城山キリスト教会説教
二〇二六年七月一九日 豊村臨太郎牧師
ヨハネの福音書一四章一二節〜二一節
ヨハネの福音書連続説教52
「さらに大きなわざ」
12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
19 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
20 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(新改訳聖書第三版)
ヨハネの福音書を少しずつ読み進めていますが、14章から16章までには、イエス・キリストが十字架にかけられる直前、弟子たちに語られた最後の教え「告別説教」と呼べる内容が記されています。
この時、弟子たちは、イエス様が「もうしばらくするとわたしはいなくなる」と言われたことばを聞いて、心配になり、心を騒がせていました。その彼らにイエス様がこういわれました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14章6節)
また「わたしが語る『ことば』と『わざ』によって、わたしを信頼しなさい。」とおっしゃったのです。
そして、この時、弟子たちに語られたように、イエス様は私たちにも同じように「わたしを信じなさい」と語ってくださっています。今、私たちは聖書を通してイエス様の「ことば」を聞き、「みわざ」を見ることができるわけです。
さて、今日の箇所に入りますが、イエス様は続けく12節でこうおっしゃいました。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14章12節)
「これからわたしは、この世を去って、父なる神様のところにいくけれども、わたしを信じる者は、わたしと同じわざを行う、いや、それよりもさらに大きなわざを行う」と、約束されているのです。すごいことですね。
皆さん、「イエス様のわざをおこない」、それよりも「さらに大きなわざ」を行うとは、どういうことでしょうか。今日は、その内容を共にご一緒に考えていきましょう。
1 イエス・キリストの約束
(1) 「わたしの行うわざを行う」とは
イエス様は、信じる者が「わたしの行うわざを行う」といわれました。「福音書」を読むと、イエス様が行われた「みわざ」が紹介されていますね。
イエス様は三年半の公生涯にいて、「福音」を語るとともに病気の人を癒されました。悪い霊に束縛されている人を解放されました。死んだ人を生き返らせてくださいました。さまざまな素晴らしい「みわざ」をおこなわれました。そして、「福音書」の続きである「使徒の働き」には、イエス様が天に帰られてからの出来事が記されています。
そこには何が書いてあるかというと、「イエス様を信じる者」、「イエス様の弟子たち」が、「福音」(十字架と復活)を宣べ伝えたとき、イエス様がなされたことと同じような「わざ」をおこなったことが書かれています。
「使徒の働き」1章で、イエス様は天に帰られました。その時、弟子たちに「エルサレムを離れずに、神様の約束を待ちなさい。やがて聖霊が与えられます。」と約束されました。
そして、2章では、弟子たちがイエス様が言われた通り、エルサレムで一つところに集まって祈っていると、突然、天から激しい風が吹いて、聖霊がくだり、弟子たちは様々なことばで「福音」を語ったのです。そこから彼らは、イエス様の「十字架と復活」を大胆に宣べ伝えるようになりました。そして、弟子たちが「福音」を語るとき、様々な「わざ」を行ったことが「使徒の働き」には記されています。イエス様の御名によって、彼らが病人に手を置いて祈ると病気の人が癒されました。イエス様の御名の権威によって命じると悪い霊に束縛されている人が解放されました。また死んでいる人が生き返るとう出来事も起きました。イエス様の「福音」(十字架と復活)が語られて、そのメッセージが「しるしと不思議なわざ」によって、確かであるということが証され、「福音」が世界中に広がっていきました。まさに、今日の箇所で、イエス様が「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを」行うという約束が実現したのです。
(2)「さらに大きなわざを行う」とは
また、イエス様は、「さらに大きなわざを行う」とも言われましたね。イエス様がなさる「わざ」より「大きなわざ」とはどういう意味でしょうか。これは、決して弟子たちのほうがイエス様より優れたことをするという意味ではありません。神なるお方であるイエス様以上のことを人間がすることはできまさせん。では、「さらに大きなわざ」がどういう意味でしょうか。
「福音書」でイエス様がなされた「みわざ」と「使徒の働き」で弟子たちが、イエス・キリストの御名によって行った「わざ」を比べると、一つ違うところがあります。それは、「活動の範囲」です。
