城山キリスト教会説教
二〇二六年五月二四日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一三章一八節〜三〇節
 ヨハネの福音書連続説教48
  「何度も、何度でも」
 
18 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。
19 わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。
20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
 21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
22 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。
23 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。
24 そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」
25 その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
26 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
27 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
28 席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。
29 ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。
30 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。(新改訳第三版)
 
 ヨハネの福音書13章をご一緒に読み進めています。
 前回は、イエス様が弟子たちの足を洗ってくださった箇所でした。これは、イエス様が十字架にかけられる前夜、最後の晩餐での出来事です。イエス様は夕方から弟子たちと一緒に「過越の食事」をされていたのですが、その最中に着ていた上着を脱いで上半身裸になり(奴隷の姿で)弟子たちの足を洗ってくださいました。そして、その直後、イエス様がユダの裏切りを予告されるのです。
 皆さん。「裏切りの予告」と聞くと、「なんだか今日の説教は暗いテーマだな」と思ってしまいますよね。でも、今日、注目したいことは、イエス様はユダが裏切ることをご存じなのですが、はっきり名指しで「ユダ!何故わたしを裏切るのか!」とはおっしゃっていないのです。イエス様は他の人にはわからないように、ユダにだけわかるように、間接的な表現を用いて話しておられるのです。
 イエス様は、ユダが部屋から出て行ってしまう、最後の最後まで、何度も何度もチャンスを与えて、彼が悔い改めるのを待っておられるのです。
 今日は、そのようなユダに対するイエス様の接し方を通して、そこに表されているイエス様の「愛」をご一緒に考えていきましょう。
 
1 裏切りの予告
 
 前回読んだ箇所の最後の17節で、イエス様は弟子の足を洗われたあと、「(わたしの模範にしたがって)それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」(ヨハネ13章17節)と言われました。
 そして、今日の箇所の最初、18節では、「あなたがた全部の者について言っているのではありません。」と言われています。イエス様は、ユダの名前は口に出さずに「この中にわたしを裏切るものがいる」といわれたのです。
 これまでも、イエス様は何度か「弟子の一人が裏切ること」を語ってこられました。例えば、6章です。
 「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。」(ヨハネ6章70節)
 また、13章10節でも、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」(ヨハネ13章10節)と言われています。
 そして、今日の箇所で「『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです」(ヨハネ13章18節)と、言われています。
 これは、詩篇41篇9節、「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」(詩篇41篇9節)の引用です。
 この詩篇の背景は、ダビデ王が息子アブシャロムにクーデターを起こされた時だと言われています。ダビデが一番信頼していた部下アヒトフェルに裏切られたのです。ダビデの「まさか、アフィトフェルが」という心情が歌われています。イエス様はそこを引用して「それが今起ころうとしている」「わたしを裏切るものがいる」と語られたのです。
 皆さん。ある方は疑問に思うかもしれません。
 「イエス様はユダが裏切ることを知っていたのでしょう。」 「ユダの裏切りがあったから十字架があったのでしょう。」 「それなのにユダが責められるのはおかしくないですか。」と。
 しかし、決してそうではありません。ここで、イエス様は、なぜ、詩篇のことばを引用されたのでしょうか。それは、ユダがアフィトフェルのようだったからです。彼は人気が急落したダビデにつくよりも、人々の心をとらえ若くて将来有望なダビデの息子アブシャロムに鞍替えするほうが得だと考えて裏切ったのです。
 同じようにユダも最初は喜んでイエス様に従いました。「イスカリオテ」は、「都会の人」という意味ですが、ガリラヤ出身の弟子よりも洗練されて、一目置かれていたようです。財布を預かる会計係でした。でも、彼は少しずつお金を着服するようになっていました。自分の欲望をコントロールできなくなっていたのです。また、ユダはイエス様を見ながら、これからのことを考えるうちに、「どうも雲行きがあやしい」「このまま、この人と行動を共にして大丈夫だろうか」考えるようになっていったようです。「最初は華々しい姿にみえた」「政治的リーダーになってローマを打倒してくれると思っていた」「それなのに、今は、その気配もない。ユダヤ当局から命を狙われお尋ね者になっている…」「しかも、『一粒の麦は死ななければ、一粒のまま』とかわけのわからないことを言い始める…」ユダの心は次第にイエス様から離れていったのでしょう。そして、ユダは最終的に自分の意思で選択しイエス様を裏切る決断をするのです。
 もちろん、主なる神様も、イエス様も、全知全能のお方ですからそのことを前もってご存じでした。けれども、神様が運命のようにユダの裏切りを定めたのではありません。ユダが自分で選び取ったのです。神様も、イエス様も、ユダが裏切ることを決して望んではおられません。聖書には神様の御思いを知ることができる箇所があります。
 「わたしは誓って言う。・・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。・・・なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33章11節)
 また、第2ペテロ3章にはこうあります。
 「主は、・・・あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(第二ペテロ3章9節)
 これが神様の(イエス様の)心です。すべての人が滅びることなく救われて永遠のいのちを持って生きることを願っておられるのです。それはユダも例外ではありません。イエス様は、ユダが裏切ることを知っておられましたが、それでも他の弟子たちと同じように足を洗い愛を示されました。でも、残念ながらユダは、イエス様に背を向けて結果として裏切る道へと進んでいったのです。
 この時のイエス様の様子をヨハネはこうしるしています。
 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じあかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」(ヨハネ13章21節)
 「霊の激動を感じ」は、11章で「復活したラザロ」が死んだとき、マリヤや周囲の人々が泣いているのを見て、イエス様が涙し「霊の憤りを覚えた」(11章33節)と同じことばです。
 その時、イエス様は何に対して憤られましたか、人を悲しみと失望に落とす、死の力に怒られたのです。同じようにここでもユダを直接的に責めるのでなく、その背後にある悪の力に対して憤られたのです。
 
