城山キリスト教会礼拝説教          
二〇二一年七月一一日             関根弘興牧師
               使徒の働き一章一節〜一二節
 使徒の働き連続説教1
    「わたしの証人」
 
 1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。(新改訳聖書第三版)
 
 今週から「使徒の働き」連続説教を始めます。
 新約聖書の初めには、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書いた四つの福音書が載っています。福音書というのは、人々がずっと待ち望んでいた救い主が遂に来られたことを知らせる書物です。神の御子イエスが人となって私たちのもとに来てくださいました。そして、神様がどのような方であるかを身をもって示し、人としての本来の生き方を教え、様々な素晴らしいみわざを行われました。そして、すべての人の罪を背負って十字架にかかり、救いを完成されたのです。イエス様は、墓に葬られましたが、三日目によみがえり、四十日間にわたって五百人以上の弟子たちのもとに現れて御自分が確かに復活したことを示されました。そして、最後にオリーブ山から天に上って行かれました。そこまでの出来事が四つの福音書に記されているのです。
 では、イエス様が天に帰られた後、弟子たちはどうしたでしょうか。そのことが今日から読み始める「使徒の働き」に記録されています。
 「使徒」というのは、福音、つまり、救い主が来られたという喜びの知らせを人々に伝える使命を与えられた人々のことです。狭い意味では、イエス様に選ばれた十二弟子とパウロの十三人を指します。しかし、一二弟子の中のひとりでイエス様を裏切ったユダが抜けてしまいましたので、一章の後半に記されていますが、マッテヤという人が追加されました。この人たちは、いつもイエス様と行動を共にし、イエス様が復活されたことを実際に目撃した証人たちです。そして、パウロは、最初はクリスチャンを迫害していましたが、復活のイエス様にお会いして劇的な回心をし、主に異邦人に福音を伝える使徒としての使命を与えられた人物です。狭い意味での「使徒」はこの十三人ですが、広い意味では、イエス様を信じる人は皆、使徒であるということができます。その使徒たちによって各地に福音が伝えられ、教会が誕生していった様子がこの「使徒の働き」に記録されているのです。
 では、この「使徒の働き」を書いたのは誰かといいますと、ルカの福音書を書いたルカです。
 ルカは、福音書の最初にこう書いています。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」そして、今日の「使徒の働き」の最初には、こう書いてありますね。「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」
 この「前の書」というのは、ルカの福音書のことです。つまり、この使徒の働きは、ルカの福音書の続きですよ、というわけですね。
 ルカは、医者でした。ルカの書いた原文のギリシャ語は非常に格調高く、とても教養のある人物だったことがわかります。彼は、パウロと共に伝道旅行をした経験があり、救い主イエスの福音の素晴らしさを繰り返し見聞きしていました。ですから、何とかして福音の内容を正確に伝えたいと思って、自分で綿密に調べたことを福音書と使徒の働きに書き記したわけですね。
 ところで、ルカの福音書と使徒の働きは、どちらもテオピロという人に献呈されています。このテオピロは、当時のローマの身分の高い役人であったと思われます。おそらく、テオピロは救い主イエス様のことを知りたいと思っていたのでしょう。何かクリスチャンたちに惹かれる思いをもっていたのかもしれません。私たちもこれから使徒の働きを読みながら、福音によってもたらされる恵みの素晴らしさを味わっていくことにしましょう。
 さて、ルカは、イエス様が天に昇って行かれた時の出来事をルカの福音書の最後にも記していましたが、この「使徒の働き」の最初に、そのことを改めて詳しく記録しています。なぜなら、それは、弟子たちのこれからの生き方を決める大切な出来事だったからです。
 
1 イエス様の昇天
 
 復活されたイエス様は、エルサレム郊外のオリーブ山から天に昇っていかれました。9節に「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」と書かれていますね。びっくりする光景ですね。雲は、神様の栄光の現れとして聖書の中にたびたび登場します。パウロは、このイエス様の昇天について、「イエス様は栄光のうちに上げられた」、また、「イエス様は天の神の右の座に着かれた」と説明しています。それは、今やイエス様が天と地のすべてを支配する一切の権能を持っておられる方だというということを意味しているのです。
 また、ヨハネの福音書の中で、イエス様は、「わたしは、あなたがたのために場所を用意しにいきます。用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と約束なさっています。イエス様は私たちの永遠の住まいを備えるために天に昇られ、世の終わりにまた来て、イエス様を信じる人々をみもとに招き入れてくださるというのです。
 ですから、弟子たちにとって、これからイエス様が天に昇って行かれるということは、誇らしく、輝かしい将来を保証するものに思えたかもしれません。イエス様が、最高権力者となり、いつか自分たちもイエス様のそばに招かれるというのですから。
 しかし、その一方で、弟子たちは、不安も感じていたかもしれません。イエス様が自分たちのそばから離れていってしまわれるからです。そんな弟子たちに、イエス様は、命令と約束の言葉をお語りになりました。
 