イエス様が活動されたのは「狭いパレスチナ地方」と、そこに住む人々に限定されていました。時々、異邦人の地にもいかれましたが基本的にはガリラヤとユダヤの一部の地域だけでした。イエス様は、神様の救いのご計画にしたがって、三年半という限られた時間の中で、ガリラヤとユダヤという限定された場所で「みわざ」をなさったのです。もちろん、人の力ではなしえない神のみわざです。でも、活動の範囲は時間的、地理的な面において限られていたのです。
一方、弟子たちや、その後、イエス様を信じた者たちはどうだったでしょうか。「使徒の働き」を読むと、最初、彼らはエルサレムにとどまっていきました。でも、その後、使徒の働き1章8節に「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1章8節)とある通り、神様によって世界中に散らされていきました。
そのような点で、弟子たちの「わざ」は、イエス様がなさった範囲よりも、広範囲で大きな影響を及ぼしました。彼らを通して沢山の人々が「福音」を聞き、イエス様を信じていったのです。今日の箇所で、イエス様が「わたしを信じる者は、さらに大きなわざを行うのです。」と言われた約束は、そういう意味において実現したのです。
イエス様のことば真実だから、イエス様の約束が確かに実現したから、私たちにも「福音」が伝えられたのです。だから、私たちがイエス様を信じ、今、このように礼拝をささげていることは、イエス様の約束(聖書のことば)が実現した結果です。
そして、素晴らしいのは、イエス様の「福音」は、私たちイエス様を信じる一人一人を通して、全世界に今もなお広がり続けているのです。イエス様が地上におられた時よりも、広い範囲で、長い時間の中で、素晴らしい神様のみわざが広がり続けているのです。
「いや、私はそんな風に全然感じない」と思われるかもしれません。でも、皆さん。私たちがイエス様を知ったこと、そして、今朝もこうやって主を賛美し礼拝していること、そして、毎日毎日、イエス様とともに生きる歩みの中で、イエス様の「福音」が、「恵み」が、私たちを通して広がっているのです。「福音」そのものに力があるからです。イエス様の約束は真実で、確かなものだからです。その大きな神様の救いのご計画、福音宣教の流れの中に、私たちは既に生かされているのです。
2 イエス・キリストの御名による祈り
続いて、イエス様は素晴らしいことをお話しなさいました。13節、14節です。
わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(ヨハネ14章13節、14節)
ここでイエス様は「わたしの名によって祈り求めることは何でもそれをしましょう。」と言われました。すごいですね。でも、このようなことばを読むとき、ときどき私たちは「祈ったことが何でもきかれる」と、誤解をしてしまうことがありますね。
しばらく前、ある教会に通っている小学生のこどもが牧師に、少し不貞腐れて言ったそうです。「先生、僕、もうお祈りするのをやめた。だって、遠足の前に雨がふらないように祈ったのに雨がふっちゃった。神様は僕のお祈りをきいてくれなかった。」
この気持ちはわからなくもないですね。私たちも「神様に祈った通りにならない」と感じてしまうことがあります。また、「何でも」とあるから、自分勝手な願いでもかなえられると思い込んでしまうこともあります。そして、祈った通りにならないと、先ほどの小学生のように「祈っても聞かれないじゃないか。」「祈っても意味ないじゃないか。」と思ってしまうわけです。
でも、イエス様が、ここで言われた「祈り」には、大切な条件がついていますね。「イエスの名によって」祈るということです。
当時のユダヤ社会では、「名前」はその人の「人格」や「本質」そのものを表しました。ですから、「イエス様の名によって祈る」ということは、「イエス様のご性質、ご人格にあった祈りをする」ことだと言えます。
イエス様は「愛なるお方」です。ですから、愛に反する祈りはお応えにならないでしょう。イエス様は「聖なるお方」です。私たちが自分を罪に向かわせるようなことを願っても、お応えにならないでしょう。
イエス様は「義なる(正しい)お方」です。ですから、聖書で神様がはっきりと示されている「間違った行為」(「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」)につながってしまうような願いは聞かれないでしょう。いや、そのご性質のゆえに、お聞きになることができないといった方がいいかもしれません。
さらに、「イエス様の名によって祈る」というのは、「イエス様の名義を借りて祈る」という意味もあります。普通、誰かの名義を借りるとき、その人の思いや意志を大切にしますね。その人が望まないことはなるべくしないようにします。
