城山キリスト教会説教
二〇二六年六月二一日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一四章一節〜四節
 ヨハネの福音書連続説教50
  「あなたの場所を備えるために」
 
 1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」(新改訳聖書第三版)
 
 ヨハネの福音書を少しずつ読み進めていますが、今日から14章に入ります。この14章から16章には、十字架を前にしたイエス様が弟子たちに語られた「告別説教」が記されています。
 前回の13章の終わりは、その序文とも呼ぶことができる箇所でした。イエス様は、ご自分がついに「栄光を受ける時がきた」、つまり、「十字架」によって、イエス様を信じる者が罪赦されて、「新しいいのち」が与えられる。「救いの道」を開くときがきたといわれました。
 そして、イエス様は、これからの新しい生き方として、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と語られました。「イエス様のように愛し合う」なんて、自分の力や努力では、到底できません。でも、聖書は、イエス様を信じる者のうちに「キリストが生きてくださる」と約束していますね。「愛の模範」であるイエス様ご自身が、私たちの「愛の源」、愛そのものとなってくださるのです。
 また、イエス様は、「今は、わたしについてくることはできないけれど、十字架と復活のみわざの後、あなた方はわたしに従うことができる」とお語りになりました。
 そして、この内容は、これから紹介される長い「告別説教」の中で、何度も繰り返し語られ深められていくことになります。
 
 さあ、今日の箇所に入りますが、ここでは、「イエス様がこれから行かれる場所とはどこなのか、イエス様は何をしに行かれるのか」が、詳しく紹介されているのです。大きく三つのことが言われています。
 まず、イエス様は、「心を騒がせないで、わたしを信じなさい。」と言われました。そして、イエス様は、「天の場所を備えにいく。」と言われました。さらに、「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と言われました。これらのはバラバラの話ではなく一つの流れになっているのです。イエス様の十字架は別れではなく、永遠の場所を備えるための道であるというメッセージです。ご一緒にみていきましょう。
 
1 「心を騒がさないで、わたしを信じなさい」
 
 この時、イエス様は「最後の晩餐」の席で、弟子たちに「わたしを裏切る者がいる」と言われましたね。それを聞いた弟子たちは「誰がイエス様を裏切るのだろう」と心穏やかでありませんでした。
 また、イエス様が「あなたがたは、これ以上わたしについてくることはできない」と言われると、ペテロが言いました。「イエス様、あなたのためなら、いのちも捨てます。どこまでもあなたについて行きます!」でも、イエス様は、「ペテロよ、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われました。
 ペテロや弟子たちにしてみれば、すべてを捨ててイエス様に従って、今までついてきたのに、心中穏やかではないはずです。なんだか「イエス様に見捨てられてしまったのではないか」そう思ったかもしれません。そんなときに、イエス様が言われたのです。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14章1節)
 これは、けして表面的な励ましではなく、人が持つ深い不安に届く言葉なのです。ここで「心を騒がす」と訳されていることばは、「心をかき回されるような、苦しみや不安を引き起こす」という意味があります。どのようなときに使われているかというと、実はヨハネの福音書で、イエス様ご自身が「心を騒がせた(激動した)」と書かれている場面があります。それはラザロの死の時(11章)と、「一粒の麦」の譬えで、十字架を予告された時(12章)と、ユダの裏切りを予告された時(13章)でした。
 ここからわかるのは、イエス様が心を騒がせられたのは、単なる気分の問題ではなく、人間にはどうすることもできない、「人間がどうしても解決することができない罪と死、悪の力に対して対決する緊張と苦しみ」を表しているのです。だから、イエス様が「あなたがたは心を騒がせるな」と言われたことばには、「わたしは、これから死の力、悪魔の力に対して対決する。そのためにわたしは霊の激動を覚えている。しかし、わたしは、必ず死と悪魔の力を打ち破って勝利するのだから、あなたがたは心を騒がせなくてよい」という意味が込められているのです。
 皆さん。「罪と死」は、自分では解決することのできない大きな問題です。私たちがいくらがんばって、罪と死の力に対決しようとしても勝つことはできません。でも、イエス様は、その問題を解決してくださったのです。死に対して、罪に対して、いのちをかけて立ち向かい、十字架につき、復活され、勝利を収められました。そのイエス様が「心を騒がせることはない」と言ってくださっているのです。
 私たちがすべきことはなんでしょうか。イエス様が14章1節で言われていますね。「神を信じ、わたしを信じなさい」と。つまり、主なる神様を信じ、イエス様を信頼して生きていくことです。なぜなら、イエス様が、人が逃れることのできない「罪」そして、罪によってもたらされた「死」という、人生において最も大きな問題を解決してくださったからです。
 そして、皆さん、イエス様が最も大きな問題を解決されたなら、当然、私たちの毎日の生活の中に起こる、どんな問題もご存じで、「大丈夫。心配しなくていい。思い煩わなくてよい」と語り、主の時に、主の解決を与えてくださいます。
 第1ペテロ5章7節に、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第1ペテロ5章7節)と書いてある通りです。また、ピリピ4章にこうあります。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4章6節、7節) 私たちは、このイエス様に信頼し、主の平安に守られて、生きることができるのです。
 