2 弟子たちの反応
 
 さて、このとき、イエス様の発言への周りの弟子の反応はどうだったでしょうか?
 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。(ヨハネ13章22節)
 弟子たちはびっくりして、ざわついたのです。同じ出来事が書かれているマタイ26章では、弟子たちが悲しんで「まさか私のことではないですよね。」(マタイ26章22節)と次々に質問したとあります。そうですよね。今まで共に生活してきた仲間がイエス様を裏切るなんてありえません。
 そして、ここでヨハネは「一人の弟子」にスポットをあてます。
 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」(ヨハネ13章23節、24節)
 「イエスが愛しておられた者」、この表現はこの後に何度か出てきます。特に、21章24節で「これらのこと(福音書)を書いた者は、その弟子である。」(ヨハネ21章24節)とあります。つまり、ヨハネの福音書を書いたヨハネのことです。自分のことを「イエスが愛された者」と言えるなんてすばらしいですね。
 さらに、ヨハネは自分のどこに座っていたかを書いています。
 「イエスの右側で席に着いていた。」(ヨハネ13章23節)
 皆さんが、「最後の晩餐」と聞くと、あのレオナルドダビンチの絵(テーブルで椅子に座って)を、思い浮かべるかもしれません。でも、当時のユダヤの「過ぎ越しの食事」はあのようなスタイルではありませんでした。ユダヤの伝統的な食べ方をしていました。それは、低いテーブルがあって、その前にクッションのような座布団があり、そこに左肘をついて、体を斜めにして、足を後ろにのばして、右手で食べ物をつまんで食べるというスタイルです。ですから、「イエスの右側の席に着く」ということは、左肘をついたイエス様の右隣、イエス様の胸元によりかかかるようにして、ヨハネはいたということです。(英語ではreclining at jesus chestとあります。)
 すると、ペテロが(どこにいたのかはわかりせんが)、イエス様の隣にいるヨハネに目くばせしました。
 「そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。『だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。』」(ヨハネ13章24節)「おい、誰のことがきいてみろ」と。さっき足を洗われたときは俺が聞いたじゃないか・・・。
 ヨハネが聞きました。
 「その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。『主よ。それはだれですか。』」(ヨハネ13章25節)
 すると、イエス様がお答えになりました。
 「イエスは答えられた。『それはわたしがパン切れを浸して与える者です。』それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。」(ヨハネ13章26節)
 ここを読むと私たちは、「あれ、こんなことしたら、ユダが裏切者だと、みんなにばれるじゃないですか。」と思いますね。でも、弟子たちには分からなかった。なぜでしょう。
 実は、この時、ユダはイエス様の左隣に座っていたと考えられています。マタイ26章では、この時、イエス様とユダが二人だけで話している様子がうかがえます。間に誰も座っておらず隣同士だったことがわかるのです。
 また、「パン切れを浸して与える」とありますが、当時の過ぎ越しの食事は主人が「過ぎ越しの物語」を語りながら、その場にいる人にパンを浸して渡すというマナーがありました。ですから、イエス様が隣にいるユダに「パン切れを浸した」行動はとても自然なことだったのです。だから誰もユダが裏切り者だとは気付かなかったわけです。
 さらに、「パンを浸して渡す」ことは、食事の席で大切な客人をもてなす行為でもありました。つまり、イエス様はご自分を裏切ろうとしているユダを名指しして責めるどころか、自分の近くで大切に扱われたのです。「出来ることならわたしを裏切ってほしくない」イエス様が、そう願っておられたことがわかるのです。
 
