城山キリスト教会説教
二〇二六年七月一二日         豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一四章五節〜一一節
 ヨハネの福音書連続説教51
  「道・真理・いのち」
 
 5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
11 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(新改訳聖書第三版)
 
 ヨハネの福音書14章から16章には、イエス様が十字架に架かられる直前、弟子たちに語られた最後の教え、「告別説教」とも呼べる内容が記されています。
 前回の箇所を振り返りますが、イエス様は弟子たちに、「心を騒がせないで、わたしを信じなさい。」と語られました。そして、「天の父なる神様のもとには住まいがたくさんあります。わたしはそこに場所を備え、あなたがたを迎えます。」と約束してくださいました。
 私たちは、みんな、いつかこの地上の生涯を終える時がきます。心臓が止まり、息が絶え、体は朽ちてしまいます。でも、イエス様は約束されました。イエス様に信頼する者に、永遠の「天の御国」が用意されている。イエス様は、私のためにその場所を備えてくださっています。その為に、十字架に架かり、よみがえってくださいました。
 そして、イエス様が備えてくださった「天の御国」は、「やがて」私たちがこの地上の生涯を終えた後に行くことのできる天国のことだけでなく、「すでに」今、イエス様を信頼している私たち。イエス様に信頼し、支えられて、愛と平安を感じながら歩む、この人生においても始まっているのです。
 そのような素晴らしい約束を、イエス様は弟子たちに、そして、私たち一人一人にも語ってくださっています。
 
 さあ、今日はその続きです。
 
1 「道であり、真理であり、いのち」
 
 イエス様のことばを聞いた弟子たちですが、この時、その意味がよく理解できませんでした。だから、弟子の一人のトマスがこんな質問をしたのです。
 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」(ヨハネ14章5節)
 イエス様が、「『父の家には住まいがたくさんある』や、『わしはこれから場所を備えに行く』とか言われても、いったい何のことなのか、よくわからない。イエス様はどこに行ってしまうのだろう。これから何をするつもりなのだろう。」トマスは、そんな思いを持ったのでしょう。
 とても正直な反応ですね。分からないことは分からないのですから、心の中で「一体何のことだろう」「イエス様は何をおっしゃっているのだろう・・・」とモヤモヤ考えるより、正直に聞いた方がずっと良いと思います。
 私たちもイエス様に対して、いつでも、「わからないことは、わからない。」「信じられないことは、信じられない。」と、正直に祈って良いのだと教えられますね。実際、ここでトマスが「イエス様、私たちにはわかりません!」と言ってくれたおかげで、この後、イエス様が語られる大切なメッセージを聞くことができたのです。
 イエス様はこう言われました。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」(ヨハネ14章6節)
 とても有名なことばですね。
 