2 「天の場所を備えてくださる」
 
 さらにイエス様は「心を騒がさなくてよい」具体的な理由として、こういわれました。
 「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」(ヨハネ14章2節)
 「わたしの父の家」とは、「天の御国」「天国」のことです。そこにはたくさんの住まいがある、そうと聞くとある方は「なるほど〜、天国は大部屋でなくて、個室なんだな」とか、「ひょっとして地上の生き方で部屋のランクがかわるのかな〜」なんて思われるかもしれません。でも、そういうことが言われているのではないのです。これは、「天国には私たちが入れるだけの十分な場所がある」ということです。「『あなたは入れません』などということはないから、締めだされることはないから、安心しなさい」という意味です。
 実は、当時のユダヤ人にとって、「天の住まい」は「正しい人たちだけが入れる場所」だと考えられていました。律法を遵守し、神様の前に正しく歩んだ者だけが天国に迎えいれらるという信仰です。でも、弟子たちはどうだったでしょう。欠点や間違いだらけです。彼らは、イエス様の語られたことばを誤解し、「イエス様がこの国を力で支配してくれるに違いない」と考えていました。その時には、「誰が一番いい席に座れるか」「自分が一番偉くなりたい」と願っていました。でも、この後、イエス様がとらえられたら一目散に逃げだし、恐れ、失望した様な弟子たちです。
 イエス様はそんな彼らに対して言ってくださったのです。「大丈夫!天国には、あなたがたの住まいがたくさんある」と。しかも、こう付け加えられました。
 「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14章2節)
 天国には、「わたしが、あなたがたの為に準備した場所が、確実にある」ということです。もう予約済みだということです。イエス様が備えてくださる場所は、自分の正しさによって獲得する場所ではありません。「罪人」である私たちの為に、イエス様ご自身が準備してくださる場所です。その為に、イエス様は十字架で死んで葬られ、復活し、天に昇り、それを完成してくださったのです。ただ、イエス様お一人が、人の全ての罪を背負い、十字架にかかってくださいました。それによって、私たちが罪のない者と認められ、天の住まいに入るのにふさわしい者とされたのです。
 だから、私たちは、ただそのイエス様のみわざ、「十字架と復活」を信じ、「ああ、イエス様ありがとうございます。私のためなのですね。感謝します」と受け取るだけでいいのですね。本当に感謝ですね。自分の力で勝ち取る必要はありません。イエス様によって予約済み、支払い済みのチケットをただ受け取るだけで良いのです。
 
3 「イエス様のもとに迎えてくださる」
 
 さらに、イエス様は言われます。
 「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。 わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。 」(ヨハネ14章3節)
 十字架と復活の後、イエス様が、私たちを迎えてくださるということです。この「イエス様が迎えてくださる」ということばには、いくつかの意味が含まれています。
 
 (1)「私たちが生涯を終える時に」
 
 一つは、「私たちがこの世の生涯を終える時に」、天の住まいに迎え入れられるという意味です。
 第二コリント5章1節でパウロは、こう書いています。
 「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(第2コリント5章1節)
 私たち、一人一人が人生を終えるときに、イエス様は私たちを永遠の天の住まいに迎えてくださるのです。天国のことです。
 
 (2)「この世の終わりの時に」
 
 また、イエス様は、「この世の終わりの時に」、もう一度、栄光のうちに来られ、信じる人々をご自分のもとに引き上げてくださると約束されています。第一テサロニケ4章にこうあります。
 「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(第1テサロニケ4章16節〜18節)
 これは、一人一人の人生の終わりだけではなく、この世界全体の終わりのときの約束です。イエス様は、十字架で死なれ、復活し、天に昇られました。今は、父なる神様の右の座に座し、私たちの為にとりなしをしてくださるとあります。そして、イエス様は、世の終わりに再び来られると聖書に書かれています。いつかはわかりません。具体的にどのような形なのかもわかりません。でも、イエス様は必ず戻ってこられます。「再臨」と言います。イエス様は、この天地が滅び去る終わりの時に再び来られ、イエス様を信じる人々を皆、ご自分のもとに迎えてくださるのです。
 実は、私の名前「臨太郎」は、ここからきているんです。父親が、「イエス様の再臨を待ち望む者」という意味を込めて名付けてくれたんですね。正直にいうと、子供の頃は、あまり好きじゃありませんでした。人に説明してもわけがわからないと言われそうで嫌いでした。でも、今は大好きです。聖書の約束の通り、いつか来る終わりの日に、主が私を迎えてくださることを待ち望んでいます。
 