2 イエス様の命令と約束
 
(1)「父の約束を待ちなさい」
 
 イエス様が十字架にかかり、墓に葬られた直後、弟子たちは、救い主だと信じていた方が死んでしまったという失意と恐れの中にいました。しかし、復活したイエス様にお会いして、弟子たちはどんなに驚き、喜び、興奮したことでしょう。すぐにでも、出て行ってイエス様の復活を言い広めたいと思ったのではないでしょうか。
 しかし、イエス様は、「エルサレムに留まって、父の約束を待ちなさい」と言われたのです。ここで言われる「待つ」というのは、ある時が来るまでじっとしているということです。これは楽なようで難しいですね。考えてみてください。イエス様の復活を目の当たりにして興奮していた弟子たちですから、「あなたがたはすぐに出ていきなさい」と言えば、みんな出ていったでしょう。「町中に言い広めなさい」と言えば、みんなすぐにでもそうしたでしょう。とてもじっとしていなどいられない気持ちだったはずです。でも、イエス様は「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われたのです。
 「父の約束」とは何でしょうか。それは、「あなたがたに聖霊が与えられる」という約束です。
 ルカの福音書24章49節でイエス様はこう言っておられました。「わたしは私の父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたがいと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。」また、ヨハネ14章16節ではこう言われました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」また、今日の5節では、「もう間もなくあなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」と言っておられますね。「聖霊のバプテスマを受ける」とは、「聖霊に満たされる」とか「聖霊の中に漬け込まれる」という意味です。このことは、これからこの書を読み進めていくなかで、具体的にどのようなことなのかを見ていきましょう。
 聖霊は、「もう一人の助け主」と呼ばれる方です。イエス様が天に帰られた後、今度は、聖霊が私たちの内に住んでくださるというのです。聖霊は父なる神、御子イエス・キリストと同じ本質を持つ方ですから、私たちは聖霊によって神様と救い主イエス様をより深く知ることができるようになります。また、聖霊が私たちを成長させ、必要な知恵や力を与え、導き、守り、愛と平安と必要のすべてを満たしてくださるのです。
 その聖霊が与えられるまで待ちなさいと、イエス様は言われました。もし、ただ自分の知恵や力だけで何かをしようとしても、決して長続きしないということをご存じだったからです。
 そのことは、ペテロもよくわかっていたはずです。イエス様が逮捕されて十字架につけられる直前、最後の晩餐の席上でペテロは「たとい御一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどと決して申しません」と豪語していました。しかし、その直後にイエス様が逮捕されてしまうとすぐに、「イエスなど知らない」と三度も否定してしまったのです。この失敗を通して、ペテロは自分の熱意や根性がいかに頼りないかを思い知ったことでしょう。
 しかし、イエス様は、そんな弱く迷いやすい弟子たちに、「わたしが天に昇って父にお願いすれば、助け主なる聖霊が与えられる」と約束してくださいました。そして、今日の箇所でも「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と約束してくださったのです。
 人として来られたイエス様は、一つの時に一箇所にしかいられません。何人も同時に対応することはできません。しかし、聖霊は、いつでもどこでもすべての信じる人一人一人と共にいて助けることがおできになるのです。ですから、イエス様は、ヨハネ16章7節で「わたしが去って行って、代わりに助け主を遣わした方があなたがたの益になる」と言われたのです。
 弟子たちがこれから神様に与えられた使命を果たしていくためには、自分たちの意志や力に頼るのではなく、聖霊が与えられるのを待つことがどうしても必要だったのです。
 
(2)「知らなくてもよい」こと
 
 イエス様が神様のもとで最高の権威の座に着き、自分たちには聖霊が注がれて力を受けることができる、と聞いた弟子たちは、勘違いをして、こんな質問をしました。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
 この時点での弟子たちの関心は、イスラエルの国の再興ということでした。ローマの圧政によって自由を奪われた自分たちの国をイエス様が再興してくださる、これこそ「神の国の実現」だと考えていたのです。イスラエルこそ神様に選ばれた国だから、それを再興することが神様のみこころだと信じていたのです。
 しかし、イエス様は、1章7節でこうお答えになりました。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」
 聖書では、「イスラエル」は、二つの意味で使われています。一つは、アブラハムの子孫たちで構成される「イスラエル民族」のことです。イエス様の時代には、ユダヤ人と呼ばれていましたが、ユダヤ人たちは、自分たちこそ神に選ばれたイスラエルであり、神様は自分たちの国を再興してくださるはずだと信じていました。しかし、聖書は、ユダヤ人かどうかは関係なく、イエス・キリストを信じる人は皆、本当の意味での神様に選ばれた民、神のイスラエルなのだと教えています。この世の終わりには、その真の意味でのイスラエルの国が確立するでしょう。しかし、それがいつなのか、どんなときなのかは、私たちは知る必要がない、神様に信頼してお任せしていればいいのだということですね。
 イエス様は弟子たちの願いを否定することはなさいませんでしたが、先のことについては、すべてを神様に委ねて生きていきなさいと言われました。私たちも「この世の終わりはどうなるのだろう」「いつ、どんなことが起こるのだろう」と先のことについて知りたい思いを持ちます。しかし、イエス様は、こう言われるのです。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」今は、コロナ禍で、たくさんの情報が流れています。終末が近いなどという情報がネットにあふれています。聖書が終末の時を特定しているかのように吹聴する人たちもいます。しかし、イエス様は、いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです」と言われているのです。すべては神様の御計画の中にあるからです。
 