3 夜の闇のなかへ
 
 さあ、ユダはどうだったでしょうか。ヨハネはこう記します。
 「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。」(ヨハネ13章27節)
 イエス様は、ユダが悔い改めるのを待っておられました。最後まで愛を注がれました。でもユダは、そんなイエス様の愛を受け入れず、「サタンが入った」つまり、悪魔に心を支配させてしまったのです。
 その時、イエス様が言われました。
 「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」(ヨハネ13章27節)
 それを聞いた他の弟子たちは次のように思ったとあります。
 ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。」(ヨハネ13章29節)
 イエス様がいつものように、何か仕事を任せたのだろうと思ったのです。並行箇所のマタイ26章には、この時、イエス様とユダの間で交わされた会話がもう少し詳しく記されています。
 イエス様が、「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです」と言われました。するとユダが「まさか私のことではないでしょう」と尋ねます。イエス様は「いや、そうだ」と答えられます。
 ここを読むとイエス様がユダを名指ししているではないかと思われるかもしれません。でも、そうではありません。この「いや、そうだ」という言葉の直訳は「あなたが言った」です。
 つまり、「あなたの心が言っていることをよく聞いてみなさい」「胸に手を当てて考えてみなさい」と、イエス様は、ユダに自分を見つめ直し、方向を変える機会を与えようと促しておられるのです。
 この十字架を前にした「最後の晩餐」の時、イエス様はユダに対してとことん愛をもって接しておられます。決して、ユダを名指しで非難したり裁いたりはなさいませんでした。彼だけにわかる方法で心の向き変えるチャンスを「何度も、何度も」お与えになっているのです。
 しかし、残念ながらユダはイエス様の「愛」ではなく「悪」の力に身を任せました。
 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。(ヨハネ13章30節)
 イエス様に背をむけ「外に出て行って」しまったのです。イエス様は「何度も、何度も」、語りかけてくださいました。でも、ユダは、その呼びかけを無視し、イエス様のまなざしをさけるように、一歩、外へと踏み出すのです。
 そして、ヨハネは「すでに夜であった。」(ヨハネ13章30節)と記しています。とても象徴的な言葉です。この食事が夕食であることは何度もいわれています。でも、ヨハネはあえて「夜であった」とあたり前のことを記しているのです。つまり、すべての人を照らすまことの光としてきてくださったイエス様を拒んでしまう生き方は、「夜」に象徴される「闇」の中をさまよう結果になってしまうということが表されているのです。
 皆さん。今日の箇所を読み、私たちはどう感じるでしょうか。ユダを責めることができるでしょうか。私たちにもイエス様のことが理解できないときがあります。いろんな試練や困難にあうと、「こんなはずじゃなかった」「期待はずれだ」「間違えたかも」と思うことがあるかもしれません。私たちの心は変わりやすくて弱いです。ペテロだってこの後、3度も裏切ります。他の弟子も逃げてしまいます。
 でも、イエス様はそのような弟子たちを、ご自分を裏切るユダさえも愛されたのです。イエス様を裏切って闇へと向かうその足をも洗ってくださったのです。決して、「お前は裏切り者だ!」と名指しで責めず、むしろ、一番大切な客人としてパンを手渡してくださいました。ユダにだけわかるように声をかけ、何度も、何度でも、向きを変えるチャンスを与えてくださいました。まさに「極みまで」「行き着くところまで」愛してくださったのです。
 そして、イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることのないお方です。今、ここにいる私たちに対しても同じです。イエス様は私たちの汚い罪を洗いきよめてくださいました。洗われたその足で闇へと向かおうとする、私たちを決して責めることはせず、それでもなお愛し続けてくださるお方です。「何度も、何度でも」、イエス様に立ち返る機会を与えてくださいます。
 そうであるならば、イエス様に洗っていただいた、この私たちの足はどこに向かうのでしょうか。「闇」ではなく、「光」なるイエス様のもとです。
 私たちは、「主に愛されている者」です。イエス様の胸元によりかかるように、どんなことでもイエス様に打ち明けることができる。疑問があるときは何でも正直にお聞きすることができる。イエス様は、決して私たちを拒まれません。私たちは、そのようなイエス様の愛の中で生かされている一人一人です。
 今日の招きのことばをお読みします。
 「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ40章11節)
 このお方の恵みの中に生かされていることを感謝しつつ、この週も歩んでまいりましょう。