城山キリスト教会説教
二〇二六年五月一〇日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一二章三六節〜五〇節
 ヨハネの福音書連続説教46
  「神の栄誉より、人の栄誉を」
 
 イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。
37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」
41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
 44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。
46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書を少しずつ読み進めています。前回は、イエス様がエルサレムに入られた後、幾人かのギリシヤ人がイエス様に面会を求めて来た箇所の続きを読みました。その時、イエス様はこうおっしゃいました。
 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12章24節)
 イエス様は、これから起こる「十字架と復活」を指して、「わたしが死ぬことによって、あなたがたがいのちを得る」と言われたのです。でも、それを聞いた弟子たちも、周囲の人々も、イエス様のことばの意味が分かりませんでした。すると、その時、天から、父なる神様の御声が雷のように響いたのです。
 「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」(ヨハネ12章28節)
 天の父なる神様が、「イエス様を通してすでに神の素晴らしさを現わしてきた。そして、さらに十字架と復活によって、その栄光が完全に現されるのだ」と宣言されたのです。その時、イエス様は、「今聞こえた天の声は、あなたがたがわたしのことばを信じるために、神が語られたのです。わたしを信じ受け入れるものは、救いをうけることができる。これまでもずっとわたしは語ってきたし、今、神様ご自身が語ってくださったのです。」と人々にお語りになりました。そこには、イエス様ご自身の「今、わたしを信じてほしい」という願いが込められていることを、前回ご一緒に確認しました。
 
 さあ、今日はその続きです。読んでいただいた36節にはこうあります。
 「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」(ヨハネ12章36節b)
 ここにあるように、イエス様は、この後、十字架に至る裁判の時まで人々の前に出たり、公に話をすることはもうなさいません。次の13章からは十字架を前にして「弟子たち」に向けて語られることになります。ですから、今日の箇所(12章の最後)は、これまでずっとヨハネの福音書で紹介されてきた、「イエス様の公の活動(イエス様がなさったしるしと、大切な教え)の総まとめ」ということができ、大きく二つに分けることができます。
 一つは、37節から43節までです。ここには「イエス様に対する人々の反応」が書かれています。これまでイエス様を紹介してきたけれども、結局人々はどんな反応をしたのかということをヨハネは記しています。
 そして、もう一つは44節から50節までです。ここでヨハネは、これまでイエス様がお語りになった「大切な教え」を改めて振り返りダイジェストのように紹介しています。ですから、ここを読んで、「これまでにきいたことがある内容だな」と思われたと思います。ヨハネが「イエス様、こう言っておられましたね。こんなことも言っておられましたね。」と復習しているからです。
 そして、今日は、特に前半部分の「イエス様に対する人々の反応」を中心に見ていきましょう。
 
1 イエスに対する人々の反応
 
 ヨハネは、イエス様が、これまで多くのみわざを行い、すばらしい言葉を語ってこられましたことに対する、当時の人々の反応として、37節にこう記しています。
 
 (1)「イエスを信じなかった」
 
 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。(ヨハネ12章37節)
 
