城山キリスト教会説教
二〇二六年四月二六日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一二章二七節〜三六節
 ヨハネの福音書連続説教45
  「光あるうちに」
 
 27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。
30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(新改訳第三版)
 
 受難週とイースターを挟み、約一カ月ぶりにヨハネの福音書に戻りました。まず、これまでの流れを振り返りましょう。
 12章でイエス様は、過越しの祭りを前にしてロバの子にのってエルサレムに入城されましたね。この時、すでにイエス様の評判はユダヤ全土に広がっていました。直前には、べタニアの村で死んでしまったラザロを蘇らされました。きっと、そのことも人々の噂になっていたでしょう。エルサレムに集まっていた人々は、イエス様を「ユダヤ民族の救世主」、「ローマからの解放者」として期待していました。しゅろの木の枝を手に取って「ホサナ!祝福あれ!主の御名によって来られる方に!」と叫んで、イエス様を大歓迎したのです。年に一度の「過ぎ越しの祭り」が迫っている時でしたから、エルサレム中、人、人、人でごった返していました。
 今年ももうすぐゴールデンウィークですね。小田原でも、毎年「北条五代祭り」が行われます。今年も、きっと沢山の人でにぎわうでしょう。でも、この時のエルサレムはもっともっと大勢の人だったと思います。
 そんな中でエルサレムに入られたイエス様ですが、まず向かわれた先は神殿でした。神殿の一番外側には、「異邦人の庭」と呼ばれる場所があったのですが、そこには、神殿で神様にささげるための特別な銀貨に両替する「両替人」や、いけにえの動物を売る「商売人」がいました。当時、彼らは法外な手数料や代金を取って儲けていたのです。その様子をご覧になったイエス様は激しく怒られました。そこにあった台をひっくりかえして、彼らを追い出して、大声で叫ばれたのです。
 「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(マルコ11章17節)
 きっとものすごい剣幕だったのでしょう。その様子を見ていた人々、特に、ギリシャ人たちが、「いったいこの人は何者だ。もっと詳しく話が聞きたい」と、興味津々でイエス様の弟子ピリポのところに近づいてきたのです。ちなみに「ピリポ」はギリシャ名でしたから声をかけやすかったのだと思います。弟子のピリポとアンデレがイエス様のもとに彼らを連れてやってきました。
 「イエス様、ギリシャ人たちがイエス様にお会いたいといっています。」
 そばには他の弟子たちや、ガリラヤからイエス様に従ってきた人々、祭りに参加するために神殿に来ていた大勢のユダヤ人たちもいたでしょう。
 そのような中で、イエス様が話し始められたのです。
 前回読んだ、有名な箇所です。
「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(12章23節、24節)
 ここでイエス様は、ご自分がこれから受ける十字架の死を示されたのです。「これからわたしが死ぬことによって、あなたがたがいのちを得る、その時がきたのだ。」と。
 弟子たちも、周りにいた人も、思ったでしょう。
 「イエス様、いったい何をおっしゃるのですか? 救い主メシアであるあなたが死んだら意味がないではないですか。これから、民を率いてローマを倒し、神の国を打ち立ててくださるのではないのですか。」
 でも、イエス様は、「人の子が栄光を受けるときというのは、この世の力で戦いに勝利して王座に就くことではない。わたしがすべての人の身代わりとなって死ぬことによって豊かないのちが広がっていく、その時がきたのです。」と、「十字架と復活」を通してなされる「救い」を指して言われたのです。
 さらに、イエス様はご自分の気持ちを次のようにことばにされましたね。
 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」(12章27節)
 十字架を前にイエス様は正直な思いを述べられ、同時に「神様、あなたのみこころならば、それを受けます。」と、覚悟のことばを発せられたのです。
 さあ、今日はその続きです。
 
1 天からの声
 
 28節で、イエス様は天に向かってこう祈られました。
 「父よ。御名の栄光を現してください。」(12章28節)
 すると、天から次のような声が聞こえました。
 「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」(12章28節)
 なんと父なる神様が、直接、イエス様にお語りになったのです。しかも、ヨハネは、その「天の声」を人々がはっきりと聞いたと記しています。
 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。(12章29節)
 人々は確かに、「人の声」ではなく、「天の声」を聞きました。でも、「雷だ。」とか「御使いが話したのだ。」といっているように、その内容を聞き取ることはできなかったのです。
 使徒の働き9章に、似たような状況がありましたね。
 パウロ(サウロ)が回心する前に、クリスチャンたちを迫害しにダマスコに行く途中でした。まばゆい光の中からイエスの声がきこえました。
 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」
 この時、彼がイエス様の声を聞いた時と似たような状況です。語られた本人には分かったけれど、周囲の人々には、内容が分かりませんでした。その時と同じように、この時も雷のような「天の声」が確かに響き渡ったのです。
 
