しを与え、新しい人生へと導き、豊かな実を一人一人に与えるものとなる。「このためにこそ」イエス様は来てくださったのです。「私たちの罪を赦すために」、「私たちが新しい人生を生きるために」そして、一人ひとりに、「豊かな実が与えられるために」、イエス様は想像を絶する苦しみを、たった一人、その身に受けて「一粒の麦」となって尊いいのちをささげてくださったのです。
3 イエス様によって「豊かな実が与えられる」人生
それでは、私たちにとってイエス様の十字架の死によって「豊かな実が与えられる」人生とは、どういう生き方なのでしょうか。25節で、イエス様はその原則についてこうおっしゃいました。
「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12章25節)
逆説的なことばですね。「自分のいのちを愛するものは失う」「いのちを憎むものは永遠のいのちに至る」という、私たちの生き方の「基本」「原則」をイエス様は示してくださったのです。ただ、私たちはイエス様のこのことばを理解するうえで、「愛する」とか「憎む」という表現に少し注意が必要です。
(1)「自分のいのちを愛する」とは
聖書の中に時々「愛する」「憎む」という表現が対になってでてくることがありますが、当時のユダヤの社会では、今、私たちが日常で使うのとは少し違う意味で使われています。例えば二つのものがあって、どちらか一つを選んだとします。すると、選ばれた方は「愛された」、選ばれなかった方は「憎まれた」という言い方をするのです。
ここに関根先生のギターと私のギターがあります。どちらも弾きやすいのですが、もしどちらか一つを選んだ場合、私は選んだ方を「愛した」、選ばなかった方を「憎んだ」という表現をするのです。ですから、ここで言われている「愛する」「憎む」というのは、「どちらを選ぶのか」という、生き方の「優先順位」を表す表現です。
今日の箇所は、探求心豊かなギリシャ人たちに対して語られたことばでしたね。当時のギリシャ人の特徴は、もちろん、一概には言えませんが、「自分の生きる道を追及すること」「どうすれば自分がよりよく生きられるか」「どうすれば自分をより表現できるか」など「自己を追及し生かす」ことが、当時の多くのギリシャ人の人生のテーマでした。
もちろん、それによって多くの知識を獲得することはできますが、ともすると「自分が、自分が、自分が」という姿、「自己を追及する」生き方に陥ってしまいます。「自分のことだけを考えて、自分だけを優先する生き方は、結局、大切なものを失うのだ」と、ここでイエス様は言われているようです。
(2)「自分のいのちを憎む」とは
それでは、その反対の「自分のいのちを憎む」とはどういうことでしょうか。誤解しないでいただきたいのは、決して、「自分を嫌いになりなさい」とか「自分のことを粗末に扱いなさい」とか、「自分のことはどうでもいいのです」と考えることではありません。
26節でイエス様はこう言われました。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」つまり、「自分のいのちを憎む」ということは、「自分が、自分が」という世界から、「イエス様について行き、イエス様に仕える」という心をもって生きる世界へと、生き方を方向転換することです。
でも、「イエス様に仕える」と聞くと、もしかしたら「自分はそんな風に生きていない。」「仕えるなんて難しい」と思ってしまうかもしれません。
でも、心に留めていただきたいのです。大切なことは、まず、イエス様が私たちの為に仕えてくださったという事実です。マルコ10章45節にはこうあります。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10章45節)
イエス様ご自身が、私たちの罪のために、十字架でご自分のいのちを捨てることによって、私たちに赦しと新しいいのちを与えてくださいました。イエス様が仕えてくださいました。
そして、第一ペテロ2章21節には、こう書いています。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(第1ペテロ2章21節)
私たちは、自分を見れば「イエス様に仕える生き方なんてできていない」と思うかもしれません。でも、そんな私たちのをご存じのイエス様が、まず「仕える者」となって、私たちのために十字架にかかり、イエス様と共に生きる者としてくださいました。
そして、第二コリント5章には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。」(第2コリント5章17節、18節)あります。
つまり、イエス様を信じる私たちは自分の力ではなく、神様によって、新しい生き方「イエス様についていって、イエス様とともに歩み、イエス様に仕える生き方」の中に、もうすでに入れられているのです。
だからと言って「クリスチャンになったから、皆、今の仕事を全部辞めて牧師になる」とか「日常生活から離れて何か宗教的な勤めに励む」という意味ではありません。私たちが、それぞれ生かされている場所、家でも、職場でも、学校でも、地域でも、それぞれに与えられた場所で、「イエス様、あなたとともに、今日、一日一日を生きていきます。あなたに信頼し、イエス様の恵みの中で、今日もなすべきことをさせてください」と歩んでいくことです。
自分自身を見つめたら、相変わらず自己中心で何にも変わっていないと感じるかもしません。でも、聖書は、私たちがが自分でそう感じたとしても、イエス様を信じる私たちの内に聖霊が住んでくださると約束しています。そのお方は何をしてくださるのですか。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3章18節)とあるように、御霊なる神が私たちをイエス様に似た者と、日々、作り変えていってくださるのです。
「鏡のように」ですから、私たちがイエス様を見つめていきていくとき。聖書を通して、イエス様がどういうお方で、私たちにしてくださったみわざを、語られたことばを見つめいくとき。その日々の中で、御霊によって、日々、イエス様に似たものとして、イエス様について行く者として、少しずつ作り変えられいくのです。私たちの人生の歩みはその途上なのです。
そのような豊かな人生の中に、私たちは招かれ、既に生かされています。その為にこそ、イエス様は「一粒の麦」として、尊いいのちをささげてくださいました。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
その恵みに感謝しつつ、この週も歩んでまいりましょう。