ですから、「イエス様の名前によって祈る」というのは、言い換えれば「イエス様の願いにそった祈り」をすることです。 ヨハネはそれを手紙の中でこう言っています。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(ヨハネの手紙第一 5章14節)
ただ、そのように「祈り」について確認し、聖書から学ぶとき、ある方は「なんだか窮屈だな〜」と感じるかもしれません。でも、「祈り」は決して窮屈でも制限があるわけでもありません。私たちは神様にどんなときでも、どんなことでも正直に祈っていいのです。聖書はそう勧めています。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ人への手紙 4章6節)
この聖書にあるように、私たちがどんなことでも、神様に祈り知っていただくとき、時にはその祈りと願いが「開かれる」こともあるでしょう。ある時には「閉ざされる」かもしれません。またある時には、何の動きもなく、神様が「待ちなさい」とおっしゃる時もあるかもしせん。
イエス様は私たちが祈り願うことについてこうも言われています。
「あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもたちには良い贈り物を与えることを知っているのです。まして天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。」(マタイの福音書 7章11節)
天の父なる神様は、私たちを愛し、私たちを知り、私たちの最善をなしてくださるお方です。「祈り」は、そのような神様との会話です。私たちは、最も良いものを与えてくださる神様に信頼しながら、まるで呼吸するように神様と会話しながら生きることができるのです。そのような私たちを通しても、イエス様の「みわざ」が広がっていくのです。
3 もう一人の助け主(聖霊)
さらにイエス様は、そのような祈りを導き、私たちを助けてくださるお方がいると約束してくださっています。「助け主なる聖霊」です。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(ヨハネ14章16節、17節)
「助け主」(パラクレートス)は、「傍らに、呼び寄せられて、立つもの」という意味のことばです。私たちの傍らに立って、声をかけ、勇気づけてくれる存在です。この「パラクレートス」は法廷で「弁護する者」という意味もあります。当時の法廷はプロの弁護士だけが弁護するのでなく、その人の友人や味方になってくれる人が呼び寄せられて弁護したのです。
「パラクレートス」は、100パーセントその人の味方になってくれる「友」言えます。イエス様も「わたしはあなたを友と呼ぶ」といってくださいましたね。イエス様は私たちを弁護してくださるお方です。その方と同じ「聖霊」が来てくださると、イエス様は約束されたのです。いつ、来てくださったのでしょうか。
それは、五旬節(ペンテコステ)という日に実現しました。使徒の働き2章1節から4節に次のように書いてあります。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒の働き2章1節〜4節)
弟子たちが集まって祈っていると、聖霊が弟子たちの上に下られたのです。その時以来、聖霊は信じる者一人一人のうちに住んでくださり、いつも共にいてくださるようになったのです。
今、イエス様は天で父なる神様の御前で、私たちのために弁護してくださっています(第1ヨハネ2章)そして、地においては、イエス様と同じ聖霊が私たちのうちに住んでくださっています。
イエス様は、14章18節でこう言われました。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(ヨハネ14章18節)
イエス様と同じ本質をもったお方である「聖霊」が、「もう一人の助け主」がいつも私たちとともにいてくださるのです。皆さん。もし、イエス様が目に見えるお姿で、この世界に留まっておられたら、私たちがイエスに面会するチャンスはほとんどなかったでしょうね。
しかし、イエス様が天に帰られて、その結果、イエス様と同じ人格をお持ちの聖霊が一人一人のところにきてくださいました。聖霊は目には見えませんが、確かに信じる私たちの内に住んでおられます。私たちを助け、慰め、励ましてくださいます。
ですから、「いつ」、「どこにいても」、「何の制限もなく」、イエス様は、私たち一人一人とともにいて、100%私たちの味方となって、慰め、励まし、支えてくださるのです。今朝も、イエス様は、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と語ってくださっています。その恵みに生かされていることを感謝しつつ、この週も共に歩んでまいりましょう。 最後に、「主は今生きておられる」を賛美しましょう。