城山キリスト教会説教
二〇二六年六月一四日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一三章三一節〜三八節
 ヨハネの福音書連続説教49
  「イエスが愛したように」
 
 31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。
34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
 36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(新改訳聖書第三版)
 
 ヨハネの福音書を少しずつ読み進めています。二週ほど、間があきましたので、これまでの流れを振り返ります。
 前回は、十字架を前にしたイエス様が、弟子たちとともに食事をされた「最後の晩餐」のときの出来事でした。その時、イエス様は、弟子のひとりであるユダがご自分を裏切ることを予告されました。しかし、イエス様は、皆の前で、「ユダよ、お前は、なぜ、わたしを裏切ろうとするのか!」とはおっしゃいませんでした。決してユダを名指しして責めることはなさらなかったのです。むしろ、その逆で、他の弟子たちにはわからないように、ユダにだけわかるような方法で、「ユダよ。わたしを裏切ろうとする思いを捨て、わたしのもとにとどまってほしい。」という思いを何度も何度もユダに伝えてくださったのです。
 残念ながらユダは、そのイエス様の愛にこたえることができませんでした。イエス様からパンを手渡され、「あなたのしようとしていることをしないさい」と言われたとき、ユダは「ああ、自分が裏切ることを見抜かれてしまった。すぐに行動にうつさなければ手遅れになってしまう」と考えたようです。彼はユダヤ当局者にイエスを引き渡すため、その部屋をでて、 夜の闇の中を踏み出してしまったのです。
 
 今日の箇所は、その続きです。
 イエス様は、ユダが部屋から出ていった後、ユダヤ当局者たちに捕らえられるまでの間に、弟子たちに長いお話をなさいました。その内容が、来週から読む、14章から16章に記されているのですが、イエス様が弟子たちに語られた「告別説教」(ヨハネ14章〜16章)と言える内容です。ヨハネは、とても長いページを割いてイエス様の「最後の説教」を記しているのです。
 そして、今日の箇所はイエス様が語られた「告別説教」の序文(13章31節〜38節)と言える箇所で、大きく三つのことが書かれています。
 第一は、「神の栄光と人の子の栄光」(13章31節、32節)です。
 第二は、イエス様が弟子たちに語られた「新しい戒め」(13章34節、35節)です。
 第三は、これから、「イエスが行くところ」(13章33節、36節〜38節)そこに弟子たちはついていくことができないということです。
 今日は、この三つ内容をご一緒に見てゆきましょう。
 
1 「神の栄光と人の子の栄光」
 
 ユダが部屋から出ていったあと、イエス様はこうおっしゃいました。
 
 (1)「今こそ人の子は栄光を受けました。」(ヨハネ13章31節)
 
「人の子」というのはイエス様のことですね。そして、イエス様が「栄光を受ける」とは、これまで何度もお話ししてきたように、イエス様が「十字架につけられること」です。ユダが出ていき、いよいよその時が来たということです。
 当時の「十字架」は、極悪人を処刑する方法です。ローマにおいては最も惨たらしい残酷な刑でした。ユダヤ人にとっても、「木にかけられた者はのろわれる」とあるように恥と呪いの象徴です。その「十字架」に、何の罪もない聖いお方、イエス様がかかってくださいました。私たち人が受けるべき罪の罰を、呪いを、身代わりとなって、一身に受けてくださったのです。そのイエス様のみわざによって「救いの道」が開かれました。私たちの罪が赦され、神様と人との関係が回復されたのです。「人の子(イエス様)の栄光」とは、この救いの御業が成し遂げられる「十字架の栄光」を指します。
 続けて、イエス様は、こうおっしゃいました。
 
 (2)「神は人の子によって栄光をお受けになりました。」 (ヨハネ13章31節)
 