(3)「わたしの証人となります」
 
 では、私たちは、将来のことは神様にお任せしつつ、どのように生きていけばいいのでしょうか。イエス様は、8節でこう言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」イエス様は、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたはスーパーマンになるとか、完全な人になるとは約束なさいませんでした。苦しみや悲しみがなくなるとも約束なさいませんでした。「わたしの証人」となると約束されたのです。聖霊によって与えられるのは、キリストの証人として生きる力なのです。
 では、「キリストの証人」とは何でしょうか。イエス様がまことの救い主であることを証言する人のことです。聖書から、また、自分自身の体験から、イエス様が救い主であることを証言するのです。私たちは、実際に目撃したわけではありませんが、イエス様の十字架と復活を信じています。なぜなら、聖書に記されている最初の弟子たちの目撃証言を信じ、その結果を自分の生活の中で味わっているからです。第一ペテロ1章8節ー9節にはこう書かれています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
 私たちは、イエス様を信じ、赦されている喜びを知りました。また、永遠のいのちによって生かされ、将来に希望を持ち、今も生きておられるイエス様とともに歩み、聖書のことばに励まされ、支えられながら生きています。そして、礼拝で「イエス様は救い主です」と告白し、賛美し、祈りをささげています。そうすることによって、私たちは、生ける神であり、救い主であるイエス様を証言しているのです。
 
 さて、証言とは、ただ事実を事実として話すことなのですが、時には、正直に話したがために不利な立場や危険な立場に追い込まれてしまうこともありますね。イエス様が「あなたがたはわたしの証人となる」と言われたとき、そのような困難もあることを含めて「証人」という言葉を使われたのではないかと思います。なぜなら、ギリシャ語の「証人」と訳される言葉は「殉教」を意味する言葉と語源が同じだからです。だから、自分の気負いや意志だけでは証人となることはできない、とイエス様は言われているのですね。
 さて、証言をする範囲は決して地域限定ではありません。イエス様は、「エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで」と言われました。まず、エルサレムの町、次にユダヤ地方全体、そして、隣の地域だけれど犬猿の仲であるサマリヤ、そして、地の果てまでもです。つまり、身近な所から波紋のように広がっていくということですね。
 私たちも身近な場所から始まっていくのです。でも、だからといって気負わないでください。「よし、クリスチャンとしていいところを見せるぞ」と気負ってしまうと、だいたい二日か三日で疲れてしまいます。また、逆に「私なんかキリストの証人として失格だ。何の役にも立たない」と自己卑下するのもやめましょう。私たちが、神様を信頼し、喜び、感謝し、賛美しつつ生きていくなら、神様がそれぞれにふさわしく用いてくださるのです。私たちは、ただ「神様、あなたのみこころのままに私を用いてください」と祈りつつ生活していればいいのです。
 先日、こんな話を聞きました。
 ある大工の親方と弟子が、深い森の中を一緒に歩いていると、一本の巨大な節だらけの見事な樫の老木を見つけました。親方は弟子に尋ねました。「この木はどうしてこんなに高く、大きい見事な老木になれたかわかるかね。」弟子は答えました。「わかりません。なぜですか?」すると、親方は言いました。「それはだな。これが役に立たない木だったからだ。もし役に立つ木だったら、とっくの昔に切り倒されて使われていただろう。しかし、何の役にも立たなかったからこそ、これほど見事な木になって、俺たちはその木陰で憩うことができるわけだ。」
 何の役にも立たないと思われていた木が、今では憩いの場所を提供しているというわけですね。
 私たちはどうでしょう。今、自分が役に立っているかどうかとむきになって考えなくてもいいではありませんか。私たちには、欠点も不足もありますが、神様の御計画の中で生かされていることに信頼して、キリストの証人としての意識を持ちつつ、毎日を誠実に生きていれば、それでいいのです。
 
 さて、ルカの福音書には、イエス様が天に昇って行かれた後、弟子たちは「大きな喜びとともにエルサレムに帰った」と書かれています。イエス様は天に帰ってしまわれましたが、弟子たちは、それを悲しむのではなく、イエス様が天においてすべての権威を持って支配されること、そして、約束通りもう一人の助け主である聖霊が遣わされることを確信したのです。
 その後、十日間、弟子たちとその仲間たち一二〇名ほどの人たちが共に集まり、心を一つにして祈りながら、約束された聖霊が与えられるのを待つことになったのです。
 約束を待つことから、使徒の働きは、スタートしていくのです。
 私たちは、使徒働きを読みながら、働きの背後に聖霊の豊かなみわざがあることを覚え、また、その同じ聖霊なる神様が私たち一人一人の内にいて、働いてくださることを覚えつつ歩んでいきましょう。