 ここに出てくる「彼ら」というのはユダヤ人たちを指します。彼らは、旧約聖書を熱心に学んでいました。そこに約束された「救い主」を待ち望んでいました。イエス様は、聖書の通りに、数々の「しるし」を行われました。でも、彼らはイエス様を信じることができなかったのです。
 その姿についてヨハネは、旧約聖書のイザヤ書を引用してこう言っています。
 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。(ヨハネ12章39節〜40節)
 要するにヨハネは、「人々がイエス様を信じないことは、イザヤがすでに何百年も前に預言している。そのことが起こっているのだ。」というわけです。しかも、それは「神様が人々の目を盲目にされて、心をかたくなにされたからなのだ」と記しているのです。
 でも、皆さん、こういう箇所を読むと思いませんか。「なんだか、納得できないな…。」「だって、神様が人の心を頑なにしておいて、『あなたがたは信じない』と厳しいこというなんて…。」「神様が、ずっと昔から人々の心の目を盲目にされて、信じないと予告されたのなら、人々がイエス様を信じられなくても当たり前じゃないか…。」と思ってしまいますよね。
 けれども、これは「聖書の書き方」なのです。私たちが聖書を読み理解する上でのとても大切なことなのですが、神様は、私たちに自分の意志で「信じる」「信じない」を選択する自由を与えてくださっています。決して、神様の定めた変更不可能な運命や宿命に支配されているわけではありません。
 同時に聖書は、天地を創造し全てを治め支配しておられる神様の主権も語っています。そして、聖書はその視点から記されているので、「人々が自分の意志で信じない」ことを、「神が彼らの心をかたくなにした」というふうに表現するのです。
 ですから、今日のイザヤのことばも、「人々が自分の意志で信じなかった。イエス様を拒絶した。」とういうことを「神が彼らの心をかたくなにした」と記しているのです。ヨハネはイザヤのことば引用しながら、この時、目の前でイエス様が素晴らしいしるしを行われるのに、それを見ても、多くの人々はイエス様を信じようとしなかった。自ら願わなかったということをここで伝えているのです。
 
 (2)「イエスを信じる者がたくさんいた」
 
 そして、イエス様に対する二番目の反応です。
 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。(ヨハネ12章42節、43節)
 「え、どっちなの?」って思いますね。「さっきは信じなかったといったのに、信じる人が多くいた?」「いったいヨハネさん、どっちなの?」と思ってしまいますね。ここも注意して読む必要があります。
 ここでの「イエスを信じる」というのは、「イエスが特別な人であることを認める」というような意味です。つまり、イエス様をある程度は認めながらも、自分の救い主として信じ従うことはしない人々がいたということなのです。
 これまでヨハネの福音書を読んできましたが、ヨハネは、時々「イエス様を信じる」という表現を「表面的にイエスを認める」という意味で使うことがありましたね。
 例えば、ヨハネ2章23節−24節です。
 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。(ヨハネ2章23節、24節)
 この「信じた」は、当時の人々が、イエス様のみわざをみて「この人は、すごい人だ」という表面的な信じ方です。「イエス様を救い主として、心から信じて従っていく」という信頼の姿ではありませんでした。
 だから、ヨハネは今日の箇所でも、指導者たちの中でイエス様に好意を持っている人たちもいた。イエス様をある程度は認めている人もいた。でも、「会堂から追放されてしまうから」「自分たちが属している集団から追い出される。人生に波風がたってしまう。」と、イエス様を信頼して生きていこうとはしなかったと伝えているのです。
 どうして、ヨハネがこのことを書いているかというと、実は、ヨハネがこの福音書を記したとき、イエス様が復活され天に昇られてから、もう数十年がたっていましたが、キリスト教会も同じような状況に置かれていたのです。
 クリスチャンに敵対する人々がたくさんいました。イエスを主と告白する人々が、自分たちのコミュニティから追放されたり、迫害を受けるというような困難が襲ってきていました。
 ヨハネは、そのことも意識しながら、福音書の読者をこう励ましているようです。
 「私たちがイエス様を信頼し、従って歩んでいくことは困難も伴うのです。時には、自分たちが属している集団から追い出されたり、人生に荒波がたってしまうかもしれない。」
 「それでも、ここまで紹介してきたように、イエス様はあなたを愛しておられる、あなたを招いてくださっています。あなたと人生を歩みたいと願っておられる。」
 「そして、イエス様も苦しみを通られ、困難を経験された、そのイエス様がどんなことがあってもあなたと共に生きてくださるのです」ということを、ヨハネは、ここまで福音書の前半部分を通してイエス様のみわざとことばを紹介しながら伝えているのです。
 そして、今でもイエス様を信じることで困難を経験することがありますね。イエス様を信じるが故に、仲間外れにされたり、つらい状況に置かれるときがあるかもしれません。「イエス様、あなたを信じてクリスチャンになったのに、何故こんなに苦しいことが起こるのですか。」「神様どうしてですか。」と思うときがあるかもしれません。でも、神様は確かにイエス様を信じていきてゆくとき、苦しみや困難もあるけれども、ちゃんとこうも約束してくださっています。今日の招きのことばです。
 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8章28節
 文語訳聖書では、「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者のためには、すべての事、相はたらきて益となるを我らは知る。」です。「相はたらきて」です。あらゆる出来事が互いに影響し合って益となるのです。
 私たちがイエス様の愛を知り、イエス様に信頼しながら生きるとき、この世界の全てをお創りになり、すべてを治めておられる主は、私たちの人生に起こる、困難も、試練も、「すべてのことを働かせて益としてくださる」のです。
 もちろん。イエス様を信頼して生きることは、勇気がいります。実際、波風が立つかもしれません。戸惑ったり、恐れたり、躊躇することもあります。でも、イエス様は、今日もおっしゃるのです。「大丈夫。わたしを信頼しなさい」、「わたしを信じる者は、決して闇の中を歩くことはない。」「わたしを信頼するものは、失望することはあっても、失望に終わることはない。」と、主の守りと豊かな恵みを一人一人に語ってくださっているのです。
 ですから、ヨハネは、そのようなイエス様が語られた数々の約束のことばを、12章の締めくくりとして44節から50節で、「大切な教えのまとめ」として振り返っているのです。
 