 (1)イエス・キリストは「道」
 
 まず、イエス様は、「わたしは道である」といわれました。「道」というのは、人の「生き方」を表現することばでもありますね。そいう意味で、イエス様がおっしゃることがわからないというトマスの問いは(トマスにはそんな自覚はなかったと思いますが)「人はいったいどこに向かうのだろうか」という問い、人間の本質をついているとも言えます。
 そんなトマスに、イエス様は答えてくださいました。
 「わたしこそが道なのです」と。
 時々、日曜日の朝、教会に電話があります。
 「もしもし、今日、城山教会に行きたいのですが、場所はどこですか?」
 そんな時は、電話口で説明します。
 「えーと、いまどこにいらっしゃいますか。小田原駅ですか。それでしたらまず西口を出てください。新幹線の方です。」
 「出口を出られたら左に向かって、新幹線の線路沿いに進んでください。突き当たりに信号ありますので、渡って左に曲がって進んでください。」
 「すると青橋という橋があるので、そこを通り過ぎて、さらにまっすぐ進んでください。突き当たったら右に曲がって進むと、競輪場のあたりで、緑の看板があります。」
 「そこを右に曲がって入っていってください・・・」というように説明するのですが、大体うまく伝わりません。電話で聞いている人は初めですから、何が何だかわからなくなってしまいますね。小田原駅から、城山教会までは、だいたい八百メートルなのですが、行き方を説明するは大変ですよね。
 でも、皆さん、決して迷わない良い方法があります。それは、私が小田原駅まで迎えに行って、その人と一緒に教会まで来ることです。それが一番確実です。すると、その人は、安心して途中の景色を楽しみ、「あ、ここにお城があるんですね」と眺めながら、教会まで来ることができます。どちらに曲がるかなどは決して心配しません。なぜなら、目的地を知っている信頼できる人が「道」となって教会まで一緒に来るわけですから安心です。
 私たちの人生、天国へ向かう人生の旅もそれと似ています。私たちは天国の道順を説明されて、一人で一所懸命歩いていっても迷ってしまうし、本当に到着できるだろうかと、確信が持てず、いつも「心騒がせる」と思います。でも、「わたしが道です」といってくださるイエス様が、先にいって「場所を備えて」くださったイエス様が、私たちのところに迎えにきてくださり、いつも共にいて、天の住まいまで導いてくださるのです。
 だから、たとえ私たちが自分で道筋がわからなくても大丈夫です。イエス様を信じて生きていく、イエス様と一緒であるということだけでクリスチャンライフは十分なのです。聖書の中で、イエス様は何と言われていますか。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)と約束してくださっています。ですから、たとえよそ見をするようなことがあったとしても大丈夫です。私たちの方が手を放しそうになったとしても、イエス様が手をしっかり握ってくださって決して離すことはありません。だから、私たちは、安心してこの地上の毎日を送ることができるのです。
 
 (2)イエス・キリストは「真理」
 
 そして、イエス様は、「わたしこそ真理」だと宣言されました。「真理」は、アレセイアというギリシャ語で、古代のギリシャでは「幻想」や「錯覚」の反対語として使われていました。「幻想」「錯覚」の反対ですから、客観的に「正しい事実」ということですね。
 もし、「道」であるイエス様が、「正しい道」、「真理」ではなく、まやかしや幻想、偽りだったらどうでしょう。不安ですよね。そんな「道」を進んだら人生に迷ってしまいます。
 しかし、イエス様は、ご自分が「真理」であると言われたのです。イエス様こそ、私たちが人生の全体重をかけることのできる、「唯一の真理の道」なのです。
 皆さん、私たちに人間は知らず知らずのうちに、「事実」でないことがらに縛られやすい存在ですね。そして、何かに縛られるとき、「不安」や「恐れ」が生じてきます。
 例えば、私たちは、少し体の調子が悪い時に色々考えてしまうことがありますね。「なんだか最近、胃がキリキリする。お腹の調子が悪い・・・」不安になることがあります。そういうときは、病院にいって、ちゃんと検査をしてもらって、正しい診察を受け、検査結果をもとに、お医者さんが「大丈夫です」と、客観的事実を伝えてくれたら安心ですね。
 そのように、「真理」は、人を「恐れ」から解放します。「真理」であるイエス様は、私たちの心にうごめく、「不安」や「恐れ」解放し、自由が与えてくださるお方です。
 