 (1)「わたしは栄光をすでに現した」
 
 これまでイエス様は、地上での生涯を通して素晴らしい御わざをなさいましたね。病を癒され、嵐を鎮め、わずかな食べ物で五千人以上の人を養われました。イエス様はみわざを通して、神様の愛と恵み、素晴らしい栄光を現されました。また、この直前には、「ラザロを死からよみがえらせる」ことによって、死を打ち破り、神様の栄光を現わされました。そういう点で、すでにイエス様の生涯を通して、神様の栄光が現されました。そのうえで、父なる神様は続けておっしゃったのです。
 
 (2)「またもう一度栄光を現そう」
 
 これは、イエス様が現される栄光のクライマックスである「十字架と復活」を指します。
 先日のイースター礼拝でも確認しましたね。イエス様の十字架と復活によって何が保証されましたか。人のすべての罪が赦されるという「罪の赦し」が保証されました。また、神様との関係が回復され、「神の子として生きる」ことが保証されました。そして、この地上だけでなく、死んでもなお生きる「永遠のいのち」が与えられることが保証されました。イエス様の十字架と復活のみわざによって、「救いの道」が完全に開かれました。それこそが「神の栄光」を現わす、イエス様の究極のみわざです。
 ですから、この時、天の父なる神様が、「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」と言われた、その意味というのは、「イエス様はすでに神の素晴らしさを表す生涯を歩まれてきたし、そして、これから十字架で死なれ復活されることを通して、その栄光が完全に現れる」ということです。
 十字架の苦しみを前にしてイエス様が語られた、「わたしが一粒の麦のように地に落ちることで豊かな実を結ぶ」ということばが確かなものだということを、天の父なる神様が明確に宣言されたのです。「雷のような、み使いのような」、人々が「なんだかよくわからないけど、確かに声が聞こえる」という客観的な事実によって、そのことが証明されたのです。
 
2 イエス様のことば
 
 しかし、そのにいた人々は「雷だと思って」そのことが理解できなかったのです。ですから、イエス様はその彼らに続けてこういわれたのです。
 
 (1)「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。」(12章30節)
 
 このことばからは、その場にいた人々に対するイエス様の次のようなみ思いを感じますね。
 「あなたがたが、わたしのことばを信じるために、神様が今、語られたのです。わたしを信じ受け入れるものは、救いをうけることができる。これまでもずっとわたしは語ってきたし示してきた。そして、今、天の声をもって神様が語ってくだった。だから、今、わたしを信じてほしい。」という、イエス様の熱いみ思いです。
 イエス様は、さらに、こうもおっしゃいました。
 
 (2)「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」(12章31節)
 
 「さばき」と聞くとなんだか「ドキッ」っとして、怖さを感じるかもしれません。でも、ここで言われている「さばき」は、イエス様の「十字架と復活」によって、「この世を支配する者」(つまり、サタン)が打ちのめされるということです。そして、その最大の武器である「死」が打ち破られるということです。
 
 (3)「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(12章32節)
 
 こうあるように、これからイエス様が「十字架に架けられる」ことによって、三日目によみがえられた後、「天にあげられる」ことによって、イエス様を信じる「すべての人」が、イエス様のもとにひき寄せられると約束されたのです。
 「それを、あなたがたが信じることができるように、今、神様が、天からの声で確かに語ってくださったのです。だから、今、わたしを信じてほしい。」とイエス様が切に願っておられるのです。
 