 父なる神様も、十字架によって、栄光をうけられるということです。十字架は、イエス様ご自身の栄光を現わすと同時に、神の栄光をも現わすものでもあります。なぜなら、十字架によって、「神の愛」と「神の義」が、はっきりと示されているからです。
 皆さん。聖書は、神はどんなお方だといっているでしょうか。ズバリ、「神は愛です。」(第1ヨハネ4章16節)とあります。神様は、愛をもってこの天地の全て、そして、私たち一人一人をお創りになりました。私たちを愛してくださるお方です。
 でも、創世記を読むと、人はその神様に自ら背を向けて、それによって神様との関係が壊れてしまいました。それを聖書は「罪」と呼びます。神様は人を愛しておられますが、「罪」をそのままにすることができないお方です。「罪」には必ず「さばき」が伴うのです。なぜなら、神様は「正しい」「義なる」お方だからです。詩篇11篇7節に、「主は正しく(義であり)、正義(義)を愛される。」とあるとおり、神様は正しいお方だから罪をそのままにすることはできない、正しく裁かれるお方なのです。
 だから、神ご自身であり、罪のないお方であるイエス・キリストが人となってきてくださいました。そのお方が、すべての罪を背負って十字架に架かり、さばきを、罰をすべて受けてくださいました。そして、その十字架を信じ見上げる者は、罪赦され、神様の愛を受けることができるのです。ですから、十字架は「イエス様のすばらしい栄光」であると、同時に、「神様の救いのみわざ」、「神の栄光を現わすもの」でもあるのです。
 さらに、イエス様はいわれました。
 
 (3)「神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。」(ヨハネ13章32節)
 
 これは、「復活」のことです。イエス様は十字架で死なれて終わりではなく、神様がイエス様を死から蘇らせ、天に昇らせ、すべてにまさる栄光をお与えるになりました。そのことをさしているのです。「復活」の栄光です。イエス様は、その「栄光」の時が、今、まさに来たと、弟子たちに語られているのです。
 皆さん。イエス様が、この「最後の晩餐」の後に経験される「十字架」は、想像を絶する苦しみの出来事です。イエス様は、「できるならとってください」と神様に願われたほどです。でも、同時にイエス様は「栄光」を見つめておられたのです。「十字架は、苦しみだけではく、わたしにとって、父なる神様にとっても最高の栄光だ」と言われたのです。
 言い換えるなら、「わたしが十字架でいのちをかけて、あなたを救うことが、わたしにとって『最高の栄光』だ」ということです。それほど、イエス様の目に私たちは価値ある存在だということです。
 物の価値は、それにどれほどの代価が払われたのかでわかりますね。例えば、このマイクに一万円を払えば、私にとって、一万円の価値があるのです。それと同じように、神様は、私たちを罪と死から、買い戻すために、御子イエス様のいのちという代償を、あの十字架で払われたのです。それほど、「あなたに価値がある」ということです。
 だから、もし私たちが、「ああ、自分は誰にも評価されない」とか「自分は無価値だ」と感じたりすることがあったなら、ぜひ思い出してください。「わたしの存在には、神の栄光そのものと言えるほどの価値があるのだ」と。イエス様がそうおっしゃっているのです。
 
2 「新しい戒め」
 
 さて、そのように、イエス様に愛されている私たちは具体的にどのような生き方へと招かれているのでしょう。そのことをイエス様は続けて語られています。34節です。
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13章34節)
 ここでイエス様は、「新しい戒め」とおっしゃっています。でも、旧約聖書を読むとすでに「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とあります。どこが新しいのでしょうか。それは、「わたしがあなたがたを愛したように」という部分ですね。つまり、「イエス様が愛の模範」であることが「新しい」わけです。
 
 (1)「イエス様が愛の模範」
 
 福音書を読むと、イエス様の愛がどのようなものだったか知ることができます。
 イエス様の愛は、「無条件の愛」です。イエス様は人々に何の条件もつけられませんでした。「わたしを信頼しなさい、わたしについてきなさい」と呼びかけ、迎え入れてくださいました。また、イエス様の愛は、「犠牲を払う愛」です。イエス様は人々のために、どのような犠牲も、苦しみいとわず、最終的には、ご自分のいのちをささげてくださいました。また、イエス様の愛は、「理解する愛」です。相手の長所も、短所も、弱さをも理解し、受け入れてくださる愛です。弟子たちに対してもそうでしたね。また、イエス様の愛は、「赦す愛」です。自分に背を向け、裏切り、憎む人をも赦し、その人のために祈られました。ユダに対しても、ペテロに対して、ご自分を十字架につけた人々をも、イエス様は赦されました。またイエス様は、時には、教え、さとし、沈黙されることもありました。適切な距離を取られることもありました。ただ受容されるだけでなく、その人にとって何が必要かをご存じで、その人の「最善をなしてくださる愛」です。
 まだまだ、上げればきりがないほど、イエス様の愛は素晴らしいですね。でも、同時に思ってしまいます。自分には、このような「模範」であるイエス様と同じことなんて到底できないと。そうです。できないのです。
 