 (2)「今の生活のただ中で」
 
 さらに、感謝なことに、イエス様が私たちを迎えてくださるのは、そのような未来の話だけではありません。実は、「今、この瞬間の生活の中」でも、イエス様は私たちを日々迎えてくださっているのです。イエス様は、「誰でも、疲れている者、重荷をおっているものはわたしのもとにきなさい」と言われました。また、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」とも約束してくださっています。イエス様は、私たちをいつでも、両手を広げて、迎え入れてくださいます。だから、イエス様を信頼する私たちは、いつでもイエス様の愛と恵みの中に迎え入れられて、その中で生きていくことができるのです。
 時々、私たちは自分の状態ばかりみて、「イエス様が迎えてくださるなんて、都合よくないでしょうか」とか、「イエス様はもう私のこと嫌いになったのではないだろうか」とか、「イエス様はあなたなんて知らない」と思っておられるのではと感じることがあるかもしれません。安心してください。絶対にそんなことはありません。あの放蕩息子を迎えた父のように、一匹の羊を探してくださる羊飼いのように、イエス様はいつだって、私たちを喜び迎えてくださいます。
 また、私たちは、自分の生き方がわからなくなることがあるかもしれません。「自分はどの道を進んで行けばいいのだろうか」、「すでに選んだこの道は間違いだったのでは」そんな風に、迷い、後悔し、苦しむこともあります。でも、私たちにイエス様はいつもおっしゃるのです。「わたしのもとにきなさい」「わたしがあなたとともに歩むから」「心を騒がせなくてもよい、わたしを信頼して歩みなさい」と。そのようにイエス様は私たちを迎えてくださり、励まし、導いてくださるのです。
 ですから、イエス様は、「一人一人の人生の終末」においても、「この世界の終わり」においても、また、「今生かされているこの時」においても、私たちを迎えてくださって「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14章3節)と言われるのです。
 「天の御国」は、将来に確約されている「永遠の天の住まい」であるとともに、「今、この瞬間も、主に迎え入れられながら、生きる」歩みでもあるのです。イエス様が私たちと共にいてくださる、今の一人一人の生活の場をも表しているのです。
 もう、十年以上前になりますが、ライフ・ラインで、クリスチャンの小児精神科医の田中哲さんという方にインタビューさせていただいたことがあります。当時、東京都小児総合医療センターの副院長をされていました。田中さんは、何冊か本を出しておられますが、『発達障害とその子らしさ』という本の内容に関してインタビューさせていただきました。その中に大変興味深いことが書かれていました。子どもが自立するための前提条件について説明している箇所で、「家庭にいるという状態は無条件だ」と書かれていたのです。自分が存在する理由を問われることはありません。自分について説明する必要もありません。無条件でいられる場所、それが本来の家庭のあり方で、とても大切だということです。でも、社会に出たらどうでしょう。無条件ではありません。競争があります。主張しなければならないこともあり、厳しい評価にさらされることがあるわけです。その社会で自立して生きるためには、家は「無条件の場所」であることが必要だ、とおっしゃっていたのです。
 もちろん、すべての家庭がそうであるとは言えない現実もあります、でも、今日の招きのことばで読んでいただいた、申命記33章27節にはこうあります。
 「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。」(申命記33章27節)
 「神様が私たちの住む家になってくださる」とあります。神様は私たちを無条件で受け入れ、愛してくださっています。私たちは、その家のようなお方の中に生かされているのです。ダビデも詩篇23篇で「わたしはいつまでも主の家に住まいましょう」(詩篇23篇6節)と告白しています。神の愛を知ればしるほど、私たちはいつまでも主の家に住みたいと願うのです。
 そのような家を、イエス様は私たちの為に備えてくださいました。私たちには、帰る場所があります。自分のありのままを無条件で受け入れられる場所があります。イエス様が十字架と復活によって、備えてくださった永遠の家です。そこから、私たちは、それぞれの生活に出ていくことができるのですね。
 今朝も、イエス様は、私たちにおっしゃいます。「心を騒がせなくてよい、わたしを信頼しなさい。あなたのために場所を備え、わたしのもとに迎えます。」その恵みに感謝しつつ、この週も歩んでまいりましょう。
 最後に「なんと素晴らしい」を賛美しましょう。