 そして、皆さん。このことばは今、実際に実現していますね。イエス様の十字架と復活を信じる多くの人々が世界中に起こされています。星の数ほどの教会が世界中に生まれています。全世界の人たちがイエス様のもとに集められるようになっています。2000年前、あのパレスチナの地で、「一粒の麦として死んでくださった」イエス様の「十字架と復活」から、豊かないのちが広がっています。世界中全ての人が、イエス様のもとに引き寄せられています。そして、私たちも引き寄せられた一人一人です。この時、語られたイエス様のことばの成就の中に生かされているのです。
 そう考えると、私たちがクリスチャンであることのスケールの大きさを感じませんか。以前、家族でこんな会話をしているときに、息子がこんなことをいったことがありました。
 「お父さんの知り合いは、日本のいろんなところにいるんだね。クリスチャンって知り合いが多いんだね。」と。確かにクリスチャンは日本全国、世界中に繋がりがあります。初めて会う人でも、まるで以前から知っているかのように感じることがありますね。なぜでしょうか。この福音の広がりの中にいかされているからです。
 
3 群衆の反応
 
 しかし、この時、イエス様のそばにいた群衆はどう反応しましたか。「イエス様、あなたを信じます。」といったでしょうか。いいえ、そうではありません。彼らはこう言いました。
 「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」(12章34節)
 つまり、「わたしたちが期待している人の子(救い主)は、生きて勝利に導く存在だ。それなのに、なぜ、あなたは、『人の子は、死ななければならない』というのですか。そもそもあなたがいう『人の子』とは誰ですか。」と、彼らは戸惑いならがイエス様に尋ねたのです。
 皆さん。時々、こんな声を聞きくことがありますね。
 「聖書の時代に生きた人はいいよな、イエス様に直接会うことができたから信じられたのだ。今は、イエス様に会うことができない、だから、信じることは難しい…」と。
 でも、今日の箇所から、そうではないことがわかりますね。この時、イエス様を目の前にしても、直接、イエス様の話を聞いても、天の声を聞いても人々は信じることができなかったのです。昔も、今も、たとえどんなに素晴らしい「奇跡」をみたとしても、「驚くべき出来事」を経験したとしても、(もちろん、私たちの想像を超える奇跡やみわざを経験できたら素晴らしいことです。そのような不思議な経験を通して信仰を持ったという方もおられます。)しかし、それがあるから、イコール、イエス様を信じられるかというとそうではないということがわかりますね。
 ヨハネは福音書のはじめ1章でこう記しています。
 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1章9節〜11節)
 「まことの光」であるイエス様がこられたのに、人はそのお方を受け入れることができない。わからない。信じられない。それが人の姿です。
 それでも素晴らしいのは、イエス様は、そのことを承知の上で、それでも、私たちのところにきてくださいました。そして、この時も「お前たちなんて、もう知らない」とはおっしゃらずに、語り続けてくださるのです。イエス様は諦めないお方なのです。
 今日の箇所の最後で、イエス様は彼らに切実に願っておられますね。
 「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(12章35節、36節)
 ここからも、イエス様の私たちに対する熱いみ思いを感じます。
 「光であるわたしは、ここにいます。だから、わたしを信じてほしい。」
 「光とともに歩めば、あなたを闇が覆うことはない。」
 「光であるわたしを信じたら、あなたも『光の子』として生きることができる。」
 「だから、今、心を開いて、わたしを信頼し受け入れてほしい。」
 「『いつか、信じるから』と、先延ばしにしないでほしい。」
 
 皆さん。これがイエス様の私たちに対する心です。このような、熱い思いをもって、イエス様は、十字架の苦しみへと一歩一歩、歩んでくださったのです。
 新約聖書のヘブル4章7節にこうあります。
 「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル4章7節)
 今朝の招きのことばでも読んでいただきました。
 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(イザヤ55章6節)
 もちろん、聖書は全体を通して、誰でも、いつでも、主の方に向くなら、主にお会いできると約束しています。救いの扉はいつも全開です。同時に聖書は、「いずれまた後で」「また、次の機会」と言って、ずっと先延ばしにしてほしくはない。「今日」という日に、「今」この時にイエス様に応答してほしいと語っているのです。
 なぜでしょうか。それほどまでに、イエス様は素晴らしいお方だからです。イエス様は今日も、「あなたを愛している」「あなたを救いたい」「あなたと一緒に人生を歩んできたい。」「わたしという光の中を歩んでほしい」と、願っておられます。そのようなイエス様と共に歩む人生は先延ばしにするのはもったいないほど、確かで、安全で、恵み豊かなものです。
 そして、私たちは、そのイエス様を信じ、恵みの中に生かされている一人ひとりですね。
 そのことを覚えながら、主への感謝と賛美をもって、この週も歩んでまいりましょう。