 (2)「愛の源」
 
 でも、安心してください。「愛の模範であるイエス様」は、同時に「愛の源」となってくださいます。イエス様ご自身が、信じる私たちの内に働いてくださるのです。そのことを経験したのが、まさに、ヨハネなのです。
 ここまで、福音書に、イエス様の愛をこれでもかと記してきたヨハネですが、聖書を見ると、彼は若い頃、かなり短気で、すぐキレる性格だったようです。こんなエピソードがあります。ある村に入ったとき、村の人たちがイエス様を歓迎しなかったのです。するとヨハネはブチ切れて「イエス様、この人たちを火で滅ぼしてやりましょうか」といったほどです。そんな性格から、イエス様は、ある時、ヨハネに対して「雷の子」(ボアネルゲ)というあだ名をつけられたほどです。
 でも、晩年になって、ヨハネはどうなったかというと、もう口を開けば、「神は愛です…」と語る人になりました。「ヨハネ先生、礼拝メッセージしてください」と言われれば、講壇にあがる度に、「みなさん、互いに愛し合いましょう…それで充分。」と語るほど、「愛の使徒」と呼ばれるようになったのです。
 その理由をヨハネは手紙の中でこう記しています。
 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(第一ヨハネ3章16節)
 「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(第一ヨハネ4章19節)
 「神がまず私を愛してくださったから」「イエス様が命をかけて私たちを愛してくださったから」「イエス様が私たちの内におられ、愛の源となってくださるから」です。「その愛の中に、私たちは入れられているから」です。
 イエス様も、この先14章以降にも何度も何度も、「わたしの愛にとどまりなさい」「わたしにつながりなさい」とお語りになります。つまり、私たちが集中すべきことは、イエス様の素晴らしい愛が私に注がれているという聖書のことばです。その事実です。その聖書のことばにうなずきながら、そこに安息することなのです。
 そのように私たちがイエス様の愛に安息してゆくとき、「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13章35節)とあるように、私たちを通してイエス様の愛があらわされてゆくのです。だから、クリスチャン生活は、何も気負う必要はありません。聖書が約束しているイエス様の愛を受け取り、うなずきながら歩んでゆけばよいのです。
 
3 「イエスが行くところ」
 
 そして、今日の最後で、イエス様はこういわれました。
 「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(ヨハネ13章36節)
 ここに出てくる「今」とは、イエス様の「十字架と復活の前」を指しています。それを聞いたペテロがいいました。
 「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」(ヨハネ13章37節)
 ペテロらしいですね。でも、この後、イエス様がとらえられたときペテロはどうだったでしょうか。「あなた、あのイエスと一緒にいた人だね」と聞かれたとき、「いや、イエスなど知らない!何をいっているかわからない…」と三度もイエス様を否定しました。たった数時間前に、「死んでもついていきます」と言ったペテロが、その舌の根も乾かぬうちに、イエス様を否定したのです。自分の意志や気負いだけで、イエス様についていくことはできなかったということですね。
 しかし、感謝なことは、この時、イエス様は「しかし後にはついて来ます。」といわれています。イエス様の十字架と復活の「後」にです。
 実際、ペテロはイエス様の十字架の後、失望し、打ちひしがれて、ガリラヤで漁師に戻ろうとしていました。でも、そんなペテロのもとにイエス様がきてくださいました。ペテロは蘇られたイエス様と再会したのです。そして、イエス様は、「シモン。あなたはわたしを愛しますか。」(ヨハネ21章17節)と、三度、声をかけてくださって、ペテロは立ち直るのです。
 それだけでなく、イエス様が天に昇られたあと、聖霊が注がれました。ペテロは他の弟子たちとともに大胆にイエス様を伝える者とされたのです。自分の意志や、自分の努力によってではありません。失望し、弱さに打ちひしがれて、それでも尚、イエス様が「愛してくださった」という事実によってです。そして、イエス様を信じる者のうちに住んでくださる聖霊によって、「イエスが愛されたように」、その愛に生きるものとされていったのです。
 今日の招きのことばで読んでいただいたローマ人への手紙5章にこうあります。
 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5章5節)
 聖書のことばは永遠に朽ちることがありません。イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも変わることのないお方です。そのイエス様を信じる私たちに、弟子たちに注がれたのと同じ助け主なる聖霊が与えられています。同じ天の父なる神の愛が、今日も注がれています。ですから、私たちは自分の力や自分の努力だけでイエス様に従っていく必要はありません。気負う必要もありません。私たちの弱さも、足りなさも、すべてご存じのイエス様の恵みに安息し、内からあふれくださる聖霊に身をゆだねつつ、この週も歩んでまいりましょう。
 最後に「イエスが愛したように」を賛美しましょう。