 (3)イエス・キリストは「いのち」
 
 また、イエス様は「わたしはいのちです」とも言われました。「いのち」は、ヨハネの福音書で何度も出てくることばです。もともとのギリシャ語では、「生命」「存在」を意味することばですが、イエス様が言われた「いのち」は、肉体の限りある命のことだけではありません。単に心臓が動いて、呼吸している状態のことだけではないのです。
 これまで、何度も礼拝でお話してきたように、この「いのち」は、「主なる神様とつながって生きるいのち」です。この世界の全てをお創りになって、私たち人間を愛をもってお創りになった主なる神様です。
 創世記には2章には、神様が人に「いのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」(創世記2章8節)とあります。いのちの源である、神様の息が吹き込まれた、そして、神様の語り掛けを、聖書のことばを通してきき、それに応答し、何でも祈ることができる。辛いときは「辛いです」苦しい時は「助けてください」感謝なときは「感謝します」と。そうやって、神様に応答しながら生きる「いのち」です。
 それは、この地上だけでなく、永遠へと続く「いのち」です。イエス様は、その「いのち」を私たちに与えてくださるお方です。イエス様そのものがいのちなるお方だからです。そのお方が、私たち、信じる者のうちに住んでくださるからです。
 私たちクリスチャンの歩みというのは、本当に素晴らしいですね。道であり、真理であり、いのちなるイエス様が、内に住み、いつも共にいてくださるからです。
 
2 「イエス・キリストは、父なる神と同じ」
 
 そして、イエス様は、さらにこう言われました。
 「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネ14章7節)
 少し回りくどい表現ですね。新しい「新改訳2017」ではこう訳されています。
 「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
 つまり、イエス様と父なる神様は同じだということです。同じ本質をもっておられる、だから、イエス様を知るなら、神様を知ることと同じだ、神様がはっきりわかるということです。
 でも、それを聞いても弟子たちはやっぱり意味がわかりませんでした。今度はピリポがこういました。
 「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14章8節)
 すると、イエス様がこう言われました。
 「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14章9節)
 「わたしと一緒に過ごしてきたでしょう。わたしを知っているでしょう。わたしを見た者は、父なる神様を見ているのですよ。」と言われたのです。ヨハネの最初、1章18節にも、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と、紹介されている通りです。
 皆さん。神様は目には見えないお方ですから、時々私たちは、「神様のことがよくわからない」「神様の考えがよくわからない」と感じることがありますね。どうしたらいいんでしょうか。今日のイエス様のことばからわかることは、イエス様を見れば、神様がどのようなお方かわかるのです。そのためにイエス様が人となって、見える存在として、この地上に来てくださいました。
 イエス様の足はいつも苦しんでいる人のところに向かわれました。その手は病んでいる人を癒されました。そのことばは、乾いている人の心を潤されました。そのようなイエス様の存在を通して、私たちは神様がどれほどに私たちを愛し、私たちの存在を喜んでくださっているのかが、わかるのです。イエス様と父なる神は同じだから、同一の本質を持つお方だからです。そのことがはっきり記されているのが聖書なのです。
 
3、「ことば」と「わざ」を信じなさい
 
 今日の箇所の最後で、イエス様はこう言われました。
 「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。 」(ヨハネ14章10節)
 つまり、イエス様のことばは、神様のことば、そのものだということです。イエス様が語られた一つ一つの「ことば」、そして、イエス様について、語られている聖書のことばを信頼しなさいということです。
 さらに、イエス様は、「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14章11節)とも言われました。イエス様がなされたみわざのことです。
 弟子たちは3年半の間、イエス様と過ごしました。その中でイエス様がなされた数々のみわざを経験し、実際に見てきたのです。その目撃証言が聖書です。私たちには、この確かな目撃証言である聖書があります。イエス様のわざ、イエス様を信じるに足る十分な証拠があります。
 その聖書を読み、そのことばに信頼して歩んでゆくとき、聖霊なる神様が、今、聖書を読む私たちの心に働き、「その通りです」とうなずきを与えてくださるのです。
 
 皆さん。私たちは、弟子たちと同じように、「心が騒ぐ」ことの多い時代に生きていますね。でも、大丈夫です。そんな私たち一人一人に、イエス様は今日も語ってくださっています。「安心しなさい。わたしが道であり、真理であり、いのちです。」「そのわたしがあなたと共に歩んでいます。」と、力強く、語りかけてくださっています。そのイエス様を信頼しつつ、この週もともに歩んでまいりましょう。
 最後に「主のみことば待ち望む」を賛美しましょう。