城山キリスト教会説教
二〇二六年五月一七日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一三章一節〜一七節
 ヨハネの福音書連続説教47
  「愛を極みまで」
 
 1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
 12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書は大きく二つにわけることができます。前半は、1章から12章までで、イエス様がなされた「みわざ」と、語られた「教え」が記されています。それらを通して、イエス様が神の子であり、聖書で約束された救い主、キリストであることが証されています。後半は、今日から読み始める13章から21章です。ここには「十字架と復活」の出来事と、それを前にしたイエス様が、弟子たちに語られた「教え」と「父なる神様への祈り」が中心です。
 そして、13章がどんな言葉から始まるかというと、1節にこうあります。
 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(ヨハネ13章1節)
 この「残るところなく」は、「テロス」というギリシャ語で「いきつくところまで」という意味で、いくつか聖書の訳を見てみると、様々な訳があります。「新共同訳」だと、「イエスは、…世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」「口語訳」は、「イエスは、…彼らを最後まで愛し通された。」「文語訳」は、「イエス…極まで之を愛し給へり。」英語は、シンプルです。"he loved them to the end."(ESV)
 ここまで福音書を読んできましたが、すでにイエス様はご自分の愛を豊かに示して来られましたね。病気に苦しむ人がいれば、お癒しになりました。社会から仲間外れにされている人がいれば友となりました。群衆の空腹を満たし、体も心も養ってくださいました。弟子たちはもちろん、都合の良い時だけイエス様のもとに集まってくる群衆であっても、ご自分に敵対する人々にさえ、愛を示して続けてくださったのです。
 そして、ご自分が、いよいよこの世(地上)から去るとき、十字架と復活を直前に控えた、この時も、弟子たちを(イエス様を信じる一人一人を)、「いきつくところまで」「十字架で死ぬまで」、愛してくださるのです。
 皆さん、時々、「死ほど〇〇」って言うことがありますね。 でも、本気で死ぬわけじゃないですよね。でも、イエス様は、実際に「死にいたるまで」、「死ぬほど」私たちを愛してくださったのです。その愛が、13章以降で紹介されていくのです。今日の説教タイトルにあるように「愛を極みまで」注ぎ尽くしてくださるイエス様の姿です。
 
 さあ、今日は、その一番初め、イエス様が「弟子の足を洗われた」出来事です。ご一緒に見ていきましょう。
 
1 弟子の足を洗うイエス
 
 3節から5節にこうあります。
 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。(ヨハネ13章3節〜5節)
 ここあるように、イエス様は既にご自分がこれから十字架にかかることをご存じでした。そして、弟子たちと共に夕食をとっておられると、立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って、腰にまとわれました。ちなみに「上着」は複数形です。つまり、着ている服を脱いで上半身裸になったということです。そして、たらいに水をいれて、その水で弟子たちの足を洗い始めたのです。
 実は「上半身裸」で「水で客人の足を洗う」行為、何を意味していたかお分かりですか。その家の「奴隷」の姿であり、「奴隷の仕事」でした。当時の人々が「足を洗う」のは、宴会などで招かれた家に外から入る時でした。パレスチナ地方は乾燥して土が舞いやすいですし、サンダル履きです。当然、足は汚れています。ですから、招かれた人は家に入る前に必ず足を洗うのです。多くの場合、奴隷がその役割でした。
 この時、弟子たちが滞在した家に入ったときに、実際に奴隷がいて彼らの足を洗ってもらったかどうかはわかりません。そうでなくても自分たちで洗って家に入ったはずです。つまり、既に足を洗い終わった状態なのに、食事の最中にイエス様が急に立ち上がって、もう一度、彼らの足を洗い出したのです。しかも、奴隷の姿です。弟子たちはびっくりしました。「イエス様、何をなさるのですか。足ならもう洗いました。しかも、こんなことイエス様がすることじゃありません。」そう思ったでしょう。でも、イエス様は、黙々と、その中で一番地位の低い「奴隷」の立場に身を置かれ、弟子の足を洗らわれたのです。
 