2 イエスが語られた大切なこと
 
「え、先生、だいぶ時間が立ちましたが、今から2番目のポイントを話はじめるのですか?」と思われたかもしれませんが、安心してください。ここの内容は、すでにこれまで詳しく見てきた箇所ですから、今日はもう詳しくお話しません。是非、おうちに帰ってから、それぞれにもう一度読んでいただけたらと思います。そのために幾つかのポイントだけご紹介しておきます。
 
 (1)「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」(44節、45節)
 このことは8章で詳しくみました。「イエス様と父なる神様は一つだ」ということです。もし、私たちが「神様がよくわからない」と思うなら、聖書を通してイエス様をみればよいのです。
 
 (2)「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」(46節、47節)
 これは、1章、3章、8章で何度も語られました。イエス様は、暗闇を照らすまことの光なる方として来てくださいました。その目的は、世をさばくためではなく、世を救うためです。
 
 (3) 「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(48節)
 これも3章で語られました。救い主なるイエス様を「要りません」と拒否するなら、自ら「さばき」を招いていることになるのです。でも、受け入れるなら救われるというメッセージです。
 
 (4)「わたしは、自分から話したのではありません。…わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」(49節、50節)
 これは7章で語られました。イエス様のことばは、神のことばだということです。だから、イエス様のことばが納められた福音書も、聖書全体も、神様のことばです。
 
 是非これまでの箇所を振り返りながら、イエス様が語られたことばを味わっていただけたらと思います。
 
 皆さん。今日は「神様の栄誉」より「人の栄誉」を求めるあまり、イエス様を信じ生きることを躊躇してしまう人たちの姿を学びました。でも、私たちも、そのような弱さをみんな持っていると思います。だからこそ、イエス様は変わらない聖書ことばをもって、いつも私たちに語りかけてくださっています。そして、聖霊なる神様が、みことばを思い起こさせてくださり、いつも私たちを助けてくださいます。ですから、私たちは天の父なる神様、御子イエス様、聖霊なる神様、三位一体の神様により頼みながら、聖書の約束を信頼しつつ歩んでまいりましょう。
 
 そして、いよいよ次週、13章からは、「十字架と復活のみわざ」がしるされていきます。13章1節は、「イエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13章1節)ということばから始まっていきます。そのイエス様の愛と恵みを心に留めながら、ヨハネ福音書をご一緒に読みすすめてまいりましょう。