2 足を洗うことの意味
 
 弟子たちは、驚いて疑問を抱きながらも、イエス様に質問する勇気がありません。静寂の中で、イエス様がたらいの水をすくう音だけが響きます。その時です。一番弟子のペテロが口を開いて、みんなが聞きづらいことを聞いたのです。
 「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」(ヨハネ13章6節)
 「イエス様、あなたは私たちの主人です。なぜ、奴隷の仕事である足を洗われるのですか?」
 イエスは優しくお答えになりました。
 「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13章7節)
 でも、ペテロは納得がいきません。イエス様!「決して私の足をお洗いにならないでください。」(ヨハネ13章8節)と言いました。すると、イエス様が大切なことをおっしゃいました。そのことばには、イエス様が「足を洗われた」ことの大切な意味がこめられているのです。
 
 (1)「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13章8節)
 
 このことばを聞くと、一見、突き放しているようにも感じますが、そうではありません。この時、イエス様は、弟子たちの足を洗うために「上着を脱ぎ」、足を洗い、そして、「上着を着た」と書かれていましたね。ヨハネは、わざわざ、「上着を脱ぎ、そして着た」、と記しているのです。
 実は、「脱ぐ」というギリシャ語は、ヨハネ10章17節で、「わたしが…自分のいのちを捨てる」の「捨てる」と同じです。また、聖書では、「上着を脱ぐ」という表現が「死」を意味し、「着る」ということが「よみがえる」という意味で使われることがあります。例えば、第二コリント5章です。
 「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです」(第二コリント5章2節)
 ここでの「着る」は「よみがえる」ということです。つまり、この時、イエス様が「足を洗われた」ことは、イエス様の「死と復活」によって、「罪のきよめと赦し」がもたらされることを示しているのです。
 イエス様が、一人一人の足を洗われた水は、十字架で流してくださる血を示します。イエス様の十字架の血潮こそ、すべての罪を洗いきよめるものであることを、聖書は私たちに教えているのです。ですから、イエス様が足を洗ってくださるのを拒否するということは、イエス様の十字架の血によって罪を洗いきよめていただくことを拒否することなのです。だからこそ、イエス様は「わたしにあなたの罪を洗い流させておくれ」と、愛をもって語って下さっているのです。
 皆さん。イエス様と私たちの関係は、私たちの一番汚いところである「罪」を洗っていただくことから始まっているということです。ということは、私たちはイエス様の前に何も取り繕う必要はありません。「こんなところお見せできない」なんて考える必要もないのです。なぜなら、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」(第一テモテ1章15節)からです。
 もちろん、ペテロは、そのような意味には気づかないのですが、イエス様から「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありませんよ。」と言われたので焦って言いました。
 「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」(ヨハネ13章9節)
 「イエス様、関係ないなんていわないでください。だったら足だけでなく手も頭も、全部洗って下さい!」本当にペテロはどこか憎めない存在ですね。そんなペテロをイエス様はやさしく受け止めてくださり、続けて、こういわれました。
 
 (2)「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」(ヨハネ13章10節)
 
 このことば、少し意味がわかりづらいですね。実は、いくつかある古い有力な写本には、「足以外は」ということばがなくて、「水浴したものは洗う必要がない」とだけ書いてあるものもあります。
 ですから、ここでのイエス様のことばの意味は、「一度、水に入って体をあらったら、全身きれいになる。それと同じように、わたしに洗いきよめられた人は、もう完全にきよいのです。」ということです。
 
 @「罪の赦しは完全」
 
 ここからも、大切なことを教えられます。イエス様が足を洗ってくださる、つまり、十字架の血潮によって私たちの罪を洗いきよめてくださるというのは、一回限りで完全なものだということです。イエス様は何回も十字架にかかる必要はありません。ただ一度十字架にかかることによって、全ての罪を完全に解決してくださいました。また、私たちが一度、イエス様を信じて受け取った「罪の赦し」と「救い」は、決して失われることのない完全なものだということです。
 
 A「信じる者をきよめ続けてくださる」
 
 また、「足以外は」という言葉が加えられた写本があることからも教えられます。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません」ということは、「足は洗う必要がある」ということですね。実は、ヨハネがこの福音書を記した頃、教会の中に一つの問題が起こってきました。「イエス様によって完全に救われたのだから、クリスチャンは罪を全く犯さなくなる」という誤解です。でも、実際はどうでしょう。クリスチャンになってから、一度も罪を犯したことがない人がいるでしょうか。もちろんいませんね。
 イエス様が与える救いは完全です。でも、クリスチャンはもう罪を犯さない、問題は起こらないわけではありません。私たちは、イエス様の十字架によって、すべての罪が赦され、神様の前で義なる者、きよい者と認められました。しかし、この地上で、完成されているのではありません。
 聖書は、私たちはキリストと同じ姿に変えられると約束し、それが実現すると保証しています。でも、今の時点で、それが完全に実現しているわけではありません。私たちは、キリストのように変えられ続けている途中です。弱さのゆえに過ちを犯したり、罪に捕らわれたりすることがあります。サンダルで外出した人の足が汚れるように、この世に生きる私たちの足も汚れることがあります。だから、その都度、私たちは、イエス様が赦し、十字架の血潮をもってきよめてくださることを確認しつつ、歩んでいくのです。
 イエス様は、十字架によって、私たちの過去の罪だけでなく、今現在の罪、そして、これから犯すであろう罪もすべて赦される道を開いてくださいました。
 第一ヨハネ1章10節には、こう書かれています。
 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1章10節)
 だから、もし、自分の罪に気づいたときには、それを神様の前で言い表せばよいのです。イエス様は、この時、弟子たちの足を洗ってくださったように、私たちをすべての悪からきよめてくださいます。感謝ですね。
 
3 互いに足を洗い合いなさい
 
 さて、イエス様は、彼らの足を洗い終わって、こうおっしゃいました。
 「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネの福音書13章14節)
 でも、この直前の弟子たちはどんな態度だったと思いますか。ルカの福音書では、ある弟子は「誰が一番偉いか?」「誰がイエス様の右に座るか、左にすわるのか」と言い合いっていたとあります。また、イスカリオテのユダは、イエス様を裏切ろうとしているのです。弟子たちは皆、自分のことしか考えていなかったのです。
 しかし、イエス様は、この弱くて自分のことしか考えることができない弟子たちを、「極みまで」愛してくださるのです。その上で、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきなのですよ。」と、勧めておられるのです。
 
  @「しもべの心で仕え合う」
 
 「互いに足を洗い合う」とはどういうことでしょう。それは「しもべの心で仕え合う」ということです。ということです。「仕える」は、「本来の立場から降りて、低くなって、自分を相手より下におく」という意味があります。主であり師であるイエス様がそれをしてくださり、愛をしめしてくださったのです。
 
 A「互いの弱さを認め、補い合う」
 
 また、「互いの弱さを認め、補い合う」ことでもあります。イエス様は、弟子たちの一番汚れたところにその手で触れて、きよめてくださいました。もっとも弱いところに触れてくださったとも言えます。
 私たちは、時々、自分自身の、そして、お互いの汚い部分や弱い部分を見て失望することがあるかもしれません。でも、イエス様はそこに御手で触れて、きよめ、強めてくださるのです。
 でも、このように聞いてどう思われますか。「互いに愛し合うこと」、難しいですね。自分の内側からは出てこないかもしれません。だから、そんな私たちにイエス様はこういってくださっています。
 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13章15節)
 イエス様は、何もせずに、高いところから命令するのでなく、ご自分が「模範」となって、一番、低くなって見せてくださったのです。そして、聖書は何といっていますか。イエス様を信じる私たちは「イエス様の中」に入れられたとあります。私たちに愛はないけれども、イエス様の愛の中に私たちは入れられたのです。
 そして、同時に聖書は、イエス様が(助け主なる聖霊が)信じる私の内に住んでくださるといいます。愛の源であるお方が、私たちをイエス様に倣って生きる者として、少しずつ少しずつ造りかえてくださるのです。私たちは、すでにキリストの愛の中に入れられた者です。
 ですから、イエス様は最後に、すばらしい約束を与えてくださっています。17節です。
 「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」(ヨハネ13章17節)
 イエス様が言われた「祝福された生涯」、それは、イエス様の愛を受け、その愛に生かさていく生涯です。イエス様は、私たちの汚れを、弱さを、全てご存じの上で受け入れきよめてくださいました。ですから、「私は赦された者」「愛されている者」「御霊によって、イエス様に似た者と変えられつつある者」、そのことを覚えつつ、「祝福された生涯」を送らせていただきましょう。
 今日は最後に「イエスが愛されたように」を賛